現実と未来―長めの論評(その3)
- 2012年 10月 15日
- 評論・紹介・意見
- 三上 治
IMF総会が開かれているが、中国の消極的対応と相まって印象は薄い。駅からゴミ箱が撤去されたりして、警察の警備体制が目立つだけである。日本に欧州支援の拠出金を出させるだけが目的のような総会であり、アメリカの肩替りを日本はやっているだけで結局のところそれしか見えない。EUにノーベル平和賞が、中国籍作家にノーベル文学賞が送られたのは現在の世界情勢を鑑みてのことならどこか考えさせるところがある。EU《欧州共同体》の受賞理由が戦争の反省と平和や和解の追求であるというのはなかなか意味深である。経済関係では苦境にあるEUだが、経済矛盾や対立が政治対立に発展することの阻止を願ってのことと見えるからだ。経済的な弱点をはらみつつも政治的対立の回避をEUの存在に望むことは歴史的な根拠のあることだ。尖閣諸島問題の領有権という政治的対立が経済的矛盾にまで進展しつつある日中関係であるが、これへの懸念を想定しての莫言へのノーベル文学賞の授与ならおもしろい。どうせなら、村上春樹とのダブル受賞になって二人で日中の和解の声明でもだしてくれたらよかったのにと思う。間違っても石原慎太郎には声がかからないだろうが、こんな思いが頭を掠める。
尖閣諸島問題だが「戦争になれば日中のどちらが勝つか」という扇動的な記事を垂れ流す週刊誌などの動きを除けばこれも多くの影響を残して鎮まっていくように思う。日中の双方から民族主義的な主張への疑念と批判が出てきつつあるが、今後の中国とアジアの関係を考える契機になればいいと思う。僕は結局のところナショナリズム(民族主議)の矛盾で破綻したかつてのアジア主義をもう一度振りかえりながら、近代以降のアジア関係を考え直してみたいと思っている。憲法のいう「紛争の武力によらない解決」という理念を東アジアでの国家間関係の基本として構築する。そこに展望をみだしつつアジア地域での国家を超えた連帯と共同意識の問題を考えて見たいのである。アジア主義とかアジアという概念を持ち出す場合の批判は分かっているが、近代《明治以降》にアジアでの連帯や共同意識として何が可能かを考えたいというところである。
EUは政治的結合が優先して今経済問題で困難に直面しているがアジアでは政治的結合の媒介が見当たらないのである。かつてならプロレタリア国際主義、つまりはプロレタリアート《労働者階級》の国家を超えた連帯や共同がイメージされたかもしれないが、今はそれを持ち出すことは出来ない。1972年に中国とベトナムの戦争が起こったとき、コミンテルン系左翼のアジア連帯、つまりはプロレタリア国際主義の系譜のアジア連帯は破綻した。その段階でプロレタリア国際主義の理念を掲げてアジアでの連帯の不可能性を示されたのである。その意味では1972年の毛沢東と田中角栄の会談で毛側から提起されたといわれる日中同盟論の事が気になる。何を根底において日中の同盟をイメージしたかに関係するからである。
アメリカの世界戦略の転換(アジア優先戦略)がこの間の尖閣諸島問題の根底にあることはあらためていうことではないにしてもいつも念頭に置いて置くべきことである。これはアジア経済圏の相対的独立《基軸通貨ドル離れと独自通貨の創出》の阻止であり、アメリカの経済的支配力の維持である。アメリカは日本やASEAN諸国の対中脅威論を軸にする政治的同盟論を目論む背後にはこれがあるのだ。ここには日本と中国の政治的関係の難しさを計算してのことであり、これはある程度は効を奏しているのである。日本と中国、あるいはアジア的諸国(ASEAN諸国)との経済的関係はEUと違ってうまく行く可能性がある。それは工業生産を軸にする分業が成り立つ条件がある。しかし、政治的関係はより困難である。というのは政治的結合の媒介が見えないからである。この責任の大半は戦後の日本が日本の近代の歴史に誠実に向きあってこなかったことにある。だから、アジア主義の再検討を言ってもアジアの人々からは相手にされず、右翼の再来ぐらいにしか思われない。そこは十二分に承知の上で、アメリカのアジア支配の戦略と対抗するために、アジアでの政治的な連帯や共同のための理念的な媒介が必要と語りたい。
僕はしばしば「尖閣問題より福島問題だ」と語ってきた。尖閣諸島や竹島問題などの外交―安全保障問題よりは福島などの震災復興問題が中心的な政治課題であると言ってきた。これはあれかこれかではなく、日本社会の課題の中心のことを指摘しているのである。福島の原発震災からの復興と原発問題は日本社会の展望とより切実に結び付いた問題であるのだ。原発廃止を根底に社会の転換を進めることは火急のことがらである。原発問題の進捗がとどまっている。
それは原発が生み出してき膨大な既得権益を保持せんとする部分と抵抗が強いからだ。彼らは自民党政権の復権と官僚《原子力ムラ》主導の原子力行政の復活を志向しているのであり、それに向けての準備と脱原発の動きへの抵抗をやっている。だから、彼らは尖閣諸島問題が政治的中心課題になることを歓迎し、メディア等にテコ入れもしているのだ。誰が見ても復興問題、その中に凝縮されている日本社会の転換の問題が現在の日本の根本問題である。どれほど大事と言っても尖閣諸島の領土的帰属問題はそれだけのことであり、福島をはじめとする復興問題が政治的な中心課題である。ここを明瞭にしていたい。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion1034:121015〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。