台湾「核二」の低レベル放射性廃棄物施設 【台湾訪問記 その1】
- 2012年 10月 22日
- 評論・紹介・意見
- 原発台湾放射性廃棄物青山森人
台湾原発の概観
この9月下旬から10月初旬にかけて台湾を訪問し、反核団体と地元活動家に原発のある町や放射性廃棄物場を案内してもらう機会に恵まれた。
尖閣諸島(台湾名は釣魚台)の領有権をめぐって台湾と日本の巡視艇が放水しあった直後だったので、中国に滞在する日本人のように振る舞いに注意すべき状態なのかと少し心配したが、そのような空気はまったく感じられなかった。見ず知らずの人には日本語で「日本は地震で気の毒ですねぇ」と話しかけられても、反日感情をぶつけられることはなかった。
また、わたしが台北に着いたとき、日本を襲う前の台風17号が台湾の海を大荒れにしているときであった。台北の街は曇っているだけで、せいぜい雨もわずかに降ったか降らなかったかの程度で台風の影響はなかった。あえて影響をあげれば日本で味わえなかった秋の趣が台北で味わえたぐらいである。しかしこの台風のおかげで予定していた「核四(第四原発、建設中)の地元訪問は取り止めになってしまった。
さて台湾の原発であるが、「核一」・「核二」・「核三」・「核四」とぶっきらぼうな名前が付けられている。日本式にいえば第一原発・第二原発……である。稼働中なのは「核一」・「核二」・「核三」で、それぞれ二基の原子炉がある。約2300万人が住む約3万6000平方キロメートルの領土に6基の原子炉が動いている。
台北中心地からわずか北へ約28km離れた新北市の金山に「核一」があり、約25 km離れた万里に「核二」がある(建設再開された青森県の大間原発と函館市はわずか23km)。貢寮にある「核四」も北東におよそ40kmしか離れていない。これらは大都市と隣り合わせの原発といえる。
もし日本のような深刻な原発事故が台湾で起こったら、台湾はもちろん、風向きや海流によって、“国境”を越えて日本・中国・フィリピンにも重大な影響を与えるかもしれないと、世界地図を眺めれば素人ながらも直感してしまう。
台湾で原発計画が登場したのは1960年代で、商業発電は「核一」の1号炉の1978年に始まり、「核三」2号炉の1985年に至る。戒厳令が解除された1987年以前のことであるから政治的自由の無いなかで建てられ稼働した原発である。戒厳令が解除されて民主化が進んだことと、そしてアメリカとソ連の原発事故の影響もあって1980年から登場した「核四」の建設計画は強い反対運動にあうことになる。「核四」はまだ建設中である。原発反対の政治勢力として、台湾独立を綱領に掲げて1986年に創設された民進党があり、日本で馴染みのある主な民間団体としては1987年に設立された台湾環境保護連盟(TEPU=Taiwan Environmental Protection Union)がある。
政治争点となってきた原発
わたしが台湾に初めて行った1990年初頭は、たしかまだ日本の新聞は空港で没収されるかもしれないといわれていたころで、台湾で仕事をしている日本人から「店員はようやく客につり銭を投げてよこさなくなってきた」と(本当の話かどうかは知らないが)よく耳にしたものだ。二度目に訪問した1995年は、発展に勢いのついた自由な雰囲気を覚えたものである。
その1995年、「ノーニュークス・アジアフォーラム」(日本・韓国・台湾・インドネシア・フィリピン・タイ・マレーシア・インドなどアジア諸国からの反核の声を終結させる集まり。第1回目が1993年に日本で、第2回目が1994年に韓国で、第3回目が1995年台湾で開催され、現在も活動)が台湾で開催された。このとき大規模な反原発デモ行進があり、わたしも参加したが、目抜き通りを炎天下、いつまで歩くのか、なんの説明もなく延々と歩かされたのには、はっきりいって、参った。2時間ぐらい歩いただろうか。途中で棄権した人も多かったことを憶えている。この行進は、当時話題になっていた、放射能汚染された資材で建てられ高い放射線値が検出された住宅アパートの前を歩いた。放射能汚染された資材でつくられた道路もこのころ話題となり、核を扱う事業者の杜撰さが強く糾弾されていた。
1990年代の台湾は、民進党の政治的な勢いもあって、反原発運動が盛り上がっていた。しかし原発に反対する市民と民進党には溝があることを、親しくなったTEPU会員で東海大学(台中)の教授はわたしに教えてくれた。その話を証明するように、2000年から8年間、民進党が政権に就いたものの原発問題は曖昧なままに放置されてしまった。現在は1990年代の反原発運動のような勢いは表面上に見せてはいない。政権交代に期待を寄せたものの裏切られた日本人が現在味わっている失望感を、台湾の人はいち早く味わったといえるのかもしれない。
原発問題は台湾では常に重要な政治争点である。1990年代半ば、原発をめぐる論争が激化したあと、ふっと、鎮まった瞬間があった。わたしはなぜ鎮まったのかと、上述した台中の先生が青森県を訪れたときにたずねると、「台湾では世論が二つに割れて論争が紛糾しすぎると中国の存在に気がついて、互いに大人しくなってしまうのです」と答えた。中国の存在が及ぼす台湾人への微妙な心理的な影響があるようだ。
古くなったから満杯にしない
9月29日、わたしは「核一」と「核二」の施設を見学した。台風が去った後とはいえ、北岸の海はまだ荒かった。飛沫をあげる波がすぐ近くに見える場所に「核二」がある。海の近くに原発があるのは日本と同じであるが、こちら台湾では人里離れたところではなく町のすぐ近くに原発風景はある。
午前9時ごろ、われわれはまず「核二」のPR館に集合した。「われわれ」とはTEPUの人たちと地元の住民そして政治家も入れての大人数の一行である。正規の手続きに沿って、これから「核二」の低レベル放射性廃棄物施設を見学するのである。
この“見学ツアー”が始まる前に少し時間があまったので、わたしはPR館の展示物をざっと見てまわってみた。見飽きた青森県の原子力施設PR館と基本的に同じような宣伝内容となっている。大きなパネルに原子力発電所から発電するまでの工程などを示し、録音された解説には日本語もある。福島での事故をうけての防災対策の展示もあった。
写真1:「核二」のPR館にて。福島の事故を踏まえた津波対策を示す。2012年9月29日。
おやっ?と、わたしはある展示にひっかかった。核燃料サイクルの工程を示す展示だ。台湾は使用済み燃料を再処理せずに“直接保存”する方式を採っているのに、なぜ核燃料サイクル図を示しているのだろう。まずそれが不思議である。「なぜ台湾でやっていないサイクル工程を展示しているのですか」とわたしはTEPUの人に疑問を示すと、「さあ、たぶん日本人が来て(展示を)つくったのでしょう」とたいして気にする様子もない。この核燃料サイクル図は、再処理工場はあっても高速増殖炉がなく、サイクル工程で出る高レベル放射性廃棄物と原発から出される放射性廃棄物の違いも示されていない。原発から出る使用済み燃料を再処理工場でプルトニウを抽出し、そのプルトニウムがウランとともに原発に再利用されるような核燃料サイクルの概念図となっている。このサイクル図が正しいか正しくないか科学的なことはよくわからないが、再処理をしてプルトニウムを抽出することを、アメリカそしてとくに中国が軍事的に絶対に許さないことは確かである。
写真2:核燃料サイクル概念図。金ヘンに布と書かれている漢字がプルトニウムを表す。同日、「核二」のPR館にて。
10時半ごろ、見学者一行を乗せたバスは門を通って「核二」の敷地内に入り、すぐ止まった。まるでわれわれは原発側から歓迎されるように低レベル廃棄物施設の中に入った。わたしは青森県で原発や再処理施設の門の前で高圧的な排斥の対応しか経験がないので、こうした出迎えをどう受け止めてよいのか……消化不良を覚えた。写真も敷地内でみんなが撮り放題に撮っている。青森では門の外側から門の中を撮ろうとしただけでも怒られるのに。
写真3:「核二」施設への入門ワッペン。「101」とは孫文が辛亥革命で清朝を倒し中華民国を樹立してからの年号である。
われわれは会議室のような部屋に案内され、担当者がにこやかに低レベル放射性廃棄物の処理の仕組みを図・表そして動画を大画面で映しながら説明する。質疑も受け付けた。わたしは言葉がわからないのでTEPUを手伝う台湾大学の大学院生の通訳を通してしか内容を知ることはできなかったが、担当者は低レベル放射性廃棄物を圧縮させて容積をかなり減少させた実績を強調していた。青森の六ヶ所村では低レベル放射性廃棄物を入れたドラム缶を地中に埋めて貯蔵管理する形式をとっている。その間「300年」というから事実上の埋め棄てである。台湾は地上の建屋のなかで“保管”する。
「ドラム管の寿命は15年だが良い環境のなかではもっと保つ」。「保管施設は耐震設計されている」。マイクを持つ担当者は質問にたいしてこのように答える。大きな声で質問する人はいるが、かといって罵声を浴びせる人はいない。台湾における原発側と反対側との間の取り具合(空気)が日本とはずいぶんと違う。
地中に埋めてしまうより目が届く地上で監視する方が“マシ”かもしれない。しかし大地震や津波に耐えられるのだろうか。担当者は、ドラム管を保存する建屋はいま三棟あり、一棟と二棟は満杯になったわけではないが新しい三棟目を建てたのは、一棟目と二棟目は古くなったからだという。この説明の裏を読めば、古い建屋は安全ではないことを示唆しているように思える。
「廃棄物の管理はいつまで続くのか」という質問には、担当者は「わたしのあとにもこの仕事を引き継ぐ人がいます」と答えると、担当者も見学者も冷ややかに笑っていた。答えようがないことを双方が知っているのだ。(…続く)
写真4:「核二」の低レベル廃棄物貯蔵施設のパンフレット。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion1043:1201022〕
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