永山則夫の裁判における石川精神鑑定
- 2012年 10月 29日
- 評論・紹介・意見
- PTSD半澤ひろし永山則夫
先日、NHK制作の「永山則夫 100時間の告白――封印された精神鑑定の真実」が放映され、再放送も行われた。なぜ現在、精神鑑定が公表されたのであろうか?それについて、番組の中で説明はなかった。この鑑定の主文は日本におけるPTSD概念の導入に先立ってPTSDとして問題を理解した先駆的な内容であると紹介されている。綿密な聞き取りによって永山則夫の犯罪の必然性をその生育した環境から理解しようとしたもので、精神年齢が実年齢より割り引かれるはずのものであることを訴え、矯正可能性を主張し、治療的な展開を期したものであったという。
永山則夫に対する精神鑑定書は一審では無視されて死刑、二審では援用されて無期懲役、最高裁では同じ環境に育って他の兄妹が同様の犯罪を起こしたわけではないことを以て精神鑑定書が提出した見解を退け死刑が確定されたとの経緯が紹介されている。この精神鑑定書が役に立たなかったのはなぜなのか?
過日、PTSDを傷害と認定する最高裁判決が出てニュースになった。これが日本でニュースになるのは、日本に流通しているPTSD理解がトラウマの意味を曲解しているからである。PTSD概念の日本への受容に伴って被った変容から石川鑑定がPTSDとしての理解の先駆と言われるのである。日本においてトラウマがわざわざ「心的」外傷の訳語で記載されるときは、北米におけるPTSD概念が心理主義的な一面化を被っており、PTSDと似て非なる疾患概念である。北米の精神疾患分類に登場したPTSDに言うトラウマは傷害である。そのような意味において永山則夫をPTSDとし、不安障害の下位分類であるPTSDを従来の精神病と同格の精神障害として認定し、犯罪に当たる行為に関わる責任能力や公判維持能力自体をも問題とするのであれば、近代法思想を揺るがす主張となる。
例えばかつて、東大精神科の集談会で、PTSDに罹患した事例で海馬の体積が減少しているとされる所見の追試結果を示して、PTSDの心因論と齟齬する所見であると紹介していた。日本ではPTSDが心因論という話がまかり通るのである。
1960年代、強制収容所開放後20年を経て発症し治療に抗して容易に改善しない無気力状態を呈するドイツにおける強制収容所症候群や復員後しばらくしてから発症し、戦地に戻ろうとすることもあり、病の衣をまとった前線からの逃亡とか愛国心の欠如という従来の意味づけが妥当性を失ったベトナム戦争神経症が、精神医学における心因論の破綻という問題を提起した。
PTSDは、この難関に対処すべく提唱された疾患概念で、日本への受容に際して「心的」外傷と誤訳され、一般には従来の神経症概念を環境因に引きつけて理解する程度の意味で受け取られている。PTSDは、その上位診断である不安障害の疾患としての特性であるが、病状が環境特に対人関係の影響を受けやすい。そこから本人に環境が悪い所為だと意識され疾患としての理解を誤らせがちで、周囲からは逆に自己中心的で他責的と見られ、精神科医もいずれかの片手落ちな見方に巻き込まれ易い。日本ではPTSDの疾患概念は、昔ながらの災害神経症や賠償神経症などの言い換えに過ぎない見方に貶められている。ニュースになった最高裁判決のPTSD理解は加害者の犯行の侵襲性を強調する要請からトラウマ本来の意味が採用されたと考えられる。
交通事故の被害者の精神症状が問題になるとき、PTSDとすれば、賠償問題において最高裁判決のPTSD理解に基づいて傷害と見なされると考えると間違いである。そこでは従来の神経症理解に従って、(賠償責任を負う側の利害を意識した視線から意味を読み込み)賠償への意図的、目的意識的な行動として精神症状は割り引かれ、病状の重症度は値引かれる。日本ではPTSDの上位分類である不安障害は旧来の心因論の軛から逃れられない神経症理解を引き摺っており、交通事故に起因するうつ病の発症と認定しないと過不足ない障害の評価は受けにくい。
永山則夫の精神鑑定書に戻って、石川鑑定は永山則夫の病状をその生育環境から理解しようとするものであると言う。そのような精神疾患の理解は、拘禁性精神障害を、拘禁を全うする立場から、専ら心理的側面から捉え尽くせると見なす見方が組み込まれた司法精神医学の埒内に止まるものである。刑務施設における実務を通して編み上げられた近代社会の秩序維持に関わる司法精神医学は、近代精神医学の源流の主要な一つであるが、絶滅収容所への拘禁体験を潜ったユダヤ人や人間の本性に反する行為を強制される戦場に拘束された兵士に発症した難治の精神障害に対処すべくPTSDが提起した精神疾患理解を排除するものである。PTSDは、従来の司法精神医学が刑務施設の経験から生み出した神経症概念の破綻を踏まえて提起された疾患概念である。司法精神医学とは司法と精神医学のリエゾンであり、司法に奉仕する精神医学で、刑務施設における拘禁下に発来する精神障害に、拘禁を全うする立場から洗練された精神医学の見立てと対処の技術である。
そこでは拘禁性精神障害(刑務施設に被拘束性に発症する不安障害)の病苦を、拘禁を全うする立場からその症状に拘禁からの解放を目指す意図的・目的意識的行動としての意味を読み込み、近代に成立した疾患概念から心因性として排除し、詐病とか仮性痴呆、虚言症などと呼んで現実には仮病扱いし、拘禁刑に伴う苦痛として甘受すべきものとする。不安障害を上位診断とするPTSDのような精神疾患概念は、近年、施設病など、拘禁・拘束の侵襲性が意識されるなど拘禁刑を人道的とする近代刑法思想の破綻に繋がる流れの中で提起されたものである。司法精神医学では、社会秩序の維持に関わる刑務施設の実務に流通する従来の精神疾患の見方が今なお行われており、不安障害を上位診断とするPTSDや拘禁性精神障害は、病気の内に数えられない。
麻原彰晃の訴訟能力をめぐる精神鑑定で、司法精神医学の実務を離れた福島章や小木貞孝は、拘禁性精神障害として治療可能かつ公判維持に耐えないとした意見書を提出した。これに対して西山詮が提出した訴訟能力ありとした精神鑑定には、拘禁・拘束と社会的な孤立・孤独が人間に及ぼす破壊的で深刻な作用を軽視し、それがもたらす重大な精神疾患を心理的に一面化して理解しようとする司法精神医学の無理が露呈している。不安障害における気分易変や刺激性の昂進、間欠的に繰り返される感情興奮、負荷耐性の低下、環境とりわけ対人関係による被影響性・被暗示性の昂進の病的な過剰さ、退行、擬態など、精神疾患としての特性を見極められず、むしろ本人と共にこれに振り回され、精神疾患に対する本人の自覚を促すことができず、過剰な意味づけに一役買い、それを生きさせ、病気に支配された人生に追いやる片棒を担ぐことに成り終わる。池田小学校事件における宅間被告や麻原彰晃の訴訟能力に関わる鑑定はこのような従来の司法精神医学の破綻を露わにした。
永山則夫における生育環境は、永山則夫が罹患した精神疾患の特性としての環境による被影響性、被拘束性の過剰さを媒介に悲劇をもたらす重大な意味をもったのである。この不安障害が本人の犯罪に当たる行為の成立に及ぼした影響の評価を無視する司法精神医学の思考停止領域に対する批判が必要なのである。PTSDは司法精神医学を源流とする神経症概念を正面から批判したところから打ち出される疾患概念である。石川鑑定は永山則夫の病気を的確に摘出して提出できなかった。それも精神鑑定書が無力だった理由の一つである。また、永山則夫は、石川鑑定を丹念に学習することからは、自分の意志を超えて自分を支配する疾患とその特性を意識できないのだから、寺山修司が言うように、「わたしはわたし自身の原因である」とする地点に行き着かなかったのではないかと考えられる。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion1051:121029〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。