「東京から脱原発を」を選挙の争点に!
- 2012年 11月 2日
- 時代をみる
- 加藤哲郎原発都知事選
◆2012.11.1 石原慎太郎東京都知事が辞任しました。わざわざアメリカまででかけて尖閣諸島問題に火をつけ、稚拙な野田内閣の国有化対応で今日の日中関係の困難をつくりだした元凶です。国政に戻って第三極の新党結成をめざすのだそうですが、何しろ「同志」は昔の「青嵐会」血判状の流れを汲む立ち枯れ復古派です。二世・三世議員の世襲政治も困りますが、時計を20世紀に戻すアナクロニズム政治もご免です。新党結成より都知事辞任こそビッグニュースです。都知事選は、11月29日告示、12月16日投票と決まりました。「近いうち」の総選挙よりは早くなりそうですから、まずは候補者よりも先に、争点を民意で決めていきましょう。「脱原発・脱石原」でいいでしょう。かつて広瀬隆さんが『東京に原発を!』という本を書きました。スリーマイル島事故後にJICC出版で1981年に出ていましたが、チェルノブイリ原発事故直後の1986年に大幅に加筆して宝島社から出し、現在は集英社文庫に入っています。続編『危険な話』と共に、当時の日本の反原発運動で、大きな衝撃力を持ちました。映画「東京原発」にもなりましたし、昨年3・11の後、再び「東京に原発を!」の逆説的警告に応えて、福島原発事故を論じるサイトが、続々生まれています。「東京から脱原発を!」を都知事選挙の争点にして、教育現場や新銀行東京・オリンピック誘致財政でも問題だらけだった石原都政との訣別を鮮明にすることが、国政選挙で「脱原発基本法」を争点に押し上げる、絶好のチャンスになります。東京都民には、静岡でいったん暗礁に乗り上げた原発国民投票の機会が、期せずしてめぐってきたのです。国会は未だ機能不全、前回更新で述べた復興予算からは、ベトナムへの原発輸出調査費5億円も発覚しました。国会の同意を得ぬまま発足し、再稼働の責任まで丸投げされそうな原子力規制委員会は、早くも放射能拡散予測のデータミス、近隣住民と地方自治体にとっては深刻です。東京都知事選は、緊急で切実な国民の願いを選挙で示す機会です。
◆私の原爆・原発研究は、チェルノブイリの1980年代は、まだ資料集めの段階です。ようやく50年代の原発導入期を、9月の「日本の原発導入と中曽根康弘の役割」でほぼ終えて、60年代・70年代を、日本社会党と松前重義、社会党推薦原子力委員有澤廣巳を中心に追いかけています。松前重義は、中曽根康弘・正力松太郎が原発を「国策」として出発させるにあたって、決定的な役割を果たしました。有澤廣巳は、1956年の原子力委員会発足にあたって、「労働代表」として5人の委員の一人になり、その後委員長代理までつとめて、73年から日本原子力産業会議会長として石油から原子力への「エネルギー転換」を推進しました。社会党は、1970年代初めに「反原発」政策に転換するにあたって、有澤を批判するようになり、チェルノブイリ事故を経た晩年は、広瀬隆から「御用学者」と告発されます。本サイトでは、国崎定洞と共にドイツでマルクス主義を学んだ、ベルリン社会科学研究会の有力メンバーだったのですが。日本社会党と原発の関係では、松前重義の秘書格で、初期の原発推進に重要な役割を果たした後藤茂・元衆議院議員の『憂国の原子力誕生秘話』が出ました。未だ「原子力の平和利用」を信じるという点では賛成できませんが、貴重な歴史的証言です。最近の原子力基本法への「安全保障」挿入には厳しく反対しています。かつて新聞協会賞を受賞した新潟日報連載ルポ『揺らぐ安全神話 柏崎刈羽原発』や福島原発を推進した元社会党議員など地方の動きと併読すると、高度経済成長の光と影と共に揺れ動いた、日本社会党の原発との関わりがよくわかります。
◆「脱原発・脱石原」の都知事選から「脱原発基本法」に向かうにあたって、歴史的教訓とすべきは、かつて高木仁三郎と原子力資料情報室が全精力を傾けながら挫折した、冷戦崩壊時の「脱原発法」制定運動でしょう。菅直人が自戒を込めて回顧しているように、1988年末に脱原発法全国ネットワークが作られ、1991年までに338万人の署名を集めましたが、熱心に協力する国会議員が社会党のごく一部にとどまり、審議以前に門前払い、高木は「国会とか国・政治という大きな壁にぶつかってこの運動が挫折したことは否定しようもなく、私は大きな挫折感に襲われた」といいます(『市民科学者として生きる』)。世界の先進国はチェルノブイリで脱原発に動き、アメリカさえ新規建設を止めたのですが、日本はここで転換できず、むしろ「安全神話」を強化し、原発増設を続けて、世界第3の原発大国になり、3・11を迎えました。私はこれを、ソ連・東欧崩壊の日本的な受け止め方と関係があると思っています。そのさい、科学者と政党と市民運動のあり方が重要でした。原発シリーズ第1弾「占領下の原子力イメージ」、第2弾「日本マルクス主義はなぜ『原子力』にあこがれたのか」に続いて、今年5月の明治大学講演資料を第3弾「反原爆と反原発の間」としてアップしましたが、そこにもあるように、広瀬隆『危険な話』がベストセラーになって反原発世論が高まった時、「ヒロセタカシ現象にとどめをさしたのは、共産党系といわれている日本科学者会議原子力問題研究会」の科学者たちの広瀬批判でした(中村政雄『原子力と報道』39頁)。「原子力の平和利用の可能性」を信じ続け、「核と人類は共存できない」という森瀧市郎や高木仁三郎らの思想と行動を「反科学」と断罪した、日本共産党の脱原発法運動批判でした。「原子力の平和利用」の夢とあこがれは、社会党や共産党ばかりでなく、黒田寛一や吉本隆明など「新左翼」にも共通したことは、「反原爆と反原発の間」に入れてあります。その吉本隆明について、本サイト学術論文データベースの常連宮内広利さんが、新たに力作「吉本隆明の彼方へーーもうひとつの時間のゆくえ」を寄稿。私とは評価は異なりますが、アップしました。フクシマの悲劇が進行中の現在、科学者も文学者も政党も、同じ過ちを繰り返さないでほしいものです。
「加藤哲郎のネチズンカレッジ」から許可を得て転載 http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.ne/
〔eye2078:1201102〕
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