テント日誌10/31日経産前省テント広場―417日目…時ならぬダンプカーが登場して
- 2012年 11月 6日
- 交流の広場
- 経産前省テントひろば
宣伝カーから降りてきた人が「これから少し騒がしくなりますが」と挨拶にこられた。テントの前に座りながら見守っていると、大型のダンプカー27台が次々と経産省前にやってきた。復興事業に携わる道路建設業の皆さんであり脱原発の申し入れをしにきたのである。経産省前に行ってその訴えに耳を傾ける。
いつも経産省前には播磨屋本店の大型宣伝車が停まっている。鬼面人を驚かすとでも言うような憂国のメッセージが書かれている。三台も連ねられた大型宣伝車も今日は何処かに姿を消したようだ。何故、播磨屋という菓子屋さんがこういう活動をしているのか不思議に思いながらいつも見ているのだが、ダンプか―はこれとは別の迫力があった。
復興事業の現場ではゼネコンの独占的な支配があり、現場の労働者や事業者には低賃金労働が押し付けられている、という訴えがなされている。瓦礫処理や除染作業などでゼネコンの利益独占と下請け労働者等への低賃金の押し付けが横行しているのである。これは、福島第一原発の事故現場の実態でもある。何段階かの下請け構造と被曝を無視した作業は現場労働者の告発通りである。
それらの実態を訴える労働者のみなさんの声を耳にしながら思うことは、復興予算の流用が報道されたことだ。復興予算の行政(官僚)機構などにひどい流用がある一方で復興現場には必要なカネが回らず、そう上で旧態依然とした大企業による独占的利益確保と小企業や労働者の苦境は続いているのだ。私たちが新聞等で断片的に伝え聞く事柄が想像以上の実態としてあるのだ。
原発震災も含めて大震災からの復旧や復興はどうなっているのだろうか。テントに戻り、いつものように椅子に座りながらあれこれ考えた。復興事業は依然として日本社会の現在の中心にあることと思うが、現実にはそれは違う。復旧や復興は遅れ、復興名目の事業は機能していないのだ。被災地の人々からそういう声は時折届くが、特に原発震災が大きい福島の現状であると思う。大震災や原発震災からの復旧や復興はなによりもその被災地の人々、被災にあった人々の再起や再性としてある。つまり、被災に遭遇した人の生活と存在の恢復であってそれに対して政治や社会が関与や寄与できることは限られている。その人々の傷が癒えるには長い時間、つまりはそれを包括して行く生活と時間が不可避でありこれは当事者以外の関与はあまり有効ではない。これは第一にあることだ。しかし、復旧や復興に政治や社会が関わる領域はその意味では限定的だがありそれは小さくはない。政治や社会の必要な領域はあるのだ。
私たちが復旧や復興の遅れというとき主にこのことを指している。政治がこの役割を果たしていると思えないのは復興予算の使い方ひとつをみても明らかだ。原発問題でいえば、事故をいまだ収束させえず、放射能汚染に対する具体的な対応をとれなれでいることは語るまでもないことだ。大震災や原発震災に対する復旧や復興は緊急の課題であり、誰しもがやらなければ課題であるが、それに政治や社会が応じられていないのだ。
私たちが原発震災に対応しようとするのは被災地の人々の具体的課題に対応することと、原発再稼働の動きになどに対応するという、つまりは緊急の課題としても重層的に関わろうとしている。緊急の対応と言っても具体的なことと、ある程度の射程のいることとがあるが、政府や官僚が緊急の課題と言う側面でも対応をできていない。復興予算の関係ない事業への流用や原発再稼働など誤った対応しかできないこともあるが、対応自体がなってはいない。これは政府は官僚、あるいは経済界の中枢の人々、それに連なる人々との復旧や復興のビ大震災や原発震災を自然災害と見て、これを社会的災害と見る認識が薄いからであるように思う。
自然災害と見る限り、復興や復旧は地域的・場所的なものと見られ、時間の中で風化して行くことは免れない。大震災や原発震災が自然災害である側面はあるが、同時にそれは社会的災害であるという側面がある。つまり、人間が社会をつくり、歴史としてそれを存続させてきた現在の矛盾の現れであり、その解決なしには復旧も復興もないということだ。この点は原発震災の場合は分かりやすいが、政府や官僚という現在の社会の中枢を占める人々はこの社会の矛盾、歴史的な矛盾ということを認めたがらない。それは現在の社会の転換や変革につながることへの拒否感があるためではないか。既得権益という言葉があるが、これは現在の社会に利益を感じていて転換や変革につながることを否定したい気持ちを現わす。善悪を超えた社会の保守の傾向をさすといってもいいが、この人たちは大震災も原発震災も自然災害とみなしたいのだ。
大震災や原発震災の復旧や復興は緊急課題だが同時に永続的な課題であり、ここでは未来から視線が重要であるということだ。原発震災は人類史の究極的な問題を提起しているし、その視座がないと単なる事故としかみられない。この永続的な問題とは「カネより命」、「はらむ女の立場」、「自然との循環社会」、「近代《現在》の超克」とかいろいろ出ているがそれは断片的の言葉であってまだ社会の言葉にはなってはいない。近代化された段階の社会を超えるという課題を提示しているのであり、その視座が大事だ。
復旧や復興に緊急の課題という側面と永続的課題を同時的に存在させなければならない。私たちが今の政党や政治家たちに失望をしているのはこの永続的課題というところに視線を持とうとしないためである。大型のダンプカーが去ったあとテント前でこんな妄想めいたことに耽っていた。短くなってきた秋日和が心地よかったこともあってだが…。 (M/O)
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