シャムロックが花ひらくとき(2) ─ あべ菜穂子の花エッセイ
- 2012年 11月 16日
- 評論・紹介・意見
- あべ菜穂子
【イギリス 花もよう 人もよう】 ~イギリスに咲く季節折々の花と、花にまつわる人もよう、歴史、文化をつづります
シャムロックが花ひらくとき
ロンドンデリーへの旅行では、アンディのパートナーのミリアムと深く話す機会は持てず、プロテスタント系のミリアムが、なぜそれほどまでカトリック系住民を支援するのかは、聞けずじまいだった。それからほぼ2年後の夏、私たちは再びアンディとミリアムを訪ねることになり、私はそのときに、はじめてミリアムの身の上話を聞いた。
(ドニゴールの海岸)
それは、アイルランド北西部の「ドニゴール地方」にある、彼らの「海の家」を訪ねたときだった。そのころ2人は、毎年夏になるとロンドンデリーを離れて海の家に行くのを習慣としており、私たちをその年1週間、誘ってくれたのである。ロンドンデリーまで飛行機で飛び、そこから車でアイルランドに入り、ひたすら西へ西へと走った。
あたりは、シャムロックがいちめんに咲き乱れる緑あざやかな牧草地と森の風景が続いた。北国の柔らかい夏の陽射しを受けて、シャムロックの緑が周囲にあわい光を放っている。「エメラルド・グリーンの島」と呼ばれるアイルランドは、このようなシャムロックに覆われた光景を指すのだろう。しかし、目指す地はドニゴールの北の端の大西洋岸である。やがてごつごつした丘陵地帯に入り、黒い岩盤の目立つ海が見えて、彼らの家に着いた。一帯は荒涼とした海岸線が続き、空は灰色の雲に覆われていた。人里離れたこの地の海辺で、ミリアムの生い立ちを聞いた。
ドニゴールは、ミリアムの「心のふるさと」だったのである。彼女は生後間もなく、母親とドニゴールにやってきた。精神科医の母親は、結婚生活に敗れ、女ひとり、赤ん坊を連れて医師として僻地に赴任したのだという。母親はプロテスタント系アイルランド人で、金持ちの上流階級出身。祖先は、スコットランドからの入植者だった。ドニゴールへは、16、7世紀にイギリスの北アイルランドへの大規模な入植が行われた際、土地を追われた多数のアイルランド人が移住した。この地で、母親は「イギリスから来た上流階級出身の医師」として、村で特別扱いされた。
ミリアムは、忙しい母に代わり、地元のカトリック系アイルランド人の乳母に育てられた。この乳母には13人の子どもたちがいて、ミリアムは一日の大半を彼らとともに過ごした。「一家は子どもたちに靴すら満足に買ってやれないほど貧しかったけれど、みんな底抜けに明るくて温かかった」。ミリアムは兄弟たちと一緒になって裸足になり、時間を忘れて海辺で遊び、丘を駆け回った。
「少女時代、母に抱きしめてもらったことは、一度としてなかった」と、ミリアムは言った。母親は、幼少期をイギリスのアジアでの植民地だったインドで過ごし、大勢の現地人召使いに囲まれた暮らしを経験していた。「母には大英帝国の支配者の論理が染みついていた。母にとって、ドニゴールでの生活は植民者の生活の延長でしかなく、乳母一家ですら、 自分の召使いとして扱っていた」。
(ドニゴールの海岸に咲いていたヒース)
子育てを「召使い」に任せた母親と、あふれんばかりの愛情を注いでくれた乳母一家。感受性の強い少女の目は、支配する側のおごりと、支配される側の苦しみを内包する抑圧構造をしっかりととらえた。彼女は次第に、困難を生き抜いた大勢のアイルランド人が現代に直面する様々な矛盾を、解決しなければならないと強く思うようになった。
ミリアムはその後、10歳から都会で寮生活を送ったが、ドニゴールでの日々は原体験となり、彼女を熱烈な愛国者として成人させた。北アイルランドに住み、祖国との統一運動に参加し、一時はテロ活動すらやむなし、との姿勢をとった。労働者階級出身で元司祭のアンディと知り合ったのは、このころだった。
ミリアムに話を聞いたとき、海岸には、たくさんの紫色のヒースが咲いていた。そして、ヒースのあいだに隠れるようにして、シャムロックが葉を広げていた。ヒースもシャムロックも生命力が強く、ドニゴールの荒涼たる海岸でも緑を保ち、翌年には決まって前年よりも多くの花をつける。潮に洗われても子どもたちに踏まれても、けっして死に絶えないのだ。ミリアムは、ヒースやシャムロックのような強靭な精神力を、ドニゴールで身につけたのだった。折しも、私たちがドニゴールに滞在中の2005年7月末、IRAは武装闘争放棄を宣言した。ミリアムは海辺で、紫のヒースとシャムロックを摘みながら、「近い将来に、必ず(北アイルランドとアイルランドの)統一が実現するでしょう」と、言っていた。
×××
ドニゴールを訪れてから、7年が過ぎた。この間、北アイルランドをめぐる情勢は、大きく変化した。IRAの武装解除が実現してから、事態は急速に動きはじめたのである。1990年代末にブレア首相のもたらした和平合意後、設置されていた議会は、和平が進まなかったために長いあいだ、機能停止に陥っていたが、2007年3月に選挙が行われて、活動を再開した。
選挙では、プロテスタント系住民を代表する民主統一党(DUP)が第1党、カトリック系住民を代表するシン・フェイン党が第2党となり、民主統一党のイアン・ベイズリー党首が首相に、そしてシン・フェイン党のジェリー・アダムス党首が副首相に就任して、その他3党と連立する地方政府も誕生した(現首相は、ピーター・ロビンソンDUP党首)。その後、2011年5月にも再び選挙が実施されて、同様の連立体制が維持された。長い長い紛争のあと、互いに武器を向け合った宿敵同士が、ついに「協調体制」をつくり上げたのである。
民主統一党はイギリスとの連合維持を、シン・フェイン党はアイルランドとの統合を主張する党是を、いまだに変えていない。しかし、連立政府は、目指すものを性急に実現しようとする姿勢を転換して、より現実的に、妥協点をさぐりながら、地域のための政治を行うことに重点を移したようにみえる。1997年に発足したブレア政権下では、イギリス連合王国内諸地域への「権限委譲」が積極的に進められ、スコットランドやウェールズでもそれぞれ議会と地方政府ができて、独自路線を歩みはじめていた。王国全体が「より緩やかな連合体」へと変化する流れに乗って、北アイルランドも、闘いにひとまず終止符を打ち、ようやく自分たちの道を歩みはじめたようだ。
(4000年前のゲール人の遺跡ーードニゴールで)
さらにここ何年かに、重要な動きがいくつかあった。
カトリック系住民たちの心に深い傷を残した「血の日曜日事件」をめぐり、ブレア首相は、真相究明のための委員会を設置していたが、10年以上続いた委員会の調査が2010年6月に終結し、イギリス軍兵士らが無防備のデモ隊に不当に発砲し、14人を殺害したことを全面的に認めたのである。これを受けて、イギリスのキャメロン現首相は即刻、議会で「この事件は決して起きてはならなかった。心から謝罪する」と述べ、正式に犠牲者の遺族らに対して誤った。
また、今年6月には、エリザベス女王が在位60周年記念行事の一環として、北アイルランドの首都、ベルファストを訪問し、かつてのカトリック系住民武装闘争のリーダー、ジェリー・アダムス・シン・フェイン党首と握手するという、歴史的光景まで見られた。この訪問で、エリザベス女王は、なんとシャムロックの形をしたブローチを身につけて、アイルランド人に敬意を表したのである。
このような状況のなかで、住民の意識にも、大きな変化が起きはじめている。ベルファストにあるクイーンズ大学が2010年に行った調査では、住民の73%までが、イギリスとの連合を保ちながら、地域の独自性を発揮していくことを望んでいた。カトリック系住民だけで見ても、半数以上の53%がこのような「連合のなかの独自性」を望んでいた。アイルランド共和国との統一を願うカトリック系住民は、この調査では3人に1人に過ぎなかったのである。
また、ここ10数年、和平への歩みを継続して調査している民間機関が、今年3月に発表したリポートでは、北アイルランドの35歳以下の住民のあいだでは、これまで常にプロテスタント系が優位を占めていた人口比が逆転し、カトリック系住民が多数派になっていることが明らかになった。そして、大学など高等教育機関への進学者のうち60%までがカトリック系の若者で占められ、カトリック系の人々は職場でも多数派となりつつあり、上層部に進出していることもわかった。伝統的に出生率の高いカトリック系住民が、人口を格段に増やしただけでなく、高学歴となり、職場でも活躍している状況が浮かび上がり、かつての支配構造は大きく変化していることが判明したのである。
カトリック系住民は、裕福になり、優位な立場に立ちつつある。にもかかわらず、アイルランドとの統一を望む人は減っている、、、。「将来像は、はっきり見えなくなった。自分が生きているあいだには、アイルランドとの統一はないかもしれない」。久しく話をしていなかったアンディに電話をかけると、彼はこう、言った。
いまだにプロテスタント系住民とカトリック系住民の居住区は別々で、双方の活動家の一部は時々、地域内で爆弾事件を起こしている。でも、住民の関心は、現在の枠組みのなかでいかにして、いがみ合ってきた者同士が「共存」し、よりより社会を作っていくか、に移っている、とアンディは話した。しかも、EU(欧州連合)域内で国境コントロールがなくなったことに歩調を合わせて、北アイルランドとアイルランドの国境も姿を消し、人々の往来は自由になった。アンディたちが政治運動にかかわったころに比べると、隔世の感がある。
もうひとつ、大きな要素がある。ここ何年かのユーロ危機のなかで、アイルランドは経済状態が極端に悪化し、瀕死の状況に陥っている。カトリック系住民があれほど統一を望んだ「母国」は、輝きを失っているのだ。アンディは、カトリック系住民のあいだでいま、アイルランド人古来の言語である「ゲール語」や、民俗伝承など文化の復興運動が盛んになっていると言った。抑圧者に対する反感と抵抗心を共有し、かつてはひとつの目標に注がれていた住民のエネルギーは、ちがった方向に向かっている。
アンディとミリアムを取り巻く環境も変わった。2人は、子どもたちが大学に進学したのを機に、別れて暮らすようになった。ミリアムはいま、教師の実績を生かして、地方政府の教育行政に関与しているという。
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アイルランド人のシンボルであるシャムロックが、本当はどの植物を指すのか、じつはわかっていない。民族の象徴の正体を突き止めようと、19世紀の終わりに、アイルランドの植物学者が草花の行商人3人から「シャムロック」の苗を購入して育てたところ、それぞれ「シロツメクサ」、「アカツメクサ」、「レッサー・イエロウ・トレフォイル(黄花のクローバー)」に成長したという。1988年になって、別の植物学者がもっと大規模な調査をしようと、テレビやラジオで国民に呼びかけ、「シャムロック」の苗を郵送してもらったところ、届いた211鉢のうち、ほぼ半数がレッサー・イエロウ・トレフォイルに、3割強はシロツメクサに、残りはアカツメクサになったそうだ。そこで、アイルランド原産の黄花のクローバーが「シャムロックである可能性がもっとも高い」との結論になった。しかし、真相は闇のなか、である。
でも、それでいいのかもしれない。シャムロックは「シンボル」なのだから。アイルランド人は19世紀半ばに起きた食糧飢饉などの困難を逃れ、多数が海外に移住した。ケネディ元アメリカ大統領もアイルランドからの移民だった。世界中に8000万人いると言われるアイルランド人が、毎年、「聖パトリックの祭り」を本国の人々と同じように大々的に祝い、シャムロックを身につけて、踊る。そのことが重要なのであって、どの植物が本当のシャムロックかを探ることには、あまり意味はないだろう。
北アイルランドの将来も、白黒をつけるのではなく、シャムロックの正体のように謎のままでいいと、人々は思っているのかもしれない。いくつもある可能性のなかから、北アイルランドが将来どんな花をつけるのかは、それこそ、花が開いてみないとわからないのであろう。
(シロツメクサ)
※登場人物の名前は、仮名にしてあります。
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〔opinion1073:121116〕
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