昭和16年12月8日 -『日本人の「戦争」』と「日本浪漫派 Made in USA」-
- 2012年 12月 8日
- 評論・紹介・意見
- 『日本人の「戦争」―古典と死生の間で』半澤健市書評河原宏
「昭和16年12月8日」というタイトルで書くのは三度目である。
今年は、太平洋戦争の意味を問い続けた著作を読んだ。タイトルは『日本人の「戦争」―古典と死生の間で』。著者河原宏(かわはら・ひろし、1928~2012)は長く早大で教えた人。専攻は日本政治思想史研究で、『昭和政治思想史研究』、『「江戸」の精神史―美と志の心身関係』、『ドストエフスキーとマルクス』などの著書がある。
河原は「まえがき」で次のように言う。「戦後半世紀の時をへて、このような形でまとめた本書もその基本の想念は、実は昭和二十年の春から夏にかけての戦争末期、当時十六歳だった私が自分自身に問いかけ、自分一人でそれに答えたものを核にしている。その問いかけとは、国家とはなにか、戦争とはなにか、天皇とはなにか、の三点に尽きていた」。
《海軍報道班員山岡荘八の経験》
著者は、戦争に「情」と「理」の二面から接近する。
情とはいくさの「実感」である。彼は「抽象」化された戦争を好まない。戦争の実感論の対象は、日本歴史の時空を超えて展開する。古事記、万葉集、太平記、平家物語。織田信長、乃木希典、信時潔、宮澤賢治に及ぶ。論議は「合理主義」と「ニヒリズム」にまで及ぶ。多彩である。あるいは混沌である。古典のなかにこそ戦争の実感と真実が存在するというのである。多くの挿話が語られるなかで、作家山岡荘八の文章の紹介に、著者の認識の仕方がよく出ていると私は読んだ。
昭和20年4月沖縄戦のさなか、山岡は海軍報道班員として川端康成、新田潤とともに鹿児島県鹿屋の特攻基地にいた。隊員(中尉)の母親が若い女性とともに来て息子との面会を求めに来た。応対を任された山岡は中尉が前々日出撃して戦死したのを知っていた。中尉は他の基地に転勤したと山岡は言いつくろう。しかし案内した部屋には中尉の位牌があった。若い女性は耳元で「お母さんは字が読めません」と囁いた。その後の行動を山岡は憶えていない。二人と別れる時、山岡は衝撃に襲われる。母親は「ありがとうごいました。息子がお役に立ったとわかって、安心して帰れます」と丁寧に挨拶して去ったからである。
河原は、「一体、言葉や文字に依ることなく、なにが母親に真実を伝えたのか。この〝話さなくても分かる〟関係を、いかに精緻な伝達理論といえども解読することはできない。しかし確実なことは、この母子間には愛があり、痛切な悲苦の共有があった」と書いている。心情論による、反科学・反合理・反抽象化の主張である。現代の読者がこれを理解することは難しいかもしれない。
《天皇が最大の資産家》
そこで著者は「理」の面からも戦争を追跡する。
戦争のメカニズムを社会科学の立場から分析するのである。「開戦」と「敗戦」選択はなぜ、どのように行われたのか。それは、戦前の社会・経済構造を基本的原因とするものだという。当然のことではある。ただ著者のユニークな点は、「戦前の社会・経済構造」を「国体の内実」が「大地主が支配する体制」だという構図で説くところにある。その構図から、開戦は「革命より戦争がまし」、敗戦は「革命より敗戦がまし」と決した支配層の思想を説明する。その思想は、「国体」の護持であり、「国体」とは「天皇制」と「地主構造」が支える「天皇制国家の絶対主義的構造」である。ここには講座派的論理が見え隠れするが、著者の視点は扡主制に集中しており日本資本主義の発展にはあまり目を向けない。国体の思想は即ち土地第一の思考だというのだ。
天皇家の資産は、敗戦時に現金と有価証券で336百万円あった。同時期の主要財閥の有価証券はどうか。三井390百万円、岩崎(三菱)170百万円、住友310百万円である。皇室の動産は三大財閥の総額に匹敵するのである。別に不動産がある。天皇家の土地所有面積は130万町歩で、東京・神奈川・大阪・香川・鳥取の六都府県の合計面積に匹敵した。終戦時のその評価額は361百万円とされた。天皇は日本最大の資産家である。
《農業国日本と二・二六事件》
工業国日本というがその実体は農業国であった。1940年の農村人口は全人口の48%、うち就農者は男約6百万人、女約7百万人。小作農は戸数で27%、自小作は43%、合計で70%、彼らの64%は耕地面積1町歩以下である。天皇を頂点とする地主制支配は不動であった。「二・二六事件」の原因は、陸軍の派閥対立や青年将校の暴走よりも、昭和恐慌に起因する農村窮乏として注目する。軍内部で農村の窮状を詳しいのは新兵と接する若手将校である。事件後、死刑となった歩兵少尉高橋太郎は小隊長としての体験を獄中の遺書に次のように記している。
「「姉ハ・・・」ポツリポツリ家庭ノ事情ニツイテ物語ツテイタ彼ハ、此処デハタト口(くち)ヲツグンダ、ソシテチラツト自分ノ顔ヲ見上ゲタガ、直ニ伏セテシマツタ、見上ゲタトキ彼ノ眼ニハ一パイ涙ガタマツテイタ・・・モウヨイ、コレ以上聞ク必要ハナイ、初年兵身上調査ニ繰返サレル情景・・・」。
政党政治は「農地調整法」で農民救済を図ったが地主勢力の反撃で骨抜きとなった。一方で「革新官僚」の生産力増強理論による窮乏農民生活改善の模索があったが、「アカ」と見られて特高警察の餌食となった。「企画院事件」である。狭隘な国内市場を見限った資本主義は経済発展を海外に求める。これが「対外侵略」への現実的基盤である。
《「革命より戦争」「革命より敗戦」がまし》
そこで著作は日米外交交渉に一転し開戦までの叙述となる。交渉の過程で開戦への空気が拡がる。勝利を確信できぬ昭和天皇は、統帥部の両トップに勝算を尋ねる。海軍の永野は「大阪冬の陣」を例示して「一時の戦争回避」は和平につながらぬと説いた。天皇と支配層は、情勢判断でクーデターと内乱を懸念して「革命より戦争がまし」を選んだ。
敗戦の過程も同じ構造である。45年々初の「近衛上奏文」は、満州事変以来の日本政治は「悉く左翼の陰謀」と見て左翼革命を避けるためへの敗戦を説いた。ただ天皇が敗戦を決めたのはポツダム宣言に「国体護持」を読んだからである。
「開戦」と「敗戦」」を、河原は次のように要約している。地主制的天皇制が全てを決定し臣民が従属した構図である。「日本人は天皇の命令に従って戦い、天皇の命令に従って戦いを終えた。それが終戦だった。ここで排除されたのは、個人が自己の判断に基づいて自主的に戦い、自主的に戦うのをやめる可能性だった。/戦うという決意は、当然その根拠をありきたりのスローガンやイデオロギー、つまり「抽象」に委ねるのではなく、”なんの為に”という理由と責任を自己の内に見いださなければならない。/日本人は国民的にも、個人的にも、このように主体と責任をめぐるいわば形而上的な思考を好まない。/あれだけの犠牲を払った戦争の意味は見極められることなく、天皇の命令に従って戦いを終えた。終戦とは、各人の意志や判断によって戦争を終わらせたのではなく、天皇の命令に応じて戦争が終わったことだった。それによって「国体」は護持され、革命は回避されたのである(/は一部省略)」。
《戦争責任論から帝国主義論まで》
これは社会科学的、社会心理学的、文化人類学的分析である。「理」による戦争認識である。その方法はさらに戦争責任、戦後責任の分析に進む。ドイツの哲学者カール・ヤスパースの戦争責任論を基軸にして、天皇から庶民に至る諸階層への責任追求を行う。天皇への責任追及は鋭い。しかし最後は日本人全体の戦争責任意識の不徹底に転嫁され溶解する。「革命より戦争がまし」と「革命より敗戦がまし」という決定責任は消えてなくなるのである。「一億総懺悔論」が生き延びるのである。続いて帝国主義論が論ぜられる。社会主義圏の崩壊を主因とするレーニン型帝国主義論の相対化を軸に論述する。
著者は、「特攻・玉砕への鎮魂賦」と題して、再び「情」の視点から戦争を見つめなおす。明治の唱歌『戦友』と昭和の軍歌『同期の桜』の比較がある。『戦友』は14章で終わる。その歌詞は「筆の運びはつたないが 行灯(あんどん)のかげで親達の 読まるる心おもいやり」である。生き残った兵士が死んだ友の両親へ彼の最後を伝える手紙を書く情景である。これは靖国で再会しようという『同期の桜』と違うと著者はいうのである。
《小さな戦争実感者と二つの教育》
私的なことだが、私(半澤)は昭和16年12月8日を都心の国民学校(今の小学校)1年生で迎え、翌年4月に空母から発艦した米爆撃機B25が自宅上空を飛ぶのを目撃し、昭和19年11月にB29が美しい飛行機雲を引いて帝都上空を行くのを見た。昭和20年春には東京西郊の中都市で米艦載機の機銃掃射の恐怖を経験した。敗戦2週間前に、私の「疎開先」だったその町は、B29の夜間空襲で全焼した。低空で爆撃する「超空の要塞」の下を私は両親とともに逃げまどった。B29の唸るような飛行音と降り注ぐ焼夷弾の落下音の怖さはいまだに耳に残る。もちろん、それより先「ハワイ・マレー沖開戦」に始まる緒戦の勝利に歓呼の声を挙げていた。神風が吹くと信じていたが、戦局の推移につれて戦争は勝てそうもないと感じ始めていた。当時の普通の少年である。
教育勅語の教育下でこういう経験をした人間にとって、河原宏の「反抽象」の戦争実感論はよく分かる。理屈では否定できない心情が分かるのである。私は戦後の民主主義教育も受けている。だから私はこの本を同感と反発が交錯した感情の中で読んだ。
著書に内在する「講座派」と「日本浪漫派」という二つの魂の葛藤と読んだ。その葛藤を遡れば「民権と国権」、「普通選挙法と治安維持法」、「『「敗北」の文学』と『様々なる意匠』」、「天皇機関説と国体の本義」に至るであろう。この国は、結局のところ、この二つの流れの戦いのなかで近代を形成して現在に至ったのだと思う。
《「日本浪漫派」Made in USA」への渇望》
戦後67年のいま、葛藤の振り子は急速に後者へ振れようとしている。
新聞各紙は、12月16日の総選挙で『美しい国日本』の著者が率いる政党の圧勝を予想している。極東の大国は、「情」の戦争も「理」の戦争も知らない人々が多数派となった。今年の12月8日、彼らは「日本浪漫派Made in USA」の時代を渇望しているらしい。しかしこれは国の将来を大きく誤る選択である。
■河原宏著『日本人の「戦争」―古典と死生の間で』、講談社学術文庫、講談社、2012年10月刊、920円+税。本書原本は95年に築地書館から刊行、08年にユビキタ・スタジオから新版、今回の文庫本は三回目の出版である。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion1101:121208〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。