虚構解体!原発は「文明の凶器」、「文明の利器」ではない =3/8町田集会の成功を、原発ゼロ社会をめざして、いまこそ「大同」を=
- 2012年 12月 22日
- 評論・紹介・意見
- 原発ゼロ社会を目指して放射線汚染の実態藏田計成
(1) 福島県庁舎の空間線量は事故前線量の「25倍」
(2) ICRPのいう「一般公衆」とは「46歳集団」、「0歳集団」の被曝感度は「30倍」
(3) ゴフマンモデル「被曝時年齢別集団」の被曝ガン死数
(4) 胎児の被曝リスクはさらに高い
(5) 原発労働者の犠牲によって成り立つ「文明の凶器」
(6) 除染の過大評価は危険、被曝防護(疎開・避難)を阻む理由とは
(7) 原発ゼロ社会、「絶対的核廃絶論」の実現を
(8) いまこそ、連帯の輪をひろげ、大同につこう
補足 資料1 東日本の汚染の現状を、事故前の「平常空間線量」と比較する
補足 資料2 操作された自然放射線量
(1) 福島県庁の空間線量は事故前線量の「25倍」
福島第1原発事故による福島県全体の放射能汚染は突出しています。福島県にとどまらず、東日本全域が累積被曝の危険にさらされています。文科省が集計した県庁所在地別の測定値でみると、福島市内県庁2階の被曝空間線量率は、3/11事故前の全国平均「平常空間線量率」の約「25倍」になっています。また、福島県に隣接した東北5県(主に県庁舎)の空間線量率と比較すると、事故前の「3倍~4倍」、首都圏全域(主に県庁舎)は、その「2倍~3倍」となっています。それを超えるホットスポットは都県内各地に点在し、全国平均の数倍に達しています。このまま時間が過ぎれば、過去の被曝に加えて、新たな累積被曝は深刻な事態を迎えることになるでしょう。
被曝防護の原則は汚染を拡散させないで、これを封じ込め、累積被曝の進行を防ぐことです。放射能汚染廃棄物の広域処理や、除染廃棄物を県外に持ち出すことは汚染の拡大であり、それは論外というべきです。
セシウム含有廃棄物を焼却することの危険性は世界の定説になっています。これに逆らって、日本ではいまも焼却処理を続けています。日本はゴミ焼却大国です。焼却炉数で概算すると、日本のゴミ焼却量は世界の70%を占めています。一例をあげれば、「日:独」の比は、「1300基:200基」です。放射能汚染廃棄物の焼却もその延長線上にあるはずです。焼却試験で安全性を確かめることもしないで、政府、各自治体は、汚染廃棄物や汚染下水汚泥を焼却し、広域処理を強行し、被曝を累積させています。今後自民党政権のもとでは、さらに事態の悪化は加速されるものと思われます。
(2)ICRPのいう「一般公衆」とは46歳集団、0歳集団の被曝感度は「30倍」
IAEA=世界原子力機構は、核・原発推進の総本山です。その傘下にあるとされているICRP(国際放射線防護委員会、結成1928年)は、初期の科学者の組織から変質して、原発推進をめざすための「国際協調組織」となり、いまでは学際的権威を自認しています。そのICRPは、一般の市民が「浴びても仕方がない」放射線として被曝線量限度を設定しました。「作業者」と区別して「一般公衆」とし、被曝線量「年間15mSv」(ミリシーベルト、1953年報告)を「耐容線量」としました。
その後「耐容線量」という用語に対する批判を受けて「許容線量」にあらため、さらに、「被曝線量限度」と呼ぶようなりました。また、この線量も「年間1mSv」(1985年声明)にまで引き下げ、現在に至っています。その間、約30年かかっています。
「一般公衆」という用語はいまも変わっていません。現行のICRPは「一般公衆」に対して、「被曝線量限度=年間1mSv」としています。さらに、このICRP算定の被曝リスクを換算すると、「一般公衆」「2万人」「被曝ガン死者=1人」(被曝線量1000mSv、被曝ガン死率=5%)となります。日本政府もこれを追認しています。
ところが、ここでいう「一般公衆」という言い方には2つの重要な意味があります。つまり、「一般公衆」という考え方は、きわめて一般的な概念規定であり、その対象は全年齢であるということです。また、このように全年齢に対して被曝線量限度「年間1mSv」を適用することは、被曝時年齢の「放射線感度」(傷つきやすさ、感受性)の存在を全く無視しているやり方であり、適正な線量限度を期待することはできません。
そもそも、放射線の「被曝感度」には年齢差があります。それを無視して「均一」の被曝線量限度を設定することは不合理です。ましてや、これを全年齢、全世代「一律」に適用することは、被爆時年齢による被曝リスク(危険性)のちがいを無視した暴挙です。
たとえば、米国ローレンス・リバモア国立研究所元副所長ジョン・ゴフマン(在1963~73年)は、放射線被曝における被曝感度(感受性)が年齢によって著しく異なることを世界で最初に解明しました。とくに、幼少世代の被曝感度がきわめて高いことを明らかにしました。
たとえば、累積線量限度「1mSv」被曝したとして、被曝時年齢別の被曝感度で比べてみると、その差は歴然としています。ゴフマンモデルでは、「46歳(中年)」の被曝感度は、「0歳児(幼児)」の被曝感度に比べて約「30倍」高くなっています。5歳児では「26倍」、10歳児では「21倍」、20歳では「9倍」、30歳では「7倍」になっています。
しかも、ゴフマンは1970年代に年齢による被曝感度のちがいを明らかにしています。リバモア副所長在任中に、アメリカ政府が被曝線量限度について過大な設定をし、被曝リスクを過小に評価していることを厳しく指摘したのでした。ゴフマンは相手に反論の余地を与えないほど厳密に体系化した立論を展開しました。だが、アメリカ政府をはじめ世界の原発推進権力はそれを黙殺し、封印しました。
とはいえ、世界がゴフマンモデルの後追いをしたことは皮肉な事実です。ICRPが被曝線量限度「年間1mSv」を設定したのは、ゴフマンの大著『人間と放射能』(社会思想社(1991)、新装版 明石書店(2011)、訳伊藤昭好、今中哲二、海老沢徹、川野真治、小出裕章、小出三千恵、小林圭二、佐伯和則、塚谷恒雄他) が世に出た4年後でした。
また、チェルノブイリ事故から26年の歳月を経た現在までの被曝ガン死数に関しても同様です。欧米の幾人もの研究者達はゴフマンが事故当時推定した被曝ガン死者数よりも高い数字を報告しています。この事実は、ゴフマン推定の確度について暗示的といえるかも知れません。(ゴフマン理論の解析は近日別稿予定)。
(3) ゴフマンモデル「被曝時年齢別集団」の被曝ガン死数
ゴフマンは被曝時年齢別集団ごとに、低線量「1mSv」によって生じる「被曝ガン死」を算定しました。この低線量被曝の実態を解明することによって原発の技術体系がもっている致命的な問題点を浮き彫りにしたのでした。その問題点とはいうまでもありません。放射線をあびる際の「年齢別被曝感度」や、放射線から受ける「被曝ダメージ」は、年齢とは逆(相関)の関係にあるという事実です。
低線量被曝の問題はさまざまな危険性を告示しています。放射線被曝における被曝時年齢と感度とは、逆相関の関係にあることはすでにみた通りです。被曝時の年齢が低くなるにつれて「被曝感度」は高くなり、「被曝リスク」は増大します。ここで見逃せないことは、被曝時年齢が10歳以下の集団においては被曝リスクが急増しているという事実です。ゴフマンはこの事実を明確に論証していまます。もう少し詳しくみていきましょう。
ゴフマンが算定した「被曝ガン死数」は、まず、被曝したときの年齢が46歳以上の中高年世代においては、先のICRPモデルの被曝ガン死数とほとんど同程度です。「累積線量1mSv」「被曝2万人」「被曝ガン死=1人」(以下)と算定しています。ところが、ICRPモデルとゴフマンモデルの被曝ガン死数が際立った違いをみせているのは、「46歳」よりも低い世代の被曝ガン死数です。低い世代ほど、被曝ガン死は顕著になっています。
次ぎに、ICRPモデルが対象とする集団が「一般公衆」であることはすでにみた通りですが、ゴフマンの被曝時年齢別モデルでは、これとは違った傾向をみせています。ICRP算定と同程度の、つまり「1mSv」「2万人」「被曝ガン死数=1人」が生じるのは「一般公衆」ではありません。ゴフマンモデルでは明確に「46歳時被曝集団」です。つまり、ICRPモデルがいう「一般公衆」とは、ゴフマンモデルでは「46歳時被曝集団」に該当します。両者はともに「1mSv」「2万人」「被曝ガン死=1人」という被曝リスクを設定しています。
さらに驚くことがあります。これと全く同じ被曝条件「1mSv」「2万人」で、「0歳時被曝集団」の被曝リスクを算定すると、なんと「被曝ガン死=30人」です。つまり、0歳時被曝集団は46歳時被曝集団に対して「30倍」もの被曝リスクを負っていることを意味します。また、このことはすでにみたように、0歳児の被曝感度が46歳(中年)の被曝感度の「30倍」であること同等です。
結局、ICRPや日本政府は幼少時被曝集団のいちじるしい危険性を無視して、「年間1mSv」という被曝線量限度を、「一般公衆」の名において全世代「均一」「一律」に設定していることになります。なお、欧州放射線リスク委員会(ECRR2010年報告)は、人工放射線による被曝線量限度を、ICRPの「10分の1」(年間0.1mSv、換算毎時0.011)に設定しました。
(4) 胎児の被曝リスクはさらに高い
胎児の被曝リスクに関する統計はいまも存在していないようです。だが、ゴフマンモデルから被曝リスクを「外挿」(グラフを延長)して推計すると、胎児の被曝リスクも被曝時の週齢に逆相関しているという推定が可能です。遺伝子異変を起こしたガン細胞は、年齢が若い被曝患者ほど活発に活動します。これと同じように、放射線被曝による遺伝子損傷も若いほど被曝ダメージは激しくなります。仮説ですが、それに加えて「細胞分裂期」(増殖)と「代謝期」(再生)との違いという要因を指摘する研究者もいます。
(7)幼少世代に加え、原発労働者の犠牲によって成り立つ「文明の凶器」
被曝線量限度の設定に際しては、子どもの被曝感受性を無視せざるを得ませんでした。だが、原発労働者の被曝線量限度設定に際しても事情は同じです。3/11事故前の線量限度は「年間50mSv」でした。だが、この線量限度は「建前」に過ぎませんでした。いったん事故が起きてしまうと「緊急時」を口実に最大「年間250mSv」という過酷な線量限度を押しつけたのでした。労働で得た命をつなぐ代価を、命と引きかえるという究極の逆説を強いることになります。
作業者、医療従事者を対象にした被曝線量限度が、世界ではじめて設定されたのはICRP「1934年報告」(前身)でした。「耐容線量」として「1日=0.2レントゲン、7時間労働、週5日」(年間350mSv)というものでした。その後、事故前の線量限度を「年間50mSv」まで引き下げたのでした。ところが、今回の事故で露呈したように線量限度は、形式的、ご都合主義的な政治的恣意によって設定されていることが分ります。明確な根拠が示されないまま「7倍」にはね上がりました。
以上みてきたように、年齢による被曝感度のちがいを無視したり、いのちを代償にして過大な線量限度を設定することは、はじめから命に対する冒涜です。これは原発がもたらす害毒のひとつです。事故隠し、数字の改ざん、安全神話の捏造も、そのような虚構のほころびをとりつくろうための必然の成り行きでした。原発技術はこのような矛盾を前提にしてはじめて存立しうる欺瞞の体系です。「文明の利器」ではなく、全生命体に対する「文明の凶器」というべきでしょう。
(6)除染の過大評価は危険、被曝防護(疎開・避難)を阻む理由とは
チェルノブイリ事故の経験が示しているように、除染の効果に過大な期待を寄せることは禁物です。幼少世代の避難は本来ならば、最優先課題でなければいけません。にもかかわらず、福島県や近傍地域においては、子どもたちはいまだに高い汚染地域に閉じ込められています。政府、自治体行政は、累積被曝を避けるための避難策を優先させるのではなくて、逆に汚染地域に閉じ込めるために、効果の薄い除染策にかまけています。
避難したくても避難できないその背景には何があるのでしょうか。本来の被曝防護策の推進を阻害している要因、問題点、構造的欠陥が、いくつか伏在しています。
① 幼少期被曝の危険性に対する基本認識の抹殺。とくに、「一般公衆」を対象にした被曝線量限度の設定という旧弊がいまだに罷り通っていること。
② 政府、東電をはじめとする、政産官学マスコミの責任回避。原発利権共同体の自己保身。財政負担と賠償逃れ、無策を含めた作為的棄民策。
③ 除染を食い物にする「1兆円利権」の暗躍、運転再開を目論む原発への強欲。それを支える原発への社会的「便益」「依存」志向の存在。
④ 自治体が、住民の被曝防護や避難よりも、住民のふるさと志向、居住継続意志に乗じて、自治体行政維持につとめているという解釈の余地があること。除染に過大な望みを託しながら、汚染地域へ呼びもどし、結果的に累積被曝の危険にさらすことの危惧がある。その危惧はなんら検証されようとしていない。その意志もない。
⑤ 福島現地の子どもに対しては、「マスク不要」を告げている。学童・生徒の被曝防護策といえば、給食の「食材安全供給」くらいのもの。南相馬市では信じ難いが「復興マラソン大会」に子ども達を参加させている。情報管理や統制もすすんでいる。日本政府やIAEAに対する不信は高まっている。「IAEAのモルモットにされている」という悲鳴がきかれる。いずれは、治療よりも調査を目的にした広島、長崎以来のABCC(原爆被害調査委員会、調査機関)の歴史の再現は必至。
⑥ 被曝傷害の本格的な顕在化は4年後とされている。だが、4年を待たないで甲状腺異常が始まっている。このような危機を目前にしながら、「対照群」の疫学的統計調査は行なわれていない。統計上の核被曝災害を過小に装うには「対照群」の統計を取らないこと、被曝履歴を操作するだけで十分。被曝は野ざらしにされている。
(7)原発ゼロ社会、「絶対的核廃絶論」の実現を
東電福島第1原発事故がもたらした汚染は、東北、関東、首都圏全域に広がっています。このような大規模な核災害は、必然的に「原発廃炉」の可否を問うことになります。核兵器開発を偽装するための「核の平和利用」という虚構性、それを支えた物質文明至上主義的価値観を含めて、人類史的発展の意味を根元的に問い質すことになります。
これに呼応するかのように、3/11事故以来「原発再稼働反対、原発ゼロ」の声は大きなうねりになっています。その高まりは戦後46年食糧メーデー(50万人)、60年安保闘争(30万人)に次いで、3番目に大きい集会(17万人~20万人)となりました。今回の総選挙では「脱」原発の意思は政治的結果としては反映しませんでした。だが、「脱」原発運動の正念場はこれからです。被曝傷害があらわになるにつれてより深刻な事態を迎えるはずです。いまこそ、新たな運動の飛躍が求められています。
いずれにせよ、このような運動高揚の背後には、「原発ゼロ社会の実現」こそ、人類共通の利害にかかわる重要な歴史課題であるという思いがあることを示しています。その意味では、「原発ゼロ社会実現」の運動は政治イデオロギーや政治党派性を超えた「絶対的核廃絶論」にも通じる重要な政治的、社会的、人道的課題といえます。これは将来世代の生存、人類の存亡にかかわる歴史課題です。同時に、広島、長崎に次いで、福島第1原発事故という3度目の核惨禍を強いられた私達の責務でしょう。
(8)いまこそ、連帯の輪をひろげ、大同を
過去の歴史過程と現実の政治的結果を直視したとき、そこにおける運動の蹉跌から目を背けるわけにはいきません。先にみたような度し難い欺瞞を許してきた側からの捉え返えしが必要です。
ある政権の失政が「革新」へと向わないで「強権国家」へという回路をたどるのは、真の歴史変革主体の不在を示しています。今回の高い棄権率が示していることの意味は重要です。個別の政治党派の主張が個別の主観的「正しさ」に過ぎないこと、その政治作法を含めて、社会的信頼を失っていることを物語っています。その主観的「正しさ」は政治的、社会的に自己実現することによってしか、正当性を獲得することはできません。その限りではあくまでも「正しさ」は相対的です。他者を批判することによって正当性を自己主張することには限界を見出すべきです。己の不十分さ、誤りを含めて、拒否されていることの意味を正面から受けとめるべきでしょう。
いま運動主体の側においては、過去から現在に通底する不本意な結果に対する無念さをかみしめている人達は決して少なくないと思います。過去のかかわり方のいかんにかかわらず、共通な試練としてこれを重く受け止め、次なる飛躍をめざすべきでしょう。
そのためには、克服すべき運動上の問題点があります。これまでのような市民運動の行動様式や枠を超える協働行動が求められています。そのような行動を通じてのみ、強大な権力をもつ核・原発利権共同体に立ち向かい、野望を打ち砕くことが可能です。
この原発ゼロ社会実現という人類史的な課題に応えるためには、社会的、政治的、実践的な「大同」が求められています。大同をめざした目的意識的な努力、選択、決意をこめた実践を通して、社会的な信頼を獲得することが可能はないでしょうか。
なにはともあれ、「いまというとき」を逃したら、千載に悔いを残すことになるでしょう。現世代が残す核廃棄物の負担を減らして、将来世代の生存を脅かさないためにも、運動における「連帯」と「大同」は欠かせません。原発ゼロをめざす運動の求心力を高めるためには、過去の歴史にさかのぼって、あらたな論理や思想を獲得し、運動の回路を切開いていくことが重要です。そのような思いを共有し、連帯の輪をひろげ、政治的社会的影響力を強めていくことが、何よりも必要です。その成否がこれからの歴史の帰趨を決するでしょう。
◆補足 資料1 東日本の汚染の現状を、事故前の「平常空間線量」と比較する
資料(補足2) 操作された自然放射線量
12年11月時点で、福島県庁2階で計測している「大気中の環境放射線量」は、ほぼ「毎時0.91μSv(マイクロシーベルト)」(換算年間8mSv=0.91×8.76)を記録しています。この線量は、福島第1原発事故前の平常時に記録した環境中の「全国平常空間線量」(文科省集計、毎時0.036μSv、註1)の「23倍~25倍」になります。さらに、線源30km地域南相馬市附近のホットスポットに至っては、「280倍」(11月、測定市民グループ)という異常値を記録しています。以下は、ある日、ある地点の線量を、事故前の平常線量と比較したものです。不確定で部分的な数字ですが、ひとつの傾向を示しているといえるでしょう。
① 宮城県仙台市若葉区では「3倍~3.8倍」(11月、保健環境センター測定)。
② 東京江戸川区河川堤防上部「4.4倍」(10月、江戸川区測定)。
③ 東京町田市小川町路上「2倍~5倍」(11月、市民グループ測定)。
なお、ここで基準とする事故前線量には、測定条件の違いによって生じる一定の幅があり、同一線量として固定することはできません。たとえば、事故前平常線量には測定場所、地域、自然環境などによって、線量幅があります。下記のような違いがあります。
① 文科省資料(註1)実測「全国平均空間線量毎時0.036μSv」(換算年間0.31mSv)。
② 福島県が除染開始の際に基準にした線量「毎時0.04μSv」(換算年間0.35mSv)。
③ 東京都新宿(百人町、新大久保駅近く)、地上18m、事故直前12日間の平均「毎時0.034μSv」(換算年間0.29mSv、註2)。
④ 文科省集計:事故前全国空間線量の平均最小値「毎時0.033μSv」、平均最大値「毎時0.082μSv」、その中間値「毎時0.057μSv」(換算年間0.5mSv)。ただし、事故前全国平均値はこの中間値を、「0.01μSv~0.02μSvは下回る」という研究者もいる。
これら上記さまざまな数字から推定すると、事故前の空間線量は「毎時0.034μSv~0.045μSv」と推定することができます。この数字を基準にして、各地域の汚染度をみると、ひとつの目安が得られるでしょう。
ただし、雨の日はラドンによる空間線量が高くなるという一般的な気象条件があります。また、環境放射線には地域差があり、一律には論じられません。首都圏では富士山の噴火によって覆われた関東ローム層などの影響で地殻線量がある程度遮られています。西日本では花崗岩が多い地域があることに加えて、中国大陸からの黄砂などの影響を指摘する研究者もいます。さらに「もともとインチキな線量を、いい加減な測定線量と比べること自体が無意味である」という見方もあることを付記しておきます。
(註1):文科省集計「放射線モニタリング情報、過去の結果、都道府県別環境放射能水準調査結果」(平成23年3月12日~13日)」。測定日は事故直後であるが、実質的には、「事故前線量」と同じ。現在の線量は文科省「大気中の環境放射線量」(毎日新聞12年11/10)による。
(註2):東京都新宿・事故前空間線量平均=毎時0.034μSv、測定期間:12年3/1~12、1日平均を計算、東京都健康安全研究センター測定。
◆補足 資料2 操作された自然放射線量
事故前から、事故直後にかけて政府が公然と行った自然放射線の線量操作は、さまざまな欺瞞にみちたものでした。見逃すことができないので、その「事実」を記録にとどめておきたいと思います。
国連科学委員会は、世界の自然放射線量の世界平均を「年間2.4mSv」、日本の平均を「年間1.4mSv」(1988報告)としました。これはチェルノブイリ事故の2年後でした。その後、日本原子力安全協会編『日本の国民線量』(1992年発行)では、日本の平均自然放射線量「年間1.48mSv」と明記しました。ところが、文科省が引用する別な資料『原子力2002』(日本原子力文化振興財団発行)では、「日本平均」という明確な表現を用いないで「世界の人たちは、ひとりあたり年間2.4mSvの自然放射線を浴びています」として、これを日本の「自然放射線」であるかのように見せかけ、年刊資料にそのまま掲載しました。その8年後に、ようやく『原子力2010』版で日本の自然放射線「平均年間1.48mSv」を明記したのでした。
福島第1原発事故の発生直後、当時の枝野官房長官は自然放射線量を底上げして「年間2.4mSv」にすり替えて発表し、さかんに「安心」を説いていたことは、記憶に新しいと思います。
また、文科省は福島第1原発事故が起きた直後に「日常生活と放射線」(あのお馴染みの逆三角形型の図形。この図形は先の『原子力2002』をもとに、文科省11年3/15)を作成して、紛らわしい数字を垂れ流していました。この図形のなかで、世界平均「年間2.4mSv」が特筆大書され、その脇に小さく「国内自然放射線との差、最大0.4mSv」と註記しています。それを計算すると、国内の平均自然放射線量「年間2mSv」になります。また、図形の中で世界平均「2.4mSv」を示す矢印は、約「4mSv」の数字を図示しているというずさんさです。このように政府サイドのデタラメが横行していました。
この詐は十分に効果を発揮していました。NHKや朝日新聞はコメント無しに「自然界から受ける世界の平均放射線量=2.4mSv」と堂々と報道していました(4/14、4/16)。
たちが悪いのは御用研究者も同じです。これに劣らない詐術を演じていました。厳密な線量の確定は不可能とはいえ、ひとつの線量基準を設定することはある程度は可能です。先にみたように、世界の平均線量に対置して、日本の事故前の平常空間線量(外部線量)の概数を、地域差を考えないで「年間0.31mSv」(換算毎時0.035μSv)と設定することは可能です。にもかかわらず、世界平均をそのまま「日本平均」にすり替えるとか、内部線量を除外して、実測値の「4.5倍」に達する「年間1.4mSv説」をそのまま外部線量に仕立てあげるという悪質が、メディア上に飛び交っていたのでした。
問題は線量の数字だけではありません。一般的に「平均自然放射線量」という場合、「外部(被曝)線量」(空間線量)と、経口摂取や吸入摂取による「内部(被曝)線量」(通常の線量計では測定できない)とを合計した線量というのが学問的には常識中の常識です。また、この人体が浴びる自然放射線の内外比は約「55:45」で、「外部被曝線量」(空間線量)の方がやや少なめです。にもかかわらず、誤解と混乱を持ち込んだのでした。普通の線量計で測定できる「外部(被曝)線量」(年間0.67mSv)の多少に一喜一憂していた真最中に、測定できる「外部(被曝)線量」とは直接関係がない「内部(被曝)線量」を加えた線量をもちだして、煙に巻こうとしたわけです。いま思えば、無念としかいいようがありません。当時の私達は、このような自然放射線の実態に関して無知でした。
文科省がこの「外部(被曝)線量」(空間線量)「年間0.67mSv」を、事故後はじめて公表したのはその半年後でした。それはあの「校庭20mSv論争」の際の「学校において受ける線量の計算方法について」(11年8/26)のなかでした。
だが、問題はそれだけではありません。この文科省「年間0.67mSv」は、先の実測値「外部線量」(年間0.31mSv)の「2倍」です。実際の空間線量を「2倍」に水増ししたことになります。この重大な事実は何を物語っているでしょうか。宇宙線や地殻から浴びる「外部(被曝)線量」を、実測値の2倍に設定し、それを線量基準にていたことになります。この「インチキ線量」が20年以上もの長期間にわたって罷り通っていたことになります。
現時点においても、事情は同じです。あくまでも「事故前空間線量」は「年間0.31mSv」(換算毎時0.035μSv)前後をもって「事故前線量基準」にするべきです。
いずれにしても、東北を中心にした東日本の汚染と被曝の累積は決して予断を許しません。とくに、このまま事態が推移して幼少世代の被曝リスクが顕在化すれば、その時点から「安心神話」は吹き飛ぶことになるでしょう。しかし、それでは遅すぎます。徹底した被曝防護が必要です。そのためには何としても、政治や政策を突き動かす力が必要です。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion1118:121222〕
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