空中戦の政治論議
- 2012年 12月 24日
- 交流の広場
- とら猫イーチ
日本での政治論議の欠陥は、現実を観ずに空中戦をすることです。
選挙に勝った自民党も、これに反対する政治勢力もご同様です。 典型は、憲法改正に観られます。
憲法第9条の改正に反対する(または賛成する)、と云っても、代々の公権解釈は、変遷はあるものの、現在では、日本国憲法制定(型式は、「明治憲法」の「改正」ですが。)当初の憲法第9条の解釈とは相違して、「自衛権」の物理的保障としての有形力の保持も、行使も憲法上認められる、との解釈です。 従って、「自衛隊法」が制定され、「わが国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対しわが国を防衛することを主たる任務」とする自衛隊があるのです。 「自衛隊」と呼ぶか「国防軍」と呼ぶかは、単なる国家が保有する軍事力の名称の差異に異なりません。
また、「集団的自衛権の行使」も同じです。 「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」第5条前段では、「各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する。」とありますが、これは「集団的自衛権の行使」そのものです。 「日本国の施政の下にある領域」と限定するのは、片務的とも云えますけれど。
唯一、障害になるのは、自衛隊法第3条第2項の制限規定であり、同項の「武力による威嚇又は武力の行使に当たらない範囲において」を削除すれば、日本国外における単独又は国際軍事活動も可能となります。
こうして観れば、所謂「護憲派」と呼ばれる人達は、何を守るのでしょうか。 単なる文言に過ぎない憲法上の規定のみを死守したとして、それが何になるのでしょうか。 一国の憲法とは、憲法上の規定のみを指すものでは無いのです。 また「改憲派」も何が狙いなのか判然としません。 喩え、戦前の時代に郷愁があろうとも、今の時代に「明治憲法」の復古は有り得ません。
今の日本は、こうした不毛の議論をしている暇はありません。 国民の選択が示したように、危機に瀕した日本経済の再生と国家財政の建て直しに、すぐさま取り組まなくてはならない時代状況にあるのです。 経済と財政の難題に取り組まなければ、国防も東北復興も絵に描いた餅に堕してしまうのです。 反原発も脱原発も、国家が破綻すれば不可能です。 不毛な政治論議に時間を空費せずに、自公政権に、有効で科学的な政策を立案し実施をすることが求められます。 彼らには、少なくても、国政を担った経験があるのですから、現実的な対応に舵を切る見込みが有り得る、と信じましょう。 出来なければ、来年の夏に審判を下せば良いのです。 失敗すれば、自公の支持者が急増したのが政権交代の原因では無いのですから、有権者の審判は、またもや厳しいものがあることでしょう。
(ただ、「リフレ」政策は、短期では限定的に有効な面があるものの、現在の日本経済を「デフレ」と誤って認識した上での政策立案ですので、長期的には、財政破綻を早める方向に作用するでしょうから、かなり危険だと思っていますが、経済・財政の専門家はどうお考えでしょうか。)
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