被爆者の慟哭と怨念を凝縮した『歌集広島』~被爆65年目の長崎・広島を訪ねて(1)-(3)~
- 2010年 9月 16日
- 評論・紹介・意見
- 原爆広島醍醐 聡長崎
被爆者の慟哭と怨念を凝縮した『歌集広島』(下)~被爆65年目の長崎・広島を訪ねて(3)~
この記事では、『歌集広島』に収録された短歌のなかから、原爆投下後約8年間の被爆者の生活体験と核廃絶・平和への願いを詠んだ歌を選んで紹介したい
被爆の治療ではなく人体検査に執心したABCCに憤怒した歌
広島では原爆が人体に及ぼす長期的影響を観察するため、1946(昭和21)年に広島赤十字病院内に原爆傷害調査委員会(ABCC)が設けられた。1951年(昭和26年)に広島市は市内比治山の山頂にABCC用の敷地を提供、同年11月からABCCはそこに移転し、カマボコ型の施設を建てた。1975(昭和50)年、ABCCは日米共同で管理・運営する(財)放射線影響研究所に改組された。しかし、ABCCは当初から本国に送る被爆者の健康状況のデータを集めるための調査・検査ばかり行い、被爆の治療を行わなかったため、市民からは批判の声が上がっていた。『歌集広島』にも被爆者を人体実験の対象として扱うかのようなABCCに対する憤怒の歌が見られる。
20.モルモットにされに行くなとA・B・C・Cの被爆調書をやぶりて
捨つる
今元春江(文選工)
21.A・B・C・Cへ比治山山上を提供し市長は行けりアメリカへの旅
竹内多一(無職)
22.比治山の上の異形の建物が人間モルモットの試験場とか
森田良正(公務員)
『中国新聞』は2007年2月26日から10月10日にかけて「放影研60年」という企画物の記事を連載した。その中の6月8日の「迎えのジープ 強引な採決 憤りの記憶」という見出しの記事では、半ば強引にABCCに採血をされた呉市に住むAさん(16歳の時に被爆)の次のような回顧談を掲載している。
「(被爆して2年後、職場に)開設して間もないABCCの職員がやって来た。『血をあげたくありません』。採血の出頭命令を断ると、日系人風の職員は片言の日本語で『そんなこと言っていいんですか』と詰問してきた。『軍法会議にかけますよ』との言葉も口にし、翌日に迎えに来ると念を押したという。
あくる日、迎えの車に乗りたくなくて、Aさんは一人で、当時のABCCが間借りしていた広島赤十字病院に出掛けた。実際に採血されると、悔しさがこみあげたという。通訳に思いを訴えると『日本は負けたのだから仕方ない』と言われた。」
「『あの強引な調査への怒りが、被爆者と自覚した原点。』時がたち、被爆体験を人前で話せるようになった。被爆者のグル-プで体験記の編集作業に加わるようになった。昨年には自ら書きためてきた体験記を一冊の本にした。ABCCへの怒りをつづった章は『私の血はやらない』と名付けた。」
なお、8月6日に放送されたNHKスぺシャル「封印された原爆報告書」は被爆の影響調査報告に関わった日米の当事者にも取材をし、広島に原爆が投下された2日後から、全国の医師1300人を被災地に動員して国家的プロジェクトさながらに行われた被爆者の健康状況の調査が、被爆者の治療のためではなく、初めて使った原爆の威力を知りたがったアメリカの意向に沿って行われたこと、英文で書かれた181冊の調査報告書はアメリカに引き渡されたこと、アメリカ軍部はその報告書のなかにあった爆心地からの遠心距離と死者率をもとに将来の原爆使用のシミュレーションしていた(たとえば、モスクワなりレニングラードなりの市民を全滅させるためには原爆を何個投下する必要があるか)事実を原資料をもとに伝えた。
http://www.nhk.or.jp/special/onair/100806.html
被爆者置き去りの復興・平和の宣言の裏で進む再軍備の欺瞞を撃った歌
被爆の後遺症と生活苦にあえぐ被爆者の辛苦を無視するかのように、広島市は1947(昭和22)年から恒例行事のように平和宣言を重ね、街の復興ぶりをアピールした。しかし、こうした平和の誓いを嘲るかのように1950年6月に朝鮮戦争が勃発し、同年11月にトルーマン大統領はこの戦争で原爆を使用することもありうると発言した。こうしたアメリカの強硬な軍事行動に引きずられる形で1950(昭和25)年8月に警察予備隊令が公布・即日施行され、第一次隊員7,000人が編成された。そして、朝鮮戦争が勃発して直後の1950年8月6日には占領軍の指令より平和祭をはじめ、すべての集会が禁止された。
『歌集広島』には、このような日本の再軍備のきなくさい動き、戦争に対する安直なざんげの偽善を喝破した歌が目につく。
23.戦争の下請けせねばこの国はたたざるごとき日日の論調
竹内多一(無職)
24.再軍備するとふ人よ銃とりて新戦場へ君独りゆけ
中川雅雄(会社重役)
25.ピカハゲと嘲けらるとも堪えて来し堪えがたきものは再軍備なり
山本紀代子(主婦)
26.「安らかに、過ちはくりかへしません」という墓碑銘はウオール
街にでんと建てよ
増岡敏和(工員)
27.父を返せ母を返せと壇上に叫ぶ乙女のケロイド光る
新田隆義(電車車掌)
28.ここにまた夏は来りて草しげる地に幾万のいかりはひそむ
白島きよ(無職)
原民喜の詩碑
遠き日の石に刻み
砂に影おち
崩れ堕つ 天地のまなか
一輪の花の幻
(この詩は詩誌『歴程』昭和26年2月号に発表されたもの。原民喜は8月6日、爆心地から約1km離れた幡町(現中区)の自宅で被爆、2日間、野宿をして過ごした。生来、清純で孤独を好んだ。1951(昭和26)年3月13日、中央線・吉祥寺ー西荻窪間の線路に身体を横たえて自決した。水田九八二郎『ヒロシマ・ナガサキへの旅』はトルーマン米大統領が「朝鮮戦争で核兵器の使用もありうる」と発言したことに絶望してと説明している(80ページ))。
–太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり
(この短歌は正田篠枝が1947年10月に広島刑務所で秘密出版した歌集『さんげ』に収録された歌である。)
初出:「醍醐聡のブログ」より許可を得て転載
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion137:100916〕
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被爆者の慟哭と怨念を凝縮した『歌集広島』(上)~被爆65年目の長崎・広島を訪ねて(2)~
無差別虐殺の惨禍を記した証言集
9月3日に広島平和記念資料館(しばしば「原爆資料館」と呼ばれているが正式にはこう呼ばれている)の東館地下1階にある原爆情報資料室で調べものをした。そこで、原爆投下から9年後に市民が応募した作品の中から選ばれた短歌を集成した、原爆万葉集ともいうべき『歌集広島』が刊行されていることを知った。その場では作品に目を通すゆとりがなかったが、被爆の惨禍を体験した広島の市民がどのような歌を詠んだのか気になった。そこで、帰宅してこの歌集の完全復刻版が収録されている家永三郎・小田切秀雄・黒古一夫編集『日本の原爆記録』17、『原爆歌集・句集 広島編』(栗原貞子・吉波曽死/新編、1991年、日本図書センター)を近くの公共図書館から借り出して読んだ。解説によると、市民から寄せられたおよそ6,500首のうち、地元の結社誌の主宰者らからなる15名の編集委員の選考を経て220名、1,753首が収録され、1954(昭和29)年8月6日に第二書房から刊行されたとのことである。
9月3日には、平和記念資料館の同じ地下1階にある展示室で開催されていた市民が描いた原爆の絵「水ヲクダサイ」も見学した。これは原爆が投下された8月6日とそれに続く数日間の市街の模様、特に熱線に直撃された市民が水を求めて川へ防火水槽へと殺到した光景を描いた絵を展示したものだった。市民が描いた被爆直後の絵を収集している横山昭正氏(広島女学院大学名誉教授)によると、8月6日とそれに続く数日間の市街を撮影した写真の数は限られる(8月6日に限ると約35枚残存)のに対し、市民が原爆の惨禍を描いた絵は4,006点にのぼり、そのうち防火水槽をモチーフにした作品は159点にのぼるという。そして、これらの絵は写真に比べ、技術面での稚拙さは当然としても、作者の感覚や情念を写真や活字より直載に生々しく伝え、広島を標的にした原子爆弾による無差別虐殺の惨状を伝える貴重な証言となっているという(横山昭正「『市民が描いた原爆の絵』における防火水槽――画中の説明を中心にーー<その2>」『広島平和記念資料館資料調査研究会研究報告』第6号、平成22年3月、100ページ)。
『歌集広島』を読み終えて私は、この歌集に収録された被災者、および被災者と辛苦を共にした人々の短歌は、どれをとっても被爆直後の惨状と被爆者が生きたその後の生活の辛酸を短詩形の作品に生々しく凝縮し、広島に投下された原爆による無差別虐殺の惨状を伝える貴重な証言として、市民が描いた絵に比肩する価値を持つものと実感した。
そこで、後日のためにと、特に印象に残った作品をパソコンで打ち出したところ137首になった。しかし、これらすべてをこの記事で紹介することは叶わないので、以下、私なりに付けた主題別に数首を取り上げ、短い感想を記していきたい。
屍の腐臭が漂う市街地をさまよう市民の姿を詠んだ歌
『歌集広島』に収録された作品は時期によって大きくは被爆直後の市街地の光景を詠んだ歌と、原爆投下後約8年間の体験、核廃絶・平和への思いを詠んだ歌に分けられる。このうち、前者の中で目立つのは群をなす死体が放つ腐臭を堪えながら、熱線の猛威が残る市街を家族や教え子らの安否を尋ねてさまよった自らの体験を振り返って詠んだ歌である。この記事ではこれらの短歌から数首を選んで紹介することにしたい。原爆投下後約8年間の体験・核廃絶・平和への願いを詠んだ歌は次の記事で紹介したい。
1.大根を重ねる如くトラックに若き学徒の屍を積む
平野美貴子(無職)
2.焼けあとの仮救護所に蒸れてゐる臭ひはげしき火傷膿汁
井上清幹(無職)
3.死体浮くプールの水を貪り飲む女子学生のやき腫れし唇
川手亮二(学生)
4.焼け切れしシャツ持ちて恥部を覆ひたる女が水乞ひて吾に寄り来る
岡田逸樹(警察官)
5.火の街ゆ赤子抱へて居る少女炒り米噛みて含ましめ居り
加納節尋(元写真師・守衛)
6.声涼しくアリランの唄歌ひたる朝鮮乙女間もなく死にたり
神田満寿(無職)
7.生ける身のままをやかれしその苦痛が吾のからだに直につたはる
河野富江(無職)
8.生きの身を火にて焼かれし幾万の恨み広島の天にさまよふ
小森正美(商業)
『歌集広島』を読んでいくと、火傷で全身皮膚が剥がれ、爛れた姿の被爆者が泣き叫ぶ光景を詠んだ歌があまりに多い。これは上空約600mの地点で爆発した原爆のエネルギーの約35%が熱線となって地上を襲い、爆心地付近では3,000~4,000度、1km付近で1,800度、1.5km付近で600度に達したといわれている。ちなみに、4,000度というのは鉄が溶ける温度の2倍に相当する。このため、爆心地から半径500m以内では即(日)死が約90%、11月までに約98%が死亡している。この点で原爆投下は無差別虐殺そのものといって間違いない。また、爆心地から半径1km以内でも即(日)死率は60~70%に達している。
6番の短歌について少し説明をしておきたい。日本は1910年韓国併合によって朝鮮を名実ともに植民地として統治したが、1939年以降、表向きは「募集」、実態は強制・半強制により多数の朝鮮人を軍人、軍属、徴用工、動員学徒等として日本に駆り出した。また、日本の植民地統治下で田畑や山林を奪われた多くの朝鮮人が仕事を求めて日本に移住していた。正確な数はいまなお不明であるが原爆投下当時、広島で被爆した朝鮮人はおよそ5万人、うちおよそ2万人が被爆死したといわれている。広島で被爆死した人数は約16万人といわれているから、その1割以上が朝鮮人だったことになる。平和公園内で原爆の爆風で吹き飛ばされた慈仙寺の墓石を保存した場所のすぐ北側に在日韓国居留民団広島県本部の手で建立された「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」がある。元は朝鮮最後の皇太子・李埌の甥にあたる李偶公殿下(当時・陸軍第2総軍教育参謀)が被爆した(8月7日死亡)本川橋西詰のたもとに建てられていたのをこの場所に移設したものである。
原爆投下直後の市街の光景を詠んだ歌の中には水を求めてわが身にすがる被災者のそばを後ろ髪を引かれる思いで走り抜け、肉親の生死を探し回ったことに対する自責の念を詠んだ歌も散見される。
9.「許させ」と掌を合わせつつ救い呼ばふ人を見過ごし夫護りてゆく
原田君枝(主婦)
10.手を合せ救いを求めし人人よ遁れしあとも面影去らず
福原静男(農業)
原爆孤児・原爆乙女などなど~生き残った人々の辛苦を詠んだ歌~
収録された歌の中にはかろうじて生き残った人間に容赦なくふりかかった辛苦と悲哀を詠んだ歌もある。そんな歌を目の当たりにすると、いっそ爆死した方がましだったという作者の思いについ共感してしまう。
11.靴みがく児に父母はと尋ぬればピカドンで死せりとそつけなく云ふ
六十部かず緒(受刑者)
12.初め二三日親切にせし村人も臭しといひて近寄らずなりぬ
13.死に残りは早く帰れと悪しざまにののしられ身の置き所なし
森チヱ子(無職)
14. 爆心地を清掃しゐる日雇婦等戦争後家の名が多かりき
三浦春雄(工員)
15. 命のみ生きながらへて幸ならずある時は爆死を羨(いと)しみにけり
白島きよ(無職)
11番の歌について。戦争末期、広島市内の児童のうち2万数千人が家族を離れ、郡部へ疎開していた。そのため、これらの児童は被爆を免れたが、市内中心部に残った家族が全員死亡し、「原爆孤児」を多数生む結果になった。その数は2,000人から6,500人ともいわれているが正確な実態は判明していない。
生き残った人間の辛苦といえば、各種の被爆の後遺症に襲われた人々(ケロイドが残った人々、耳を焼かれた人々、髪が抜け落ちた人々等)とその家族が味わった悲哀、それに冷淡な社会に対する怨念を詠んだ歌に何度も出くわした。
16.原爆に耳を焼かれし我が妹はイヤリングなど欲しがらぬなり
新田隆義(電鉄車掌)
17.原爆のケロイド残りしこの吾を罵る子等を叱りもならず
西本昭人(公務員)
18.原爆乙女の顔面整形を援助すとスターらサインす花やかに悲し
竹内多一(無職)
19.原爆乙女と宣伝されつその深き胸のかなしみにふるることなく
古川春子(教員)
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〔opinion136:100916〕
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長崎の原子野で被爆者の辛苦を綴った詩人・福田須磨子~被爆65年目の長崎・広島を訪ねて(1)~
これまでに私はこのブログで原爆に関する次のような記事を書いた。
①正田篠枝:原爆歌集「さんげ」に触れて(2007年3月28日)
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_c69b.html
②被爆少女の手記にまで及んだGHQによる原爆記録の検閲(2007年4月5日)
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_8c34.html
③雑感 NHK「思い出のメロディ」を視て(2007年8月12日)
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_e386.html
その後も、GHQによる原爆報道や原爆に関する著作物への検閲について、細々とではあるが資料を調べたり、手に入れた資料に目を通したりしてきた。そんな中、今年の7月にインターネットを検索しているうちに、長崎県立図書館で「平成22年度長崎ゆかりの文学展<第2回企画展>」と銘打って、「原爆文学展」が開催されていること、またそれと併せて石田雅子『雅子斃れず』の原稿なども展示されていることを知った。「原爆文学展」では林京子、山田かん、福田須磨子らの直筆原稿や書簡等が展示されているとのこと。『雅子斃れず』というのは上のブログ記事②で「被爆少女の手記」と書いた石田雅子の原爆体験記のことである。これはまたとない機会と思い、9月5日までとなっていたので、別の仕事が終わる9月早々に出かけることにした。しかし、せっかく長崎まで行くなら、この機会に広島にもと思い立ち、結局9月1日から3泊4日の日程で長崎、広島に出かけ、原爆の史跡と碑めぐりをすることにした。ただし、現地へ行ってみると、各地の資料室(長崎県立図書館、広島平和記念資料館内の原爆資料室、広島市立中央図書館)に被爆地ならこその資料がそろっていることがわかり、時間的にはこれらの資料室で調べ物をする時間が一番多くなった。以下、4日間の長崎、広島巡りを通じて特に印象に残ったことを主題別に数回に分けて書き留めておきたい。一回目は長崎の原爆詩人・福田須磨子を取り上げる。
長崎県立図書館で
出かける前に私が長崎ではここだけはと考えていたのは、県立図書館で『雅子斃れず』の直筆原稿等の展示物を確かめることと前記のブログ記事③で触れた永井隆の旧居「如子堂」、永井隆記念館を訪ねることだった。しかし、下調べのつもりで古書店から買った水田九八二郎『ヒロシマ・ナガサキへの旅』中公文庫、1993年、を読むうちに、長崎の原爆文学では福田須磨子に関心が湧いてきた。それまで私は彼女のことはまったく無知だったが、上記の「原爆文学展」にも彼女の展示物が入っていたことから、どんな人物なのか気になったのだ。
9月1日、10時15分に長崎空港に着き、11時半ごろJR長崎駅前のバスターミナルで下車、ホテルに荷物を預け、駅前の百貨店の2階のレストランで昼食を済ませて、市電で長崎県立図書館に向かった。図書館は長崎歴史文化博物館の裏手の丘の位置にあった。県立というにしてはいささかこじんまりした建物だったが、「原爆文学展」は4階の「郷土資料」階にあった。入室して手前が展示室、その奥が閲覧室になっていた。
展示室に入ると福田須磨子のコーナーには猫を抱いてほほ笑んだ写真入りの略歴が掲示されていた。彼女の生い立ちの説明に代えて、それを転記しておくことにする。
〔福田須磨子の略歴〕
*大正11年3月23日 長崎市生まれ
*昭和49年4月2日 没(52歳)
○略歴
高等女学校卒業後、小学校の代用教員となり、のち師範学校勤務。昭和20年
被爆、家族は爆死する。
昭和30年(33歳)
*朝日新聞「ひととき」欄に、被爆者の苦しみをつづった詩「ひとりごと」が掲
載される
*被爆による紅斑症の症状があらわれ、入退院を繰り返す
*「長崎をつづる会」に入会
昭和31年(34歳)
*処女歌集「ひとりごと」がガリ版刷りでつづる会より発行される
昭和33年(36歳)
*第二詩集「原子野」が刊行される
*原水爆禁止運動に積極的にヵかわり、鋭い告発をする
昭和35年(38歳)
*全国的反安保闘争に参加、被爆者代表の一人として病をおして上京
昭和38年(41歳)
*第三詩集「烙印」発行
昭和42年(45歳)
*「われなお生きてあり」が完成。2年後に第9回田村俊子賞受賞
昭和44年(47歳)
*「長崎の証言」創刊号にエッセイを書く。以後もエッセイや記録を寄せる。
その他、福田須磨子の展示コーナーには「原子野」の直筆原稿(下書き)、「人間として2」、「人並みのしあわせ」の直筆原稿(下書き)、「母を恋うる歌」(『原子野』に収められた詩)や、原田操宛書簡(昭和48年6月7日消印)、自作のどんぐり人形も展示されていた。両親と長姉、そして家財を一瞬の被爆で失い、自らも被爆の後遺症を患って入退院を繰り返し、貧苦と人間不信に苦しみ抜いた彼女の生涯を知るにつけ、猫を抱いてほほ笑む彼女の写真がことのほか印象的だった。
展示室を一通り回った後、奥の閲覧室で原爆関係の地元資料を調べ、地元でしか入手できそうにない資料(『西浦上国民学校被爆追悼記』、長崎歌人会編『原爆歌集ながさき』、高嶋ミヤ子『一動員学徒の原爆体験――長崎の原子爆弾被爆体験の記録――』)を複写して、15時40分頃、県立図書館を後にした。ホテルに戻って目を通した『原爆歌集ながさき』から4首。
黒焦げの女が壁にへばりつき悪獣めきし血を滴らす
総懺悔などと美辞もつ過去がありて原爆死すら言へざりき 日本
(注)アメリカ占領軍の指示により、被爆者慰霊碑に「原爆」という文字を入れる
ことが許されなかった当時の状況を詠んだ歌と思われる。
小山誉美(短歌長崎)
爛れたる皮膚にうごめくうじ虫をつまみて捨てる割箸もちて
タイヤなきリヤカー曳きて暗闇に重傷(いたで)の兄を乗せて避難す
阿鼻叫喚 木下隆雄
爆心地北部を歩く
ところで長崎で回ってみたいと思っていた原爆の遺跡は爆心地公園に集っていたが、それは明日に残して、この日は県立図書館を出て市電で長崎駅前を通過して大橋まで乗り、下車後、爆心地より北方の旧山里国民学校(現・山里小学校)、永井隆の旧居・如子堂、そのそばの永井隆記念館、浦上天主堂を巡り、17時15分頃に平和公園に着いた。炎天下、持参の御茶ではのどの渇きが止まらず、山里小学校近くの自販機でオレンジジュースを買って飲みながら歩いた。平和公園内では長崎の鐘、平和の泉、平和祈念像といった定番コースを回り、平和祈念堂横の被爆者の店に入ったのは17時45分頃だった。土産物を買い地方発送するつもりだったが18時閉店と聞いて、店の人に明日出直すと告げると、「まだいいですよ」という返事だったので、長崎ちゃんぽんと手焼きのカステラを買い発送を頼む。店を出て斜め前にある原爆死没者追悼記念堂に寄り、慰霊の碑文に見入る。
帰路は松山町から市電に乗車、ホテルに着いてチェック・イン。部屋で汗を流して長崎駅すぐ横のアミュ・プラザ長崎の5階の広東・台湾料理店「上皇上」へ。長崎ちゃんぽん他の夕食にした。ちゃんぽんはさすがに美味しく、猛暑で乾いたのどを潤すビールも格別だった。
福田須磨子の詩碑を訪ねる
翌9月2日、9時半頃、ホテルを出て市電で松山駅まで。爆心地公園に入って原爆落下中心地に建てられた標柱、その東側に移設された浦上天主堂遺壁、長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑などを回り、40分ほど長崎原爆資料館を見て回った。出口のショップで横手一彦編著『長崎・そのときの被爆少女~65年目の「雅子斃れず」』を買う。資料館を出て、向かいの道路脇にある原爆句碑、長崎原爆青年乙女の会の碑、鎮魂「あの夏の日」の像(退職女性教職員長崎県連絡協議会建立)などを巡った後、福田須磨子の詩碑に着いたのは11時40分だった。
下の写真にあるとおり、碑は屏風のように三面から成っている。碑のデザインは長崎の詩人・山田かんの作で、切れ上がった両端は核の脅威を示し、中央に置かれた円筒形の碑の中には須磨子の詩集が納められているという(長崎平和研究所編『新版ガイドブックながさき』、2009年、新日本出版社、27ページ)。
また、円柱には聖フランシスコ病院長・秋月辰一郎の撰文が刻まれ、碑の正面には詩集『原子野』に納められた「生命を愛しむ」が刻まれている。
この詩碑は福田須磨子が他界した翌年の1975年に建立され、翌76年の命日(4月2日)からこの詩碑の前に被爆者らが集い、故人を偲ぶ会が開かれている。
ところで福田須磨子を語る時は、県立図書館の展示コーナーに掲示された略歴にも記された、1955年8月の朝日新聞「ひととき」欄に掲載された彼女の詩「ひとりごと」について触れておく必要がある。後に彼女の詩集『原子野』(1958年刊)の冒頭に同名の題で収められた詩である。
何も彼も いやになりました
原子野に屹立する巨大な平和像
それはいい それはいいけれど
そのお金で 何とかならなかったのかしら
“石の像は食えぬし腹の足しにならぬ”
さもしいといって下さいますな、
原爆後十年をぎりぎりに生きる
被災者の偽らざる心境です。
ここでいう「巨大な平和像」とは総額3,000万円をかけて平和公園の正面に建立された「平和祈念像」のことである。別途台座の制作に要した2,000万円は長崎市の予算から捻出されたが、像が完成した1955年当時、被爆者に対する法律的援護は皆無で、被爆の治療費も1957年に「原子爆弾被害者の医療等に関する法律」が施行されるまではすべて被爆者が自己負担しなければならなかった。上の「ひとりごと」は被爆者援護を置き去りにして原爆の遺跡でもない像の建立に巨費を投じた行政に対する被爆者の疑問をありていに語ったもので、新聞に掲載されるや須磨子のもとに共感の便りが多数寄せられた。
被爆地の平和祈念像は観光長崎の名所なのか
須磨子の投稿詩は平和祈念像の建立に対する素朴な疑問を表したものだったが、この像の建立のいきさつは実に俗っぽいものだった。『西日本新聞』は2002年8月7日から3回シリーズで掲載した「ナガサキの断層~被爆57年目の夏に~」下の中で長崎市が平和祈念像の建立を思い立ったいきさつを次のように記している。
「しかし、犠牲者への冥福は当然としても、そのことだけで像が建立されたわけではない。観光長崎の新名所をつくりたい市当局と、像制作で永遠に自分の名を残したい〔北村〕西望の『過剰な自意識』が一体となって出来上がったものだった。
そもそも祈念像の基本的な理念はどんなものだったのか。五〇年、長崎市の関係者を前に西望は、ぜひ自分につくらせてほしいと次のように熱弁をふるう。
『奈良時代に朝廷の下に全国を統一して日本を仏教国家にするために奈良の大仏がつくられた。同じように平和運動を進めるためにも奈良の大仏にならってできるだけ大きな男神像をつくるべきだ。女神ではダメ、絶対男神だ。大きさは力である』。平和祈念像の下敷きは、奈良の大仏だった。そして像の内面的意味よりも外観(大きいこと)が絶対的価値だったのである。・・・・・
完成から間もなく半世紀。像は期待通り長崎観光の名所として連日賑(にぎ)わっている。だが、その賑わいは写真撮影に格好の『背景としての賑わい』でしかない。・・・・・
広島の原爆ドームが市民の日常風景の中に溶け込み、怒りの象徴になっているのに比して、廃墟(はいきょ)の浦上天主堂を取り壊した長崎には目に見える『語り部』が存在しない。それに代わるものとして、長崎市は平和祈念像をつくり、母子像をつくった。しかし、所詮(しょせん)は“虚像”でしかない。それでも制作者に平和への燃えるような渇望があればまだ救われる。だが・・・。」
この記事の末尾に書かれた浦上天主堂の取り壊しについては当時の長崎市長・田川務の動静に加え、山口愛次郎司教、さらにはアメリカの思惑も絡んで平和祈念像の建立以上に深刻な問題が底流にあった。これについては帰宅後に知った、高瀬毅『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』2009年、平凡社;横手一彦『長崎旧浦上天主堂1945~58:失われた被爆遺産』2010年、岩波書店、などを読んだ上で自分なりの所感を書き留めたいと思う。
話を福田須磨子の詩碑を訪ねた9月2日に戻そう。碑に刻まれた詩と撰文に見入り、詩碑に向かってしばし手を合わせた後、碑を囲む石垣に腰をおろし、ホテルから持参したお茶を飲んで一息ついた。前を流れる下の川から来る風と炎天を遮る木陰に恵まれ、ささやかながら穏やかなひと時を過ごした。
(追記)帰宅して、福田須磨子の関係資料を調べてみると、長崎県立図書館に『福田須磨子氏旧蔵資料』一式が所蔵されていることがわかった。須磨子の姉が同図書館に寄贈したものである。初歩的な準備不足が発覚した感があるが、改めて同図書館に出かける必要がありそうだ。
初出:「醍醐聡のブログ」より許可を得て転載
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〔opinion128:100910〕
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