女子柔道選手たちの異議申し立て
- 2013年 2月 8日
- 評論・紹介・意見
- 三上 治
いじめや体罰の問題に続いてロンドンオリンピックの日本代表も含めた女子柔道選手たちの監督やコーチに対する告発問題が話題を呼んでいる。かつて金メダリストでもあった内柴監督の選手への性的暴行事件の判決も出たところだ。
いじめや体罰などこうした問題では個別の事情が大きな要因としてあるから一般化には注意がいるが、これらはやはり個別事情に還元してしまえない事態を内包しているように思える。告発した選手たちはいろいろな意味で困難を抱えており、選手生命をかけてこれをやったのだと思う。時間が経つにつれた機構側の反撃が強くなると思うが、彼女らを孤立から守らねばならない。それはこの事態を僕らが考え抜き今後の動きを監視し続けることである。
今度の事件に対して告発した選手たちの相談役であった元世界王者・山口香のインタビューが朝日新聞に載っていた。彼女は選手たちに「私は強いものに立ち向かう気持ちを持てるように、自立した女性になるために柔道をやってきた」と話したとある。そして、このことに気づき自立しはじめたのだとも述べている。そうであるなら、これは彼女らがオリンピックで金メダルを取るよりも重大な行為であり、人々に希望を与えるものだと思う。なぜなら、今、あらゆる領域で制度が壊れていくなかで、彼女たちは闘いの方向を示しているのだからである。自立して行くということが僕らの生き方で重要になっていることを彼女らは身を持って表現しているのであるからだ。
多くの人たちがスポーツをやることは偶然と言う契機が多いのだろう。その中でオリンピックを目指す選手になることは天分《素質》、あるいは環境に恵まれた結果である。オリンピックの代表選手にまでなってと思うかもしれないが、個々の選手は何の為に柔道をやっているのだろう、という内心の問いかけを持つ。これは外からは見えにくいことだが、スポーツ選手が誰でもが抱えている問題である。スポーツは肉体の鍛錬のスポーツであるが、同時に精神を鍛錬するものである。ただ、頭脳の鍛錬という意味での精神の鍛錬ではなく、肉体《内蔵》の鍛錬による精神の鍛錬だ。俗にいう知性ではなくもう一つの知性のようなものだ。肉体による精神の鍛錬は知的ことであり、人間的な行為である。肉体の鍛錬=生理的身体の鍛練ではない。精神の鍛錬であることがスポーツを続ける内発的力であり、自己鍛錬の根拠になっている。
この内発的な問いかけに対する答えとしてある歴史的なものである。例えば、柔道でいえば講道館の創設者の嘉納治五郎の教はその一つである。これは柔の道である。この道は精神としての人間の道という意味合いである。嘉納はスポーツにおける精神の鍛錬の特異な性格を見抜いていて、それを宗教や学問での精神の追求とは別のものと見ていたのではないか。
ただ、嘉納治五郎の柔道の理念は彼以降には深まり発展したわけではない。それは形骸化された言葉になって、武士道(武道論)が大きな役割を果たしてきたのではないか。これは伝統をなしたのであるが、極めて歪んだ性格を持ち込んできたように思う。武士道は武士階級が発達させた倫理《道徳律》であり、武道は武術に関する心構えである。これが、柔道の精神的な内容に浸透したとき創設記の柔道の精神は変質してきたのではないか。また、スポーツ一般にみられる傾向である。武士道や武道の論理は柔道の精神に与える形(心的形態)として機能してきたのであり、スポーツ一般にも影響力を持ってきたのだ。武士道からでてきた精神は非常の暴力的で抑圧的な側面を持つ。また、人間関係において絶対服従のようなことを強制するところがある。かつてこれは戦争や軍の論理(精神のかたち、あるいは共同倫理)として幅をきかしていた。
柔道の選手たちはその練習《鍛錬》の中で様々な悩みや葛藤を抱えていたと想像しえる。何のために柔道をやるのか、オリンピックを目指すのか、他の選手と上手く関係出来ない等だったろう。その根本には柔道をやることの意味を精神の形として求めようとしたことがある。彼女らが指導者に求めたのはその解決、あるいはその相談に乗ってくれることではなかったか。返ってきたのは暴言であり、暴力であり彼女らは傷つく他なかった。多分、監督やコーチは、また全柔連のメンバーも気持としては選手のために、教えられ学んできた方法で指導しただけだったのではないか。暴力や暴言、あるいは体罰への疑いのない伝統的な指導理念で。彼らは選手たちの求める精神の形に応えたつもりだった。だが、彼らは選手を抑圧し、傷つけただけである。武道の論理が通用しないのである。推察するに指導層の面々は何故に批判されるのかも分からず、問題の所在も分かっていないのだ。例えば、何故、体罰が悪いのかというのも分かっていないのだ。体罰で選手の精神は傷ついても鍛錬されることはない。自分の経験に照らせばすぐに分かることも、伝統的な武道の論理では自分をも誤魔化し分からなくしてしまう。絶対的な上下関係と服従が指導めぐる関係としてどうか、疑問すら持っていないのだ。僕は柔道の指導層の問題はスポーツ一般に拡大でき、今の政府の目指している教育にも通ずることだと思っている。だからこそ彼女らの行為は勇気ある行為であり、時代の先端の行為である。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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