「例外付き関税撤廃」なら交渉に参加してよいのか~国民皆保険を脅かすTPP~
- 2013年 2月 14日
- 時代をみる
- TPP医薬品醍醐聡
TPPは単なる貿易自由化協定ではない
今月末の安倍首相の訪米を前にして、自民党内では、環太平洋経済連携協定(TPP)の交渉参加について「聖域なき関税撤廃を前提にする限り、交渉参加に反対する」とした昨年の衆院選公約を堅持するよう求める意見が広がっている。こういうとTPP交渉参加に慎重な意見と思えるが、政府が、米側から関税撤廃の例外を認める言質を引き出せば、交渉参加に踏み切っても容認する余地を残している(2013年2月13日19時53分 読売新聞)点が重要だ。
しかし、TPPは関税だけがテーマではなく、アメリカ流の「自由貿易」にとって障壁とみなされる加盟各国内の諸々の制度――農業・自動車・サービス・金融保険・投資・特許・知的財産権・医療といった広範囲な制度――の撤廃を目指す国際協定づくりである。
また、日本とのTPP交渉に関してアメリカ政府が国内で行った意見募集の結果(2012年2月、外務省公表)をみると、産業界、労働界などから提出された115件の意見の大半は日本の交渉参加に肯定的だった。しかし、それは無条件でなく、「米国と同レベルの市場アクセスの確保を求める」(全米商工会議所)、「アプリオリの除外をすることのない包括的な合意へのコミット、合意済みの事項についてリオープンしないこと」(全米製造業協会)といった厳しい条件を付ける意見が見受けられた。また、玄葉外務大臣はTPPについて交渉に参加した後に離脱することはあり得るのかという質問に対し、それは論理的にはあり得るが、日本政府が離脱を決めるとなれば、それによって失われる国益、信頼も考えなければならないと答弁し、途中での離脱は容易でないとの認識を示唆している(2011年10月25日、衆議院安全保障委員会)。
以下、この稿では、TPPが公的医療制度にどのように改変を迫るものかを、これまでにアメリカが豪州・韓国と締結した自由貿易協定(FTA)ならびにEUとインドのFTA交渉の過程で生じた問題を先行例として、検討しておきたい。
(本稿は、厚生文化連の機関誌『文化連情報』2013年1月号に掲載した拙稿「TPPは薬価制度をどう変えるか」~連載 医薬品業界の経営動向 最終回~に加筆修正したものである。)
薬価制度を脅かすTPP
2005年1月に成立した米豪FTAについて、オーストリアのマーク・ベイル貿易大臣はオーストリア国内の高品質で求めやすい医薬品へのアクセスを国民に保証する医療給付制度(PBS)、特に医薬品の価格・リスト設定は従来のまま維持されたと語ったが、この言葉を信じる同国民は多くない。ホ-カ-・ブリトン社の世論調査では米豪FTAに対する支持率は交渉が開始された2003年はじめは65%だったのが、交渉が妥結した2004年2月には35%に低下した。
オーストラリアでは政府の医薬品有支持計画(PBS)の下で、政府からの補助金によって医薬品の価格は米国の3分の1 から10 分の1 の水準に抑えられてきた。また、新薬の価格は、代替療法よりも高価な場合は、それが代替療法を上回る有効性を証明されない限り、新薬として収載しない参照価格制度が採用されてきた(ジェーン・ケルシー編著/環太平洋経済問題研究会他訳『異常な契約――TPPの仮面を剥ぐ――』2011年、農山漁村文化協会、181ページ)。また、製薬会社が、特許切れ間近の医薬品の成分等を部分的に改善して特許期間の延長と価格の引き上げを図るエバーグリーニングは法律で禁止されていた。しかし、国際的にももっともすぐれていると自負していたオーストラリアの薬価制度をアメリカは自国の製薬業界(PhRMA:米国研究製薬工業部会)の販路・権益拡大のため、2つの面から切りやり玉に挙げた。
一つは、参照価格制に対する攻撃である。USTR(米国通商代表部)はこの制度にもとづく「不当に低い」薬価によって、企業が知的財産権の恩恵を十分に受けることを妨げられていると非難し、参照価格制度を骨抜きにしてしまった。すなわち医薬品を新たに代替性のない革新的な医薬品からなる「F1」と、ほとんどがジェネリック薬である「F2」に分類した上で、従来の価格規制はF2にのみ有効とし、F1は価格規制の対象外としたのである。
その上で、米豪FTAにもとづいて設置されることになった医薬品作業部会は、厳格な知的財産権の保護を通じて革新的医薬品の価値を尊重する必要性を優先するという原則を採用した。その結果、参照価格制度は存続はしたものの、その機能は大きく毀損され、薬価を押し上げることになった。
もう一つは、反エバーグリーニングの事実上の放任である。それまで、オーストラリアでは効能に無関係な、わずかな成分の変換だけで特許の保護・延長を図ることを認めない反エバーグリーニング法があった。これによって、特許薬の高止まりを阻止し、公的な薬価規制を実効あるものにしてきたのである。しかし、アメリカはこの反エバーグリーニング法は特許付与の原則となる新規性、革新性の解釈を各国の判断に委ねる方式に異議を唱え、薬効の新規性がなくても、既存品に新たな利用方法を付与するだけでも特許の対象とする原則を標準化するよう迫り、これに反する制度を特許権侵害とみなした。目下、オーストラリアでは反エバーグリーニング法は活きているが、アメリカの製薬企業はこうした原則が特許権侵害に当たるとみなせば、「投資家対国家間の紛争解決条項」(通称:ISD条項)を使って、協定締約国政府を相手取って訴訟を起こすこともできる仕組みになっている。これがTPPにも持ち込まれると、TPPは安価なジェネリック医薬品の普及を抑止し、先発薬の薬価の高止まりを誘導して医薬品市場を製薬資本のリゾート地にしてしまうだろう。
ジェネリック医薬品の普及に逆行する知財保護要求
ジェネリック医薬品の普及に対するFTA-TPPの脅威は可能性の問題ではなく、現実の問題となって現れている。この点をジェネリック医薬品の世界的供給源であるインドの例を挙げて確かめておきたい。
世界の紛争地や、感染症がまん延する地域、自然災害の被災地などで緊急医療援助活動を行っている「国境なき医師団」によると、現在、途上国に供給されるHIV治療剤の約80%、小児患者の治療に用いられている薬の約92%がジェネリック薬である。なぜ、これほどジェネリック薬が普及したかというと、HIV治療薬の1人当りの年間費用は2000年には1万ドル(約84万円)だったのが、2011年には約60ドル(約5,000円)まで下がった。そして、このジェネリック薬、例えばHIV治療用のジェネリック薬の約50%、抗生薬、抗がん薬、糖尿薬など世界の複製薬の20%を供給しているのがインドである。
こうして世界各地の貧しい患者の命綱ともなっている「世界の薬局」インドのジェネリック薬を守れという運動が起こっている。それは、インドのジェネリック薬が、一方ではEUとのFTA交渉を通じて、もう一方では多国籍製薬資本・ノバルティスによる特許権訴訟によって脅威にさらされているからである。
まず、EUはインドとのFTAに含まれる「海外投資に関する条項」を盾に、欧州企業は自社の利益や投資がインドの安価なジェネリック薬普及政策によって損害を被る恐れがあると判断した場合は、インド政府を提訴することが可能になっている。現に、インドでは2006年にノバルティス社が同社製の抗がん剤メシル酸イマチニブ(商品名:グリベック。この連載の第1回で取り上げた分子標的薬の一種)の特許申請が模倣薬だと判定され、申請を却下されたのを不服としてインド政府を相手取った訴訟を起こしている。ノバルティスは韓国でも2001年にグリベックを上市する際、特許権を盾に1か月に300万ウォン以上の価格を要求した。韓国内の白血病患者はこれに猛然と反対して「薬価の引き下げ」、「保険の適用拡大」を要求し、1年半以上戦ったが、韓国政府福祉部はノバルティスのほぼ要求通り、1か月に270万ウォン以上の価格を決定した。
これについて、国境なき医師団の必須医薬品キャンペーン政策責任者であるミシェル・チャイルズは次のように語っている (http://www.msf.or.jp/news/2011/04/5170.php)。
「インドの裁判所は企業の利益よりも、公衆衛生の保護と医薬品の普及を優先するよう規定しています。しかし、このような規定は、企業が独自に代理機関を通じてインド政府を提訴した場合には、適用されることは難しいでしょう。私たちは、FTAの海外投資に関する条項において、知的所有権の保護を要求することを止めるよう、EUに求めています。」
医療を受ける国民の権利を脅かす多国籍製薬資本
野田前首相はISD条項の危険性を質した国会質問に対し、この条項は相方向的なものであって、日本だけの脅威ではないと繰り返し答弁した。しかし、これはFTAなりTPPなりの内実をみない空疎な形式論である。その証拠に日本の製薬業界はISD条項に何ら異議を唱えていない。それもそのはずで、わが国の薬価を実勢価格以下に抑えている制度――外国平均価格調整制度や市場再算定制度など――がFTAなりTPPなりの締結によって撤廃されれば、アメリカの製薬企業ばかりか日本の製薬企業にとっても願ってもない「朗報」だからで、いまさらアメリカ政府を相手どって訴訟を起こす動機はどこにもないからである。
現に、自民党は2012年総選挙公約集の中で、次のような医療政策を掲げている。
「製薬産業がイノベーションを通じて付加価値のある薬剤の創造力を強化し、国民医療へさらに貢献していくため、研究開発減税の拡充、新薬創出・適応外薬解消等促進加算制度の恒久化を図るとともに、基礎的医薬品の安定供給に資する措置を行います。また、先発品と後発品の役割が適正に反映された市場実勢価格主義に基づく透明性の高い薬価制度を堅持します。さらに、医療の効率化や国民の健康維持の観点から、後発品の普及を図るとともにセルフメディケーションを推進します。」
新薬加算制度の恒久化といい、先発品と後発品のセグメンテーションといい、国民の医療へのアクセスをさらに狭める一方で、わが国の薬価制度と医薬品市場を多国籍製薬資本の求めを先取りするかのように、改変する政策と見て取れる。
しかし、こうした医療政策は国民の医療を受ける権利を犠牲にして、国内外の製薬企業に今以上の高利益を保証する仕組みに他ならない。これは国境なき医師団の次のような指摘にもはっきり示されている(前掲サイトより)。
「医療分野での知的財産権の保護は、薬価を高止まりさせて治療の機会を狭めている。その結果、購買力が弱い途上国の人びとが苦しんでいる。アメリカは、途上国での知的財産権の規制を厳格化・高度化して既得権益を守り、開発費を薬価に反映させる誤ったビジネスモデルを固持している。途上国の事情は考慮されていない。」
さいわい、インドはグリベックの特許はその後も認められず、ジェネリック薬のビーナットは20分の1の価格で販売されているという。
韓国でも、前記のように、2001年にグリベックが承認される際、「白血病患者は生き続けたい、ノバルティスは薬価を引き下げろ」という患者たちの行動の成果もあって、グリベックは、通常、自己負担5割のところ白血病患者だけが1割に減額され、その1割はノバルティス社が出資する財団からの補助で賄われることになったという。もっとも、それは、ノバルティス社がたった1割引(1ヶ月あたりの要求額300万ウォンから270万ウォンへの値下げ)で、韓国でグリベックを上市できた上でのことであるが(以上、「〔診察室〕抗がん剤グリベックの問題点」『群馬保険医新聞』2011年5月号参照)。
以上見てきたように、TPPは国境を超えて、各国国民の医療を受ける権利を切り刻むとともに、薬価を高値に誘導して医療財政をさらに窮状に追い込む危険な医療政策に道を開くものである。こうしたTPPの実態を知るなら、農業など特定の分野の関税までも例外なく撤廃されるのかどうかだけが交渉参加の分岐点かのように議論の土俵を誘導する論調に惑わされてはならないのである。
初出:「醍醐聡のブログ」より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔eye2178:130214〕
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