危機から「コミュニズム」へ
- 2010年 9月 15日
- スタディルーム
- 「コミュニズム」危機高橋順一
1.
3月26日にドイツへやってきてから早くも半年がたとうとしています。もっと早く原稿をお送りするつもりだったのですが、当地ライプツィヒでの一人暮らしは細々した用事やら雑用が思いのほか多くいつのまにか時間が過ぎてしまいました。まず原稿が遅れたことをお詫びしておきます。
先日ドイツの伝統的な大学町ゲッティンゲンで合澤清さんにお目にかかりました。通信でもご承知のように合澤さんは毎年この町にアパートを借りて約二ヶ月滞在されています。お会いした日、日本から来られたきみ子さんもご一緒に合澤さんの行きつけの店でビールとドイツ料理を堪能する楽しい一夜を過ごしたのですが、その折りに合澤さんから原稿を書くようにあらためて慫慂されました。ようやく合澤さんとのお約束が果たせそうです。
さて私が当地へ来てからじつに様々なことが起こりました。
アイルランドの火山噴火、ギリシア経済危機に端を発した欧州金融・財政危機とユーロの対円暴落(これは正直なところすごく助かっています)、ポーランド大統領の墜落死、メキシコ湾の海底油田事故と史上最悪の原油流失、ロシアを含む欧州全域を襲った猛暑や中国・パキスタンを中心とするアジア地域の異常気象、そしてそれに伴なう洪水、土砂崩れ、台風、山林火災などの頻発、アフガニスタンでの戦闘の激化と米兵戦死者の急増等々、ちょっと思いついただけでも枚挙に暇がありません。
そしてこれらの出来事が示しているのは、私たちの世界が2008年に顕在化した危機から逃れえていないこと、いやそれどころかI・ウォーラステインが指摘した近代世界システムの終焉の始まりとしての2008年危機が、国家政治システムの機能不全と金融・財政システムの機能不全の深刻化ともあいまって恐慌にとどまらない全面的なシステム崩壊(クラッシュ)の可能性へと向かいつつあることを物語っています。
ただ残念なことにこうした状況のなかでも、反システム運動の担い手としての左派の動きは活発とはいえません。例えばギリシアの労働運動は、左派パパンドレウ政府のEUへの全面的な屈服と緊縮財政キャンペーンの前に抑えこまれつつあります。危機が囁かれているアイルランド、イタリア、スペイン等でもおおむね財政再建派のキャンペーンの前に左派は有効な反撃を組織しえていません。
その凝縮された象徴がイギリスにおけるキャメロン保守党政権の成立でしょう。歳出削減と増税による財政再建という古典的ともいえる自由主義政策を掲げるキャメロン政権が成立したことにそうした状況がよく現れています。とはいえそれが成功する保証はどこにもありません。もし今欧州のどこか一国がデフォルトを宣言すればドミノ式にEUシステムは壊滅するでしょう。P・クルーグマンが指摘するように財政再建の声高な主張が今回の危機をさらに深刻な恐慌へ、さらにはシステムの崩壊へとつながるとすれば、皮肉なことにシステムの保守を目ざそうとする古典的自由主義者たちこそ最高の反システム運動の担い手といえるのかもしれません。
しかし私たちは今回の危機をこれまた古典的な意味での恐慌待望論から見てはなりません。なぜなら資本制システムが地球環境全体をおおう現在の世界システムのもとではシステム崩壊は地球環境をもまきこんだ形での人類の生存環境の破局へと至りかねないからです。
それだけではありません。この危機は人間が生きる環境としての社会そのものをも破壊しかねないのです。実際その徴候は様々な形で現れつつあります。貧困と窮乏化にさらされる人々の割合は発展途上国だけでなく先進国においても急速に増大しています。それはたんに経済的貧困だけでなくコミュニティや友愛・連帯関係の破壊を、生存基盤そのものの危機ももたらしつつあります。
ここでいう社会は特殊近代的な意味での契約モデル的な「社会」だけを意味しているわけではありません。むしろ人類史に普遍的な形で存在してきた共同性の基盤としての社会を意味しているといったほうがよいと思います。しかし近代世界システムの下ではそうした共同性の基盤としての社会そのものが徹底して資本制システムと近代国家システムによって侵食されているため、本来は別であるはずの近代システムとしての「社会」と普遍的な共同性の基盤としての社会が不可分な形でリンクしてしまっているのです。ということは近代世界システムとしての資本制システムおよび近代国家システムとそれによって構成される「社会」の崩壊がこの共同性の基盤としての社会そのものの崩壊へとつながってしまう可能性をはらんでいるということになります。
今左派が有力な反システム運動のための対抗原理をうまく提起しえていないのは、この「社会」と社会のリンケージのなかで、ともすれば左派、とりわけ社会民主主義者や市民主義者たちが「善意」、つまり目先の貧困や失業を何とかしたいという思いからとはいいながらこのリンケージの前でたちすくんだまま、結果的にシステム保全運動に向かってしまっているからではないでしょうか。
いうまでもなくそれは資本制システムおよび近代国家システムの擁護に帰着します。今真に必要なのは、絶対に社会を崩壊に追いやってはいけないという前提命題と、その社会が、資本制システム、近代国家システム、さらにはグローバルな国家間システムに基礎を置く近代世界システムの基盤としての「社会」と不可分にリンケージしてしまっている中で、「社会」を社会から分離し、「社会」のみを終焉へと追いやるための、言い換えれば「社会」の解体によって社会を再生させ救済するための方途を原理的に結びつけることです。
「社会」と社会のリンケージに対して、逆に「社会」を解体しつつ社会自身のトータルなリンケージの再生を目指すということです。そこで想起されるのが近年急速に復活しつつある「コミュニズム」をめぐる議論です。
ここ最近だけでもジジェク、柄谷行人、的場昭弘などの「コミュニズム」をめぐる著作が公刊され多くの読者を得ています。
今なぜ「コミュニズム」なのか。いうまでもありませんが、この「コミュニズム」はかつてのスターリン主義の汚辱にまみれた共産主義とはまったく別なものです。とはいってもまだそれがいかなる思想、理論なのかの全体像は明らかになっているとはいえません。だからあえてカッコをつけてコミュニズムという言葉を使っているのです。
しかしその一方すでに見てきたような危機の深まりの中で、新しい社会――「社会」ではない――の原理を明らかにするための焦点として「コミュニズム」が浮かび上がってきていることも事実です。「社会」が社会を道連れに自爆してしまい人類の生存条件が決定的に奪われてしまうのを避けるためには、どうしてもこの「コミュニズム」の原理が必要なのではないのか。そうした認識が今登場してきたということです。次回以下この問題について自分なりに少し考えてみたいと思います。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study325:100915〕
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