女子柔道界で起きていること―再論
- 2013年 2月 15日
- 評論・紹介・意見
- 三上 治
華やかにもてはやされているのかと思っていた女子スポーツ世界である。女子サッカーチーム「なでしこジャパン」の活躍に続いてロンドンオリンピックで目覚ましい成果を上げたのは女子柔道だった。総じていえば、近年、男子のスポーツ競技は不振であるがそれに比して女子の方は活躍が目立っている。先のオリンピックでも男子柔道の惨憺たる結果と比較するまでものなく、活躍したのは女子柔道だった。これに女子のレスリングを加えてもよい。このその女子柔道界で監督やコーチの選手に対する暴力事件が起き、オリンピック代表選手の告発が明るみになって深い衝撃が走っている。
ことの経緯の細かい説明は省くがトップ選手15人が柔道女子日本代表の園田隆二前監督やコーチが暴力・ハラスメント行為を働いたとして告発しているのである。告発を受けた全柔連などの機構側は例のごとく隠蔽的な内部処理に走り、それが一層選手たちの反発を強めている。この背景には「いじめ」問題から体罰問題が社会問題として広がってきていることがある。伊吹・文科相は「体罰なくして教育は成り立たない」というコメントを出している。少し、ピントがボケたものというべきである。スポーツ界での体罰や暴力事件には個別的事情が大きい。その要因を勘案しても今回の事件は一般化して取り上げるべきことのように思う。深夜番組を何気なくみていたらこの問題を取り上げていた。「精神主義や根性主義」がいけない。「科学的指導が必要である」。これらはある意味ではもっともなのだが問題の表層をなぜまわしているだけである。
ここでは女子柔道を取り上げるが僕は柔道を肉体の鍛錬を通して精神を鍛錬するところに本質があると思う。これはスポーツ全般に広げてもいいことだ。精神の鍛錬あるいは探求というと宗教や文化活動を思い浮かべるかもしれないが、それらとは違うが精神の鍛錬をするのが柔道である。頭脳の通した知的鍛錬ではないが、身体を通した知力の鍛錬である。肉体が考えるとでもいうか、人間の精神的な活動なのである。この内発性や内在性が柔道の根底にあるものだ。だから、柔道やスポーツがある種の精神主義的傾向を持つのは必然である。表面的には競技での勝利や栄誉ということは外在的契機としては大きいかもしれないが、スポーツに打ち込む者が無意識のうちに魅かれているのはこちらである。だから、スポーツの選手はそれに打ち込む中で様々な心的(精神的)な悩みを持ち、身体を通して自己問答をしているのだ。人々がスポーツ競技を見ながら得る感動もここに基盤があるといえよう。
この柔道の持つ精神的世界を「精神主義や根性主義」としていうのはこれを表層的、部分的にあらわしたものだ。これは部分的な表現であり、この世界を正当にあらわしたものではないのだ。ここには柔道やスポーツの持つ精神的活動が正当に評価され発展していく形(形態)が見出されていないということである。柔道に即していえば、その創始者の嘉納治五郎の提起したものが、形骸だけ残り、肝要な部分はどこか消失してしまったのである。嘉納が柔述から柔道に切り替えたときの深い精神的な提示は誰も発展しきれなかったのである。それを代用してきたのは武道の精神である。武道のもとは武士道である。
柔道の指導理念になってきたのは武道の精神である。近代日本でこの武道(武士道)の精神が文化様式として支配力を持ち、浸透してき背景がそこにはある。三島由紀夫が日本人の行動スタイルに文化としてのフォラムを見出していたことも想起される。武道の精神は日本の近代文化やスポーツの様式(精神としての形)として大きな力をなしてきた。俗にいう侍(サムライ)精神なるものといえる。武士道(武道)は死を職業とした武士階級の道徳律であり、戦争を目標にした人間の精神を鍛錬する目標となるものだった。ここには忠誠と絶対的服従という規律が付随していた。社会的な規律としても存在していた。これは特に戦争期には大きな力を発揮してきた。これは戦後も残り、体育会系統には伝統としてあり、戦後も受け継がれてきて指導の理念になってきたのだ。柔道の選手たちは武道の基づくものを柔道の精神を受け継ぎ実践してきた。園田元監督やコーチもこうした伝統の中で育てられ、柔道の目標も指導理念も身につけてきたのだと思う。そこでは暴力や体罰もさして疑われなかったのである。今や制度(精神の形)は壊れているのである。これは社会のあらゆる領域に見られることが柔道界、あるいはスポーツ界に及んでいるといえる。もちろん、これは教育界にも波及していることだ。
15人の女子選手は日々の鍛錬のなかで、自分たちが考えているものと、指導的理念、あるいは指導者の考えに齟齬を感じそれを変えようとしたのだ。物を言うにも多大な勇気のいる関係の中でのことである。彼女らの告発は柔道の持つ内在的な精神の発展のためのものであり、敬愛に基づく関係を求めたといえる。同時に、彼女たちの精神本来の自由と自立に気がついたのだ。これはなかなか、大変な事だが、スポーツに携わる多くの人に希望を与える行為ではないか。時代の混迷を指導層は体現しているが、彼らに問題の所在がわかっていない不安はある。その意味でも彼女たちを孤立させてはならない。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion1171:130215〕
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