「土に生きる」とは? その一応の答 ――『土に生きる』第11号を手にして(12)
- 2013年 2月 24日
- スタディルーム
- 『土に生きる』自然農法野沢敏治
「作って食べる会」は発足してから10年たった。それを祝って1983年11月12日、記念式典が三芳村稲都公民館で開かれる。本号はその特集号である。発行日は1984年5月17日。ここでも中村則子によるカットがたくさん入っている。
末尾に10年間の歩みが年表になっている。それを見ると、季節の変化が収穫を左右した様子が分かる。1976年の冬はみかんが大不作。1979年8月は干ばつでキュウリやインゲンが不作。そうかと思ったら逆に、9月は長雨と台風で秋野菜が被害を受ける。1982年8月は台風で夏野菜は壊滅状態。その他、年表には運営上のことや交流・縁農、配送の帰りでの交通事故(――心配していたことが実際に起こる)等が記載されている。
市場開放の圧力が強まる
1984年はアメリカからの市場開放の圧力がますます強まった年であった。2月にはアメリカとの間で金融・資本市場の開放について協議が始まる。4月にはアメリカとの間で牛肉とオレンジの輸入割り当て交渉が妥結する。日本の農協はそれに対して抗議する。6月には日本では冷害によってコメ不足となり、韓国から15万トンを緊急輸入した。農協はそれに対してそれまで政府が行なってきた米の減反政策(1969年以来)を批判する。減反と輸入という政策の矛盾が出たのである。生産者米価が閣議で2.2パーセント引き上げられ、一俵60キロで1万8668円と決められる。8月には国鉄再建監理委員会が国鉄の分割・民営化の方針を出している。12月には日本の鉄鋼のアメリカでの市場占有率を5.8パーセントに減らすことが合意される。
こういう外圧の延長で、翌1985年9月にはプラザ合意がなされ、円相場は急騰して1ドル=230円となる。そして5年後の1989年9月には日米経済構造協議が始まり、両国間での貿易不均衡の原因となる13項目について協議がなされる。
以上のことを背景にして、長谷川煕の講演が2月23日に持たれる。題は「食糧――何がおきているか」であった。
自然農業と提携の活動は農協や一般の農家とちがって、市場開放の圧力をそれほど恐れない。彼らは市場開放に負けていない。生産者は消費者と信頼関係ができていたからである。この運動はどこからも補助を受けないで自立してきたと自負をもつ。農政は1961年の農業基本法いらい、国際競争にも耐える中核農家を育てようとしてきたが、有機農業の意義を認めるのはずっと遅れる。有機農業を政策の1つの柱にするのは1999年7月の新農業基本法においてである。お隣の韓国と比べると、日本では有機農業は社会集団のレベルでは進んでいたが、国政規模での有機農業対策はかなり遅れる。
どんな小さなことでも疑問をもつのが人間本性
巻頭言で露木裕喜夫の『自然に聴く』から引用されている。それは人間と自然との関係を正しく捉えることで、「経営」や儲けを求める人間関係を正すという趣旨のもの。
「微細なことにも「これはどういうことなんだ?」と尋ねる姿勢が必要です。それを、自分で、ああだこうだとご都合主義に解釈し、このほうが儲かったとか、経営が上手にゆくとかいっても、それは人間相互間のなりゆきであって、<自然>との関係ではない。<自然>との関係を正さない限り、本質的な第1ボタンをかけちがえることにもなってしまう。そして最後のボタンが合わない。この当然の帰結が、さきにお話したように、今日の恐るべき公害なのです」。
本号発行の後でバブルの熱狂が来る。日本は輸出で得た利益を会社の成長 →従業員の給与の改善という線以外に、金余りを作り、それを土地や絵、株式等の資産に投機してしまった。経済学の古典も古書市場で高値をつけて標準を作ってしまったために、大学や研究者は迷惑を受ける。他の国も迷惑を受ける。日本は経常利益を目前に迫った少子高齢化に備えて投資しておかねばならなかったのだ。バブルははじける。
こんなことであったのだ
会ができて10年の節目となる。それを機にこれまでを振り返る。振り返ることは今までも何度かあった。それでも同じ振り返りでなく、新しいことが見つかる。
落合ヒデが会の発足のころについて書いている。1973年10月3日に両国駅から三芳に向かった時の臨場感ある報告がなされる。稲株に2番目の眼が伸びているのに驚く、1本のみかんの木に深緑の若いみかんと黄ばみだした 大きな夏ミカンがなっている、あるいは無農薬みかんといっても初期には硫黄剤を2度使うことを知る!同年10月発行の「田無よつ葉だより」第5号から本号に、露木出席の下での生産者との話し合いと消費者の2度目の三芳訪問のことが転載されている。また、翌1974年10月12日付けの「安全な食べ物を作って食べる会」の「お知らせ」が収録される。それを見ると、第1回の配送と次の定期的な配送について会員に連絡がされている。配送の事務のてんやわんや振りや卵を薬のように貴重品あつかいしている様など、当時はこうであったのだ。
会が始まった10年前には今のように発展することを予測する会員はいなかった。和田金次によると、事業は「天の利、地の利、人の和」があったから成功した。
覚悟をしたうえでの自然農業と他者との連帯
本号での振り返りを追ってみよう。
1973年10月3日、27名(25名?、23)の三多摩中心の普通の主婦たちが「乳児を背中におぶい、幼児の手を引いて」三芳村山名地区を訪ねる。その時に「けんけんがくがく」の話し合いがなされる。消費者も生産者も生活がかかっているから真剣であった。消費者は生産者に、見かけは悪くても安心できる食べ物が欲しい、今すぐに無農薬にすることが難しければ少しずつ減らしていってほしい、従来の流通業者を通さずに消費者と直結しようと、呼びかける。
生産者はどう反応したか。消費者は近代農法を批判するが、それはすでに大きな力をもっていた。農薬や化学肥料が安定した生産と生計の維持に威力を発揮していたから、生産者はたとえ農薬が危険だと知っていても、使用しないなんて考えてもみなかった。だから消費者の申し出に「驚くより話にならんと思った」生産者もいた。消費者側は自給だけでもとお願いするのだが、生産者はその自給が大変なのだと応じる。それでも生産者側の中には近代農法で「人まかせにして来たための結果とはいえ、むなしい思いをし続けて来た」者がいた。消費者の訴えに「農民の気持を目覚めさせ、呼び起こすものがあった」と思う者はいた。「今までやってきた農業とは異なった何か」が見つかりそうだと、期待を持つ者も出た。
有機農業は農法のことだけでなく、生産者と消費者との連帯をめざすものであるが、それは現在の都市の農村支配の構造を変えないままでの提携――通常の「産直」はそういうもの――ということではない。同年10月に普通の生産者たち――後の笑い話になるが、消費者の中には最初、三芳の生産者を「神様」のように思う者がいたらしい。生産者は露木の教えをそのまま実行していると思ったからか。ところが縁農に行ってみると、生産者は酒もたばこも飲む普通の者たちだと知った!――が18戸でグループを結成する。生産者が立川で露木から話をうけた時には、その妥協を許さない厳しさに今後の取り組みを危ぶんだほどであった。露木は生産者に過去の一切を捨てて自然農法に踏み切る決意を求めたのである。彼は生産者が「商品」を作ることを止めて自給生活に入り、「出来た生産物の余った分を消費者に分ける」ことを教える。最初は周りの農家からそれは無謀だと言われていた。
露木の話は消費者にも突飛過ぎていた。ある消費者は彼からこう言われる。竹の葉のわずか1センチの厚さの落ち葉の下に生えている細根をさして、「たべてごらん」と。……実際に食べたら柔らかくて甘かったのである。
消費者側も生産者の覚悟に応える。翌1974年2月に会員各自が1万円の保証金を出すと決める。安くない額!その保証金をめぐって議論があった。保証金の趣旨は、消費者が安全な食べものを求めるのであれば、生産者の生活を保障するくらいの覚悟をすべきである、生産者が自給体制を確立するのを支援するということであった。それに対して、消費者だって生活を保障されていないのに、それは生産者を甘やかすことにならないか、保証なんておこがましい、それはかえって生産者をさげすむことでないかと、議論が出る。
お金持ちの専業主婦の道楽?
マスコミ(産経新聞が代表例)はこの運動をお金と暇のある主婦のお遊びだと報道する。それは産業界のお先棒かつぎをする当新聞の悪意ある中傷であった。実際はどうなのか。千葉大学の教授が1981年にアンケート調査を行なっていた。会員の中にはその報告を見て、自然農業はお金持ちの道楽とか、飽食時代の落とし児、専業主婦でないとできないと言われたが、それは当たっていると感じる者もいた。アンケート結果によると、消費者の平均年収は635万円。世帯主の職業は管理職32.6パーセント、専門技術者25.1パーセント。専業主婦は会員の73.5パーセントであった。会の消費者の収入は全国平均と比較すれば高い。でもこの程度の数字で金持ちだと言うのであれば、日本はよほど貧しいか、それほど豊かでもないのに中流意識に染まっていたのである。可処分所得になると、サラリーマンは個人営業者と違って収入を全額捕捉されて、源泉徴収されていることも考慮せねばならない。また専業主婦だから外に仕事をもつ者より食べ物に関心をもつ割合が多いというが、専業主婦であってもそういう会に参加しない者の方が圧倒的に多かった。マスコミの意地悪は消費者の意識を分断させるものであった。
ある会員の男性は、当時牧伸二がウクレレをもってハワイアン調でやっていた「イヤンなっちゃった節」や井上ひさしの「ひょっこりひょうたん島」の替え歌を作って抗議の意志を示した。それらがどんな歌かは各自でインターネットを検索して聞いてみたらよい。ここでは前者の歌詞の1部だけを紹介しておく。
「アーアー、イヤンなっちゃった、アーアー、驚いた」(前奏と間奏)
[1番] 三芳村から 野菜がくるよ / 週にいちどの 安全野菜 / だけどタマゴは 4つか5つ / 大人は たべられない
[4番] 子供は結婚して チャッカリ別居 / ゲートボールも 弾みがつかぬ / いっそ三芳に 老人ホーム / 建てて暮せば、産地直結
最初のころの一挿話―― 好きなもの食べて早く死にたい
自然農業をやってみたらどうであったか。最初は薬なしの養鶏をためしたのであるが、それが予想に反してできてしまった。これで他にも応用可能かと期待する。みかんの無農薬栽培も最初は病害虫にやられてとても駄目だと思っていたのだが、我慢して続けていたら微生物が増えて土ができ、てきめんに樹勢が復活する。
最初のころの配送の状況も前号に載った会からの「お知らせ」で分かる――10月に限ってみると、だいたい1週間に1度、東京方面のいろいろの地域に配送していた。定期的な配送は11月に入ってからになる。卵は毎週会員2名あたり1キロの配送であった。生姜の配送はこの10月が最後になっていた。加工食品の値段は梅干し1キロ1000円、シソの梅漬け100グラム300円、味噌1キロ600円、ごま200グラム400円、きうり塩漬け4本100円。最初の頃は同じ野菜ばかりであったから、無理解な主人が嫌味を言ったようである。「食べたい物食べないで長生きするよりも好きな物を食べて早く死にたい」と。
人間らしさとは
それが10年たつと、農法・消費者の生き方ともに身についていく。作物は無駄なく量も確保できるようになり、生産者の気持も安定していく。消費者の方では配送の日は「心豊かな気持になって」食事を作る。三芳村でできたものをその出来不出来にかかわらず「まるごと」受け取ることや――店にあるようにどこどこの産地の何々でなく――、旬のリズムに合わせて食べられることに自然に即した「人間らしさ」を感じていく。小学校2年生の子がみかんには「すっぱいのもあるけどあまいのもある」と発見する。また小学校5年生の子は「みかんはとりたてがすっぱくて食べにくいけど少しおいておくと」甘くなることを知る。
分配は大数の法則で
ポストでの分配は公平にするために野菜を量ったり細かく切ったりする。この分配は消費者の悩むところであった。それに対して先述の石井が厳正に分配することは「不信と猜疑に基づいたエゴイズムと紙一重のところにあるのではないか」と問題をだす。分配はおおざっぱにやっても、その回数を重ねていくと、やがて平均化する。これは大数の法則と言うらしい。だから、仮にある時にある人に少し多めに分配されて自分の分が減ったとしても、長い間には結局公平になることを考えて、今は御馳走してあげたのだと考えることができる。……これは面白い話だ。
田無東ポストの藤井功子が原田律「権利の社会と自立の社会」から引用して、都市生活者と農村生産者との立場の違いについて考えている。例えば、道路が壊れた時、農村では自立しているので自分たちで元通りにするが、都市民は権利を主張して行政に修理を要求する。これは普通の「自立」についての考えと異なる。普通は農村では義理が多くて自由でないとみなされている。問題はその「自立」観が妥当かそうでないかを論じるよりも、藤井も指摘するように、立場の違う者がどういう関係を作っていったらよいかに考えを進めることである。
田舎の良さは都会からの移住者が村人に改めて分からせることがある。夜空の星の多いこと、キジやイタチがいて海が近いこと、「自分本位で仕事ができる時間の自由」があること、等。見慣れた者にとっては、なんだそんなことかであろうが。
そっと入れ込まれてあった菜の花
ガーデンポストの成毛節子が書いた文章がある。年末の29日に配送された野菜の片隅に隠れるように入れ込まれてあった菜の花のことである。それは分配すると1人当たり3,4本しかなかった。彼女はそれを冷蔵庫にしまいこんでいたが、翌日、同じポストの他の家のテーブルにその花が咲いているのを見る。すぐに家に帰って、こごえた葉にちぢかんでついていたつぼみをカップに入れる。2つの花が1週間目に咲いた。彼女はそこに新春を感じる。
木村いよこが詩「いのち味わう」で消費者の素直な感情を歌いあげている。実
に清々しい。私は以前に「ちきゅう座」の「スタディルーム」に「有機農業は何であり、何であろうとするか」と題した論説を投稿し、その中に引用させてもらった。ここでは省略する。
常に問題意識をもつ
戸谷が10年たって表面化してきた会の問題点をあげている。どの会でも10年が1つの区切りであろう。戸谷によれば、本会ではここ数年、総体的に消費者も生産者も低迷していた。消費者側の問題点は、最初の111名から1365名までに急成長したが、その一方で意識は後退し、運営委員会は活気がなくなる。運営委員会に問題点があまり出なくなる。原因は議論が議論のための議論になって疲れたこともあるが、会の精神が新入会員にたいして説明不足になっていたようだ。会の精神とは? 会は単に安全な食べものを手に入れれば良いのでない。その点で産直とは違う。食のあり方を含めた生活の見直しをする運動であり、物の売り買いでない分かち合いを守り育てていくことである。
戸谷は生産者側にも問題点を出す。これまで本会の運動は相対的に消費者主導的であったが、もっと生産者側から内外の食糧事情とか生産と流通の状況に対しての積極的な発言が欲しいと注文を出す。その芽はすでに出ていて、養鶏や堆肥の研究会が発足したり、青年部が各地の有機農業の青年たちと交流を始めていた。他の問題点としては、後継者不足、週3日の配送の担い手の確保、自然農業を現在の34名の中だけでなく農協や地域にも広めること、等。
この連載を始めた時の約束通り、11号分を紹介したから、今回で一応の終わりにする。
私は以前の号で「土に生きる」とはどういうことかと問題を出しておいた。それに答えねばならない。……それは今までのすべてである。それでは答にならないか?私の紹介を追ってきた人であれば、同じ思いをもつだろう。生産者と消費者が出会った時のぶつかり合い、露木の岡田との生きざまの違い、リーダーの悩み、真面目もありいいかげんもありの会員、そわそわと配送に出る生産者と今か今かと待つ消費者、初めのころは和気あいあいだったが議論に継ぐ議論で疲れてしまうその後、等々。
それらのすべてが、そう、すべてが、「土に生きる」を定義する。そして後に続く残りの号によって定義されていく。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study576:130224〕
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