民主党代表選の意味は何か ―永久革命のための蟷螂の斧―
- 2010年 9月 17日
- 時代をみる
- 半澤健市政権交代民主党
09年8月に起こったのは「政権交代」ではなかった。まして革命ではなかった。
この一年、遠慮がちにそう書いてきたが、10年9月14日の民主党代表選の結果を見てそれは確信に変わった。長すぎた「自民党」政権が「民主党」政権に変わった。世界が一変しそうだと多くの人が思った。それは大いなる誤認であった。
日本近代140年の二大事件は「明治維新」と「大東亜戦争の敗北」である。そこで主権者は変わった。将軍・藩主から天皇へ。天皇から国民へ。それに比べれば去年の「政権交代」などは何ほどのものではない。
《菅・小沢対決とは何であったか》
それならば菅対小沢対決は何であったのか。
メディアは政治手法の対立として捉えている。朝日新聞の編集委員星浩は「古い小沢政治」対「強い菅政治」へという対立軸で論じている(10年9月16日)。「カネと数の原理が色濃い古い政治」と言って小沢を批判した菅を、「古い政治」を乗り越えた勝者と表現している。しかしこういう「手法論」比較ほど曖昧で無内容なものはない。
菅と小沢の対立軸を「図式化」すれば次のことであった。あるいは「次のことであるべきであった」。
①外交の自立か従属か
「日米同盟」の拘束から我々は如何に自立の道を志向するか。
明治維新から80年遅れて独立した中国を、どこぞの従属国とは誰も―嫌中派の右翼ですら―言わぬだろう。比べて、米国の言いなりの日本であることは世界の常識だ。「政権交代」後に、鳩山由紀夫首相の普天間問題への対応でそれは明らかになった。岡田克也外相による日米密約の開示も、日本の自立性の証拠ではなくて従属性の証拠であることを示した。米国に屈服した鳩山に菅は追随した。だが小沢は対米交渉に含みを残した。それは沖縄県党員サポーターの小沢支持につながった。
②新自由主義の継続かそれからの離脱か
80年代から日本経済は「グローバライゼーション」と出会った。その衝撃は大きかった。世界第二の経済大国は「日本的経営」の衣装を脱ぎ捨て、裸の経済戦争を余儀なくされた。「日本的経営」を信じて働いた人々は、なお成功経験から完全に覚醒せず、しかも「グローバライゼーション」の暴力の前になすすべがないほどの敗北感のなかにある。この敗北から日本経済をどう立て直すのか。市場原理主義を進めるのか。ケインズ主義的な福祉政策へ転換するのか。これが対立軸である。
《既得権・規制緩和・市場原理》
③真の民主主義の構築への道
既得権政治の廃止、規制緩和の徹底、市場原理の修正、という。菅も小沢も表現の差はあれこういった。これらの要素は蜘蛛の巣のように絡み合っている。
私が信託銀行員であった頃、「大蔵省」の行政指導は、宣伝用カレンダーを一枚物に制限した。過当競争無用というのである。規制がどう変化したかは知らないが銀行のカレンダーは今も一枚物が多いようである。こんな規制は実に下らない。だからと言って規制は何でもやめればよいわけではない。
規制緩和・市場経済万歳という人は軍備や消防も市場に任せればよいと考えているのか。マイケル・ムーアの映画『シッコ』に出てくるような、保険がなければ路傍に放置される医療システムでよいと考えているのか。彼らも「セーフティー・ネット」は必要だという。しかし「市場原理」と「セーフテイー・ネット」の思想には原理的な矛盾があるのである。それを克服してきたのが人間の歴史の英知なのである。
私のいうことは青臭い論かも知れない。しかし知人・友人とこの問題で議論して説得力のある反論に接したことは殆どない。
《不鮮明な対立軸と刃向かわないメディア》
厄介なことは菅・小沢対決がこういう対立をストレートに反映していないことである。
両者の言うことの中に、上記の対立軸の両方が混在しているのである。小沢が「カネと数の原理が色濃い古い政治」手法の保持者だとすれば、沖縄県の投票結果をどのように説明するのか。沖縄の民主党支持者は、自民党政治に失望し、鳩山と菅の対米屈服に失望し、小沢一郎に最後の希望を託したのである。その小沢を「古い」政治家だということができるだろうか。この文脈において小沢は画期的な対米外交論者であるかもしれないのだ。
「二大保守党の誕生」というのが私の日本政治認識である。
そのなかで、国民にとっての真の対立軸は隠蔽され、普天間問題の扱いのように欺瞞的な対立軸が設定されている。それがメディアによる設定だという論に私は反対ではない。一体、マスメディアが権力に刃向かう存在だったことはあるのか。私の記憶によれば、50年代には対日講和条約論争において「現実的な単独講和」の支持によって、60年代には安保闘争を終息させた共同社説によって、70年代には日米密約のスクープを「情を通じて」論に屈したことによって、メディアは読者を裏切ったのであった。メディアは経年変化で劣化したのではない。
「リベラル21」には、尊敬するジャーナリストが多い。だからこんな言い方はしたくない。しかし小沢の出馬をあげつらって「開いた口がふさがらない」と書いた社説が罷り通るのを許せないから書くのである。
《蟷螂の斧に徹すること》
問題は結局自分の地平に戻ってくる。今の日本政治は真の民主主義からはほど遠い。人々の利益は不当に損なわれている。私はそう思っている。
バブル崩壊後の20年は、大企業が焼太り、人々が底辺に落ちこぼれる社会が成立した20年であった。そういう社会は望ましい社会ではない。
しかし当座は菅と小沢しかいないのである。間接的だが、我々は菅を選んだことになるのだ。そうであれば、不満がある限り「異議申立」を言い続けていくしかない。
3年前の9月6日に私は、初めて、「リベラル21」に書く機会を得た。その最後に次のように書いている。
▼金融マンの経験や生活者の実感を大事にしながら経済、金融、それを巡るメディアに関して考えるところを書いていきたい。蟷螂の斧に終わるのは覚悟の上で、一、二の問題提起でも書ければうれしいと思っている。
3年後の今日も「蟷螂の斧は承知の上である」と書いて4年目への出発とする。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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