「震災忌」という季語を使うこと
- 2013年 3月 13日
- 評論・紹介・意見
- 「震災忌」俳句季語木村洋平
3月11日の朝、ある俳人の方が、「東日本大震災の震災忌」というものが遠からず、季語になるだろう、と書いていた。阪神淡路大震災や新潟の大地震もあるから、どの「震災忌」なのか、書き分けるのは難しいが、なんらかの形で、日本の伝統である「季語」というもののうちに、東日本大震災は含まれるにちがいない、と。
俳句に馴染みのないひとは、「震災も季語になるの?」と意外に思うかもしれない。季語と言うと、「春雨」とか「蝉の声」を思い浮かべるだろうか。
もともと、「~忌」は、俳人として名のある故人を偲んで作られた季語で、たとえば、「芭蕉忌」「糸瓜忌」などがある。芭蕉は、旧暦の十月に亡くなったから、「芭蕉忌」は冬の季語。「糸瓜(へちま)忌」は、「誰だろう?」と思われるかもしれないが、正岡子規だ。「子規忌」「獺祭(だっさい)忌」とも言う。たしか、庭に植わった糸瓜を愛していたのが由来と思う。
そして、近代になって「原爆忌」という季語もできた。「広島忌」「長崎忌」も使う。人物から出来事へ、「~忌」の意味が広がったのである。こうした背景のある俳句だから、「震災忌」ができてもおかしくない、むしろ、できるのが必然、という流れがあるのは、僕にも理解できる。
けれども、「震災忌」(あるいは、「福島忌」などもありそうだ。)という季語をいま作ることは、ほんとうにふさわしいのだろうか。遡れば、そもそも故人を偲ぶ思いから来ている「~忌」は、それが、歴史的な出来事へ広げられたとしても、いずれにせよ、「終わってしまったこと」に対して、思いを馳せる意味ではないだろうか。
しかし、震災はまったく終わっていない。原発事故は言うに及ばずだ。いまも、避難が続き、仮設住宅に余儀なく住まうひとがあり、東北の仕事は製造業関連がとくに数多く失われた。哀悼が続くなかで、「震災関連死」が起こり、行方不明者もいる。これらは、けっして「震災の爪痕」ではなく、現在進行形のことがらだ。
もし、ここで、「~忌」と括ってしまったら、それは出来事が終結したかのような、過去を振り返るような、意味合いを孕んでしまわないだろうか。そして、これが季語として定着するならば、それは、俳句という文芸のうえで、終わってもいない震災を「過去」に属するものにしてしまわないだろうか。(すでに亡くなった方々に対して、哀悼の意を示す意味はもちうるけれども。それについては、また後半で述べよう。)
そういう理由で、僕は、「震災忌」といった新しい季語を使った句は、これまでも詠まなかった。だが、震災について、俳句が無言であるべき、とは思っていない。自分でも、こんな句は詠んだ。
ぎしぎしのどこにでもある平和さえ
「ぎしぎし」は雑草で、「羊蹄」とも表記する、春の季語。「ぎしぎしはどこにでもある、そのどこにでもあった平和さえ、いまでは。」の句意。
また、
二月尽始まるものもないままに
自らの有り様を顧みたが、三月の震災に重なる。
俳句は、他人事では詠めない。3月11日ですから、震災を詠みましょう、というような安直な態度では、詠んでも仕方がない。俳論に踏み込む気はないが、自分と、その外側にある自然(ないし行事や出来事)と、相照らす距離感の妙がなければ、句の良さは損なわれてしまう。
それでは、結局、「震災忌」という「季語」は使わない方がよいと言うのか。少なくとも、俳句の世界で、きちんとした仕事をするひとほど、慎重になるべきだ、と思う。歳時記に載るようなことになれば、俳句界に大きな変化を加えることになる。それは、俳句という文芸が、震災に対してとる態度を明示することになるだろう。これについては、拙速であってほしくない、と感じている。
他方で、気楽に俳句を詠むひと、ただ、五七五のリズムが好きで、季語の勉強に熱心なわけでもないが、ひとと共有して俳句を楽しんでいるひとたちは、使うのもよいと思う。(たとえば、新聞の俳壇。読者の投稿で作る。名の知れた俳人である必要はない。)そこでは、たくさんの人々が、たくさんの故人ひとりひとりに対して、哀悼の意を示すこともできるだろう。
こうした「俳壇の中心」から少し離れたところでは、事情が異なると思う。もともと、俳句は、日本の伝統的な文芸である、という古典的な側面ばかりでなく、昔から庶民に開かれた文化であり、「川柳」のようにも楽しめる、言葉遊びの側面をもっている。たとえば、お茶のメーカーである「伊藤園」は、季語のない五七五で、小学生からご高齢の方まで、素人の俳句大賞を作って、商品に掲載している。これらの「俳句」を、「プロの俳人」の方々がどう思っているかはわからないが、僕は、けっこう好きで、こういう楽しみ方ができるのも、俳句の良さだな、と思っている。そういうわけで、それほどむつかしい理屈や伝統技法には頼らずに、ただ、ひとの心をつなげる、コミュニケーションのツール(ずいぶん、凡庸な物言いで恐縮だが。)としての俳句も、大切なものだと思う。
その点、俳句の約束事や伝統などを、とりたてて気に留めない「素人」の方々こそ、些事にとらわれることなく、「震災忌」も含め、新しい季語を詠んでいったらいいのではないかな、と思う。そこには、自らの思いと、心の外にある現実への直面とから、生み出されてゆく言葉を綴る意味が、たしかにあると思う。
初出:ブログ【珈琲ブレイク】http://idea-writer.blogspot.jp/2013/03/blog-post_12.html より許可を得て転載。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion1198:130313〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。