池内紀先生のフクロウ
- 2013年 3月 20日
- 評論・紹介・意見
- 木村洋平池内紀
ある日、一枚の絵はがきが舞い込んだ。手書きのかわいいイラストが添えられている。フクロウだったように記憶しているが、さっさっとした流麗な線ではなく、ふにゃふにゃとした輪郭で描いてあったから、なんの動物だか、一見、わからなかった。ともあれ、その線には、それを引いた手の動きが、じかに伝わってくるような味わいがあった。
その絵葉書をくださったのは、池内紀さん。ドイツ文学者でエッセイスト、とよく紹介されるが、「山登りすと」でもある。白水社から『カフカ小説全集』を個人訳で刊行されているかと思うと、岩波新書に『森の紳士録』というかわいい小品があって、あちこちの山や沢で出会った動物たちのことが語られている。戦後のドイツ文学者でも、一風、変わった方であると思う。
作品のタイトルも面白い。『ゲーテさんこんばんは。』(集英社)『自由人は楽しい』(NHK出版)『リヒテンベルク先生の控え帖』(平凡社)『となりのカフカ』(光文社)etc…
『モーツァルト考』は、オーストリアを旅する池内紀さんが、自筆譜を眺めたり、オペラを観たりしながら、考えたこと、調べたことを綴ったもの。この本は、マンガ『のだめカンタービレ』でも引用されていて、「モーツァルトが、35年余りの人生のうちで、どれだけの日数を旅に費やしたか。」についての言及がある。たしか、10年余りだったが、細かい数字を覚えていない。ごめんなさい。
かと思えば、こんな難しそうな本もある。『ことばの哲学 関口存男のこと』。関口存男とは、名前からちょっと難しそうだが、考えたことも難しかったらしく、ドイツ語の定冠詞について、熱心に研究して浩瀚な書物を未刊のまま、亡くなった方らしい。関口氏本人は、言及していないようだが、池内紀さんは、哲学者のヴィトゲンシュタインをしきりに引用しながら、ふたりに通底するものを探っておられる。あるいは、連想して楽しんでおられる。
本の感想を書き出せば、きりがないが、池内紀さんはすごいなあ、とじわじわ感じた出来事について、少し。僕自身が、『珈琲と吟遊詩人 不思議な楽器リュートを奏でる』という本を出したとき、いろんな批判をいただいた。リュート(古いヨーロッパの楽器である。)の愛好家や専門家からの風当たりが強かった。他方で、エッセイ風の自由な書きぶりについても、好みが分かれた。「学術を織り交ぜた自由な一般書」を書いてみて、初めて「本を出せば、厳しい批判を受けるものだ。」と肌身に染みた。
そのとき、池内紀先生のことを思い浮かべた。先生は、多作で、その文章は自在である。ドイツ語圏の文学・歴史・文化を筆頭に、ジャンルを越境して、ペンの赴くままに書いていらっしゃるように見える。『モーツァルト考』のおわりの方で、「参考文献を一冊も参照せずに、ここまで書いた。」というようなくだりがあって、驚かされた。ペンにまかせて、書く。ときには、ふにゃふにゃとなりながら、書く。(あのフクロウのように。)
そのため、学術的な緻密さ、という点では、また、知識や考察の詰め込み方においては、ゆるい部分がある。どの本も、参考書のようではない。たとえば、丘沢静也さんというドイツ文学者は、カフカの翻訳をしながら、先達の池内先生の業績に触れて、「よく読むと、原文の一部が抜け落ちていたり、けっこうな意訳をされている箇所がある。」といった指摘をなさっていた。
そういう池内紀先生であるから、目に見えないところで、数知れない批判の矢が飛んできているにちがいない。とくにアカデミズム方面からは、厳しいだろう。池内先生の経歴をみると、東京大学の文学部教授を10年以上務めて、定年前に辞めている。東京大学は、アカデミズムの牙城であるとともに、権威主義の巣窟みたいなところのようである。「学術を織り交ぜた自由なエッセイ」という池内先生のスタイルとは、なかなか相容れなかったのではないか、と思う。
そのことに思い至ってから、なにげなく、気ままに書かれたような文体の凄さがわかった。ご本人の書いたものは、いつも平和で、おおらかな雰囲気に包まれている。「前著で、これこれのご批判をいただいたが、当方はこう反論したい。」というような論戦の気構えも見受けたことがない。いつも肩の力が抜けている。だから、指先から紡がれる文章もやわらかい。
池内紀さんの文章には、書きながら「ふふふ」と笑っているような、余計な力の入らないユーモラスな気配が漂っている。読む方も、肩肘張らずに、文章家の自在な筆先をゆったり目で追って楽しみたい。もう少し、本の紹介をすればよかったのかもしれないけれど、こんな結びになった。僕にはどうも、先生が、書斎のような仕事場で、矢や槍の降り注ぐ外の世界と窓ガラス一枚隔てて、鷹揚に笑いながらペンを運んでいる姿が、目に浮かぶ。
初出:ブログ【珈琲ブレイク】http://idea-writer.blogspot.jp/2013/03/blog-post_19.html より許可を得て転載。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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