職場の民主主義
- 2013年 4月 11日
- 評論・紹介・意見
- 企業民主主義社会藤澤 豊
しばし社会貢献を謳ってはいるが本質的に己の経済的利益を求めることを目的として設立、運営される企業組織と、そこに生まれ居住する人々によって構成される一般社会組織とはその目的も存在理由も異なるし、望ましい組織形態も運営方法も異なる。
目的が違うので異なって当然なのだが、全てが相容れないほど違うはずもないし、社会を構成する基本的な構成要素が、それほど違ってはいけないのではないかと考えてきた。随分前から企業の営利活動が国境を超えて、いくつもの国に組織や権利を持つようになり、従来からの国家や国境の枠では収まりきらなくなっている。しかも、なかにはその経済活動が世界の多くの国々の国家としての経済規模すら上回るようになったものまである。しかし、規模やその経済的影響がいかに大きくなろうとも、企業は広い意味での(一般)社会の一構成員としての組織でしかあり得ないし、あってはいけない。
企業だけでなく全ての団体にも組織にも個人にも言えることだが、ひとつには国のレベルの法体系に準拠しなければならない強制がある。次に、法律による規制よりこちらの方が重いのだが、たとえ法体系に抜け道があったとしても、その国、あるいは地方の場合もあるだろうが、誰も、その“地”の文化、社会通念や理念、社会常識から自由ではありえない。法体系は利権がらみの圧力やなにかで、比較的容易に恣意的に、たいして時間をかけることなく変更できるかもしれないが、長い歴史によって形成された一般社会常識は、社会環境に応じて常に変化し続けてはいるものの、短時間の急激な変化は革命のようなことでもない限り起こらない。
ましてや一企業や一業界団体の都合のよいように変えるのは不可能ではないだろうが、営利企業の判断基準からすれば、苦労の割りに成果が期待できない、試みない方が無難な範疇になる。そこで普通、その不可能に近いことを試みるのではなく、社会常識の変化に沿って経営理念やら規範からはじまって日常の経済活動の諸規定まで-しばしば利益追求という本来の命題からみれば瑣末なことから、なかには利害が交錯しかねないことまで-変更してゆくことになる。ときには社会から法制化による規制というかたちで変更を、利益追求とは相反する行動を余儀なくされることすらある。
戦前の日本社会と戦後の日本社会の一般社会常識の根幹の部分での違いはいくつもあるだろうが、最も大きな違いは「民主主義」の絶対肯定にある。民主主義は最終形態を示し得ないうえ、社会の変化とともに常に変わってゆくものなので、ある一時点でみても曖昧さがつきまとう。人それぞれの常識があるように人それぞれの民主主義も違う。ただ、たとえ、ぼんやりとしていても戦後社会には否定し得ない民主主義がある。さらに、その民主主義に基づいて再編された社会常識がある。
今の日本でそのぼんやりとしてはいるがしっかり根付いた民主主義を大上段に正面切って否定する、あるいは民主主義とは相容れない社会体制を主張する人も希だろうし、その主張に賛同する人も希だろう。 (もっともなかには故意にロジックをすり替え、己が利益を目的として、およそ民主主義とは相容れない社会体制を民主主義だと主張する歴史上の恥さらしもいるが。) そのぼんやりとした民主主義を十年単位のスパンで見てみると、かつてのように派手なデモなどは見なくなったが、その分、足が地についた大人の漸進的な民主主義がほとんどあらゆる面で着実に進んできたように見える。
問題の渦中にいる人達やせっかちな人達は遅々たる進化に歯がゆい思いもあるだろう。それでも、たとえば、民主主義の根幹に関わる情報公開ひとつをとっても、高度成長期の七十年代に誰がここまで進むと想像できたかを思えば着実な前進があることに同意されるはずだ。一部の社会層が一般大衆の目にも、意思や希望にも一瞥もくれずに社会全体に影響を及ぼすことを決定できる機会が減り続けている。その社会の変化に引きずられるかのように、あるいはときの社会の常識というあたかも絶対権力のようなもので強制されたかのようにとでも言った方が適切かと思うが、多くの場合、消極的にではあっても企業内の組織やその組織内での人と人の関わりのようなものが民主的になってきた。経営陣がビジネス上では忌み嫌う「受身の態度」、「消極的」、「当事者意識の欠如」、「責任回避」など企業側の受け身の姿勢から企業内の民主化が進められてきた。
話しを分かりやすくするために、非常に粗雑であることを承知で、人間の社会生活を生産活動と消費活動の二つに分けて考えさせて頂く。全ての人も組織も何らかかたちで社会の冨=消費されるものを生産する生産活動と、生産された冨を消費する消費活動の両方の顔、立場を持っている。
企業は両者のうち前者=生産活動を主体とした社会活動からなりたっている。一方、一般社会は両者のうち後者、すなわち消費活動が主体の社会活動から成り立っている。全ての人は勤労者としては生産活動の主体をなし、市井の住民としては消費活動の主体をなしている。一般社会は消費を主体としているので、消費活動が盛んな社会が豊な社会だと考えられ、そちらに社会の関心の多くが注がれることになる。とろこが、当たり前の話しになるが、生産なくして消費はありえないし、消費するためには絶対に生産が必要であることを考えると-ここで両者のどちらが上か下かという話をする気はないし、異論もあることを承知で-社会で最も重要な骨格を形成しているのは両者のうちで生産活動と言わざるを得ない。
消費活動を主体とした一般社会の民主化が先に進み、その進化が圧力となって生産活動の担い手である企業のあり方の民主化が進められてきた。人間の社会生活の根幹をなす生産活動の場である企業内の民主化は、生産活動によってはじめて成り立ちうる従の立場にある消費生活の場である一般社会の民主化より遅れている。
その社会の根幹を形成する生産活動の場の民主化が進まなければ、多くの人が信じている社会の民主化も民主主義もまだまだ上っ面の、ここまでなら譲歩して授けてもいいよと誰かが言っていそうな、誰かが扱いやすく飼いならした民主主義に思えてならない。
社会生活の最も重要な根幹を成す生産活動の場=職場の民主化を進めることなく社会全体の民主化、より民主的な社会は構築し得ない。にもかかわらずこの民主化を真正面から議論されるのを見たことも聞いたこともない。恐ろしいことなのだが、おそらく多くの人達が既に十分に民主的な社会にいるとあいまにも思っているのか、信じ込まされているのかどっちだろうと想像している。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion1240:130411〕
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