評論 プロレタリアートとマルチチュード
- 2013年 4月 20日
- 評論・紹介・意見
- アントニオ・ネグリドゥルーズマルクスマルチチュード宮内広利
ドゥルーズは、国家の起源をマルクス同様、「アジア的専制国家」と認めているが、その「原国家」について次のように述べている。
≪国家はすでに出現する前から、これらの原始人社会がその社会の存続のために祓いのける現勢的な極限として、もしくはこれらの社会が収斂していく点、みずから滅びることなくしては到達できない点として作用している。これらの社会の中には、国家の方に向かうベクトルと、国家を祓いのけるメカニズムが同時に存在し、接近するにしたがってより遠くへと押しやられる収束点が存在する。祓いのけることは、同時に先取りすることでもある。≫『千のプラトー』ドゥルーズ、ガタリ著 宇野邦一他訳
これはとてもおもわせぶりな言い廻しで、原始共同体の予定調和など歴史上存在したためしはなく、国家と区別されるべき社会の均衡点などもともと存在しなかったと言っていることになる。なぜなら、すでに国家は社会の中に「予感」として先取りされており、それは社会と厳密に区別されるべきでないとするからだ。民俗学者は社会から国家への道筋を描くのだが、それ以前に「いつでもいたる所に国家は存在」した。歴史は根があり幹があり枝葉があるかのように樹木状に系列化されるべきではなく、多様体=リゾームとして中心化と非中心化の網目を張りめぐらしている。そこで、もし、国家を産みだす「生産」と国家を拡散させる「消費」というものを想定するとすれば、国家の求心点と拡散点の二つの定点は同時にあらわれなければならないのである。
だが、わたしたちからみると、このような考え方は折衷的であるか、もしくはブラグマチックな見方にすぎないとおもえる。なぜなら、彼は国家の「生産」と「消費」をつなぐために、ネグリの「帝国」と「マルチチュード」の概念あいだに介在したと同様な「両義性」という概念を中心化しているからだ。すなわち、国家は生産としての国家である前に、すでに消費の対象にされ中性化されてしまっているのである。いわば、国家は移動すること自体が合目的化されており、国家とは同時に反国家であり、また、非国家であり、半国家にもなりうる上、また、逆の移行にもなりうる。こういう堂々めぐりの論法がいやおうなく歴史の跨ぎを意味することをより鮮明にするために、わたしたちはネグリの「マルチチュード」の時間と身体に関する提言を仔細にみていかなければならないとおもう。
≪生政治的な生産の新しい諸時間性は、伝統的な時間の概念構成の枠内では理解できない。…中略…アリストテレスの尺度の伝統が瓦解する場所はここだ。じつのところ私たちの視点からすれば、時間性についての超越論的思考が決定的に破壊されるのは、いまや労働は協定によっても計算によっても、計測することが不可能になったという事実によってである。時間は完全に集合的存在のもとに帰ってきたのであり、それゆえマルチチュードの協働のなかに宿るのである。…中略…ここに現われるのは、新しいプロレタリアートであって、新しい産業労働者階級なのではない。この区別は根本的なものだ。先に説明したように、「プロレタリアート」は資本によってみずからの労働を搾取されるあらゆる人びとと、つまり協働するマルチチュード全体を指示する一般概念である。≫『<帝国>』アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート著 水嶋一憲ほか訳
彼はここでプロレタリアートの概念の中に、近代のプロレタリアートの時間から再生産的労働、不生産的性格を帯びたさまざまな労働まで含め、広汎な生政治的風景を取り込もうとしているかにみえる。サービス産業の経済活動の全面化によって労働の性格が決定的に変わってしまった現代においては、時間と価値の計測不可能性を際立たせており、これにともなって労働日という尺度は崩れ、必要労働時間と剰余労働時間の区別はなくなっている。その意味においてプロレタリアートは、あらゆる場所であらゆる時間に生産をおこなっていると考えてもおかしくない。こういう定義をふまえると、彼が「万人に対する社会的賃金と保証賃金の要求」をするのは至極もっともなことであるようにみえる。だが、彼の「マルチチュード」に内包された時間というのは「内在的時間」を示しているが、はたして、その時間はどこから発生し、どのように推移していくのであろうか。
マルクスは人間と自然との間に交わされる物質代謝としての労働を人間概念の基層においた。人間は自然素材に対して彼自身がひとつの自然として相対する。それだけではなく、彼は自然素材から彼自身が生活する上で必要な物資を産みだすために、彼の肉体にそなわっている腕や脚、頭脳や手を動かす。人間はこの運動、労働によって自分の外の自然に働きかけ自然を変化させるのである。そうすることで同時に、自分自身の中の自然をも変化させるのである。このような人間と自然の相互対象化がマルクスの自然哲学の骨子だったが、ここでは自然への働きかけが「生産」であり、自分の生活の資を肉体に取り込み自分を変化させることをさして「消費」とよぶ根拠があきらかにされている。つまり、マルクスが言っているのは、人間と自然は相互作用によって自然は人間の鏡となり、人間は自然を映す鏡になるということである。これは自然の二重化および人間の二重化をあらわしており、その過程において生産がなければ消費はなく、消費がなければ生産がない意味で、生産と消費はそれぞれ二重化する。生産は直接、間接的に消費を含み、純粋な生産と消費的生産に分岐し、消費も純粋消費と生産的消費に分かれる。
マルクスにとってこの生産と消費の二重化は、資本主義のメカニズムはあらわにする上で重要な意味をもっていた。その場合、『資本論』において象徴的なのは、貨幣が資本へ転化する場面である。単純な流通過程から生じたW-G-Wが価値増殖をしないのにひきかえ、G-W-Gの流通過程は資本の成立条件である。ただし、単なる貨幣の形態変化では資本への転化はおこりえない。その価値変化は、ある特定の商品の使用価値からその生産が生じることにポイントがあった。その場合、消費がそのまま生産としての価値増殖であるような特別の商品こそ労働力商品である。この労働力商品の価値は通常の商品と同様、それを生産するために対象化されている労働時間によって測られる。個人が労働力を生産、あるいは再生産する時間量=価値に還元される。しかし、剰余価値が産みだされる秘密は、労働力の買い手と売り手とが売買契約を結んでも、この商品の使用価値はまだ現実に買い手の手元に移っていない点にある。つまり、労働力という価値は、他の商品の価値と同じく労働力の生産のために要する一定量の社会的労働の支出により決定されるが、その労働力という使用価値は流通過程の外にだされ消費されることにおいて実現するのである。したがって、労働力商品の売買とその消費は時間的に離れているといえる。
マルクスは、このことを労働過程が労働力という商品の消費の予定と実現の過程であると述べている。そこに時間的な齟齬が介在しており、それを理由にしてのみ資本家は自分が消費した価値よりも多くの価値を取得できる。資本の運動の前提になる原料、生産手段、労働力の価値はすべて過去の労働によってつくられたものだが、そのうち使用価値としての労働力商品の消費だけは現在に属している。マルクスにとって労働力の生産という行為は、一方で現在の消費であり、その生産の中には彼自身の個人的消費と労働力の再生産を含まなければならないものであった。
≪労働はその素材的諸要素を、その対象と手段とを消費し、それらを食い尽くすのであり、したがって、それは消費過程である。この生産的消費が個人的消費から区別されるのは、後者は生産物を生きている個人の生活手段として消費し、前者はそれを労働の、すなわち個人の働きつつある労働力の生活手段として消費するということによってである。それゆえ、個人的消費の生産物は消費者自身であるが、生産的消費の結果は消費者とは別な生産物である。≫『資本論』マルクス著 岡崎次郎訳
生産的消費と個人的消費を区別するこういうマルクスの定式がなりたつためには、ひとつは、社会的労働時間が平準化されていなければならないことが前提になっている。過去において対象化された労働が、それに見合う価値をもたなくてはならないのだ。さらに、何よりも、過去に対象化された価値がすぐに消費されない場合が生じたらどうなるだろうか。ポスト近代に接近するネグリの試みはこの点を突いて、マルクスの時代とはちがって労働の質が平準化できないほど起伏に富んできたこと、そして、生産から消費までの時間が変化したことの2点をふまえて、生産的消費そのものの概念性を全く不毛なものとみなしたのである。要するに、生産的消費に要する時間をできるだけ短くするか、個人的消費の時間を相対的時間に増やすことに腐心したマルクスの時代とちがって、労働時間が計測不可能になった分、消費の時間そのものの起点と終点が不分明になり、さらに消費的生産に関する時計盤そのものも狂ってしまったとみなすのである。その間隙をぬってドゥルーズの「欲望的生産」にならい、「マルチチュード」の「内なる時間」が登場する。彼らにとって時間の不分明さこそプラスの価値になりうる「欲望的生産」というわけである。
想像するに、ネグリが「生産力」の増大というとき、生産力の増大にみあって消費の極小化を前提においたか、もしくは無意識に消費の差異化を無視したとおもえる。それは歴史認識の根底のどの場所でおきた出来事なのか不明だが、ドゥルーズは、たえず生産の働きをより高速化して、これを生産物に接木してゆくという規則こそが、欲望機械、あるいは根源的な生産の特性であると述べている。もし、わたしの考えているとおり、生産とはなにより意識の労働であり、消費とは意識の受容だとすれば、彼らにとって、「欲望的生産」とは制度としての社会的生産とは異なり、あたかも生産そのものが欲望であるかのように、生産自身を生産する純粋生産の繰り返しとみなしていることだ。
だが、彼らがマルクスの思想に影響されているとすれば、本来、「欲望」とは消費を意味するはずだった。にもかかわらず、彼らに現実的な消費行動が見込まれていないのは、生産に対応する消費がなんらかの異変を受けているからである。つまり、ここには純粋生産と消費的生産の区別がないため、同様に、生産的消費と純粋消費の区別も関連もなくなっていることになる。ちょうど、ボードリヤールが消費のための消費に片寄ったとはまったく正反対に、彼らは生産のための純粋生産のみに生産の意味を収れんさせた。そして、消費というものが想定されるときは、純粋消費(個人的消費)のみが取り上げられるのである。その意味で彼らとボードリヤールは裏返しの相似形におもえる。このような消費をもたらす生産は、わたしたちからみれば、平日が休日と変わらない意味で「休日労働」のイメージにあたうかぎり近づく。
わたしたちの社会はある時点で、「食うために働く」という観念を剥離させたのかもしれない。再生産のための労働、つまり、資本によって収奪されるのが決まっている労働だけで生産行為を考えることができなくなったのである。しかし、だからといって現実的に貧困や差別がなくなったわけではない。また、それらの労働条件が不可避にうみだす「自己意識」は、ある場合、平日労働の不自由さ、欠如や不公平感、人間関係の息苦しさとしてあらわれ、あるいは生存競争や「労働神話」として現前する。そういう意識はわたしたちを、ネグリやボードリヤールとは反対に、あくせく働くよりもできるだけ安穏と暮らしていきたいという人間の原点にたち戻らせることになる。これはあらゆる思想のいきつくおおもとの理念でなければならないはずなのだ。そのようなユートピア願望に抵触するのは資本主義だけではなく、社会主義や専制国家や原始共産社会もこれをまぬがれるものでもない。こういう理念への途上においては自然史としての「時間」の蓄積が関与するから、当然、「歴史」的段階に応じて生産と消費の組み合わせの態様が変わることが予測されなくてはならないのである。
ネグリは、マルクス主義の弁証法的な歴史観としての生産力と生産関係の二分法を解体した。生産力とは道具のことであり、その延長に人間的な生産力があり、その外部の生産関係、社会関係を規定するというありきたりの図式を破り、コンピュータとネットワークをつなぐ機械は道具ではなく、それ自体の中に人間と道具を含むものであり、それを社会的協働関係そのものとみなして、生産関係を欲望機械の内部にとりこんだ。その際、彼にとって「支配」とはなによりも「自己意識」におけるルサンチマンという時間の差異であり、とりわけ、その「蓄積」こそ打ち砕かねばならない当体だった。
一方のドゥルーズは、資本主義を追い越すため、人間的な喜怒哀楽の外貌を消さなければならないとして、人間の代謝作用に媒介されない直接性、つまり「機械」そのものを人間認識の中心に呼びこんだ。だが、もともと、生産には「時間」が伴うものであり、その上、生産が再生産をもたらすまでに「時間」を要することは疑えない。にもかかわらず、オイデップスの蓄積された時間を追放するためには、「自己意識」とともに「時間」を棚上げしてしまったのである。同じように、ネグリにとっても「マルチチュード」は人間の集合体であるかぎり、当然、生産としての時間と消費としての時間を交叉させ「時間」の発生をその中に組みこまなければならないはずなのである。マルクスは、生産と消費は、直接的には同一性であるが、それが交換され貨幣となり資本となるプロセスにおいて「時間」の区別をつけ、その価値法則の均衡をもたらそうとした。彼の価値論には時間と空間の網の目が縦横に交換されていたが、マルクスが否定したのは、過去の時間の「蓄積」が現在を呪縛することだった。それに対してネグリは生産的消費を認めないから、自己時間の異和にほかならない「時間」を認めることができない。彼は価値法則がすでに過去のものになったことを大声で叫んでいるが、それにはその価値法則に「時間」の観念を媒介して、生産の時間と消費の時間をつなぐ現在的な意味で、「時間」の不均衡な足場への本質的な考察が不可避におもわれる。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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