ゼロトレランス ― 安倍政権の危うい教育論
- 2013年 4月 29日
- 評論・紹介・意見
- 八木秀次安倍政権小川 洋教育
安倍政権の重視する政策課題は、当面は経済と教育だという。政権の周りには学者や評論家が集まり政策を支える議論を提供しているが、教育論議に奇妙な人物が紛れ込んでいることを指摘しておきたい。教育再生実行委員会に「有識者」として八木秀次という人物が加わっている。聞き覚えのある人も多いだろう。「新しい歴史教科書をつくる会」に関わり、一時は会長におさまったこともある。専門は憲法学であるが、大学のHPに掲載されている研究業績には『反「人権」宣言』や『本当に女帝を認めてもいいのか』など、学術性の乏しい政治臭の際立つものばかりである。
この人物には個人的な経験がある。2005年、やはり「つくる会」のメンバーだった高橋史朗が埼玉県教育委員に選任された直後、同県の高校生徒指導主任たちの研修会に八木が講演に招かれた。講演者の選定に批判的な参加者がいたようで、当日の講演を録音して文字起こし作業をした人がいた。筆者はこの記録を知り合いの教員から入手したのだ。
構成も内容も単純で粗雑なものだった。アメリカでは児童中心主義教育が行われてきたため学校の規律がすっかり緩み、アメリカ社会が低迷する原因となった。そのアメリカが復活した。学校にゼロトレランス(非寛容)の指導が導入され、教室に規律を取り戻したからだというのである。さらに、児童権利条約を承認して子どもの権利尊重を唱えている日本はアメリカの轍を踏むと主張し、規律を徹底する生徒指導が肝要だという結論であった。
「アメリカの復活」が何を意味するのか分からないが、アメリカの学校教育の立直しが進んで生徒の学力が向上したというデータもなく、2000年から行われているOECDの学力調査(PISA)でもアメリカは常に凡庸な成績を示していることもよく知られている。そもそも連邦政府の教育省に州政府や地方の教育委員会を指揮する権限はないから、特定の生徒指導法が一斉に広がるということもあり得ない。
さてゼロトレランスであるが、もともとは「割れ窓理論」と呼ばれる治安対策の考えからきたものである。街に割れたまま放置された窓が一カ所でもあれば、不心得者が他の窓にも石を投げつけるなどして街が荒廃していく。治安を守るには小さな不法行為も見逃すことなく取締りを徹底する必要がある、とするものである。これを学校に導入すると、詳細な校則を定め、校則に違反した生徒には決められた通りの懲罰を与えて規律を維持するということになる。
カナダのある地域の教育委員会がこれを導入した。ある時、男子の幼児(カナダの幼稚教育は公立小学校で行われる)が、子どもらしい感情から女子幼児の頬にキスをした。これがセクシャルハラスメントと認定され、男児は放校になった。冗談のような本当の話である。教員が教育者としての立場を放棄して警官のような仕事をすれば、このような滑稽な結果も招きかねない愚かしい考えである。
八木はゼロトレランスを、加藤十八の『アメリカの事例から学ぶ学校再生の決め手―ゼロトレランスが学校を建て直した』(学事出版)を参考にしたという。加藤十八は愛知県立高校の校長などを勤め、中京女子大学名誉教授という人物である。学校には規律が最優先という強固な信念をもっているようで、県立高校の管理職としては軍隊式の行事を導入するなど、かつて「東の千葉、西の愛知」といわれた管理主義教育の中心人物の一人だった。
数冊の著作があるが、自分の描きたい絵にあった適当な事例を都合よく並べ、自分の主張の正しさを論ずるという乱暴なものである。例えば、全米的に結婚までは純潔を守るという運動が広がり、政府も予算を付けていると主張する。しかし、この運動は南部の一部の偏狭な福音派教会を中心としたものであり、ロビー活動を受けたブッシュ政権が予算を付けたのは事実だが、宗教活動への予算支出は違憲だとして訴訟も起こされている。またアメリカの十代妊娠が減少傾向にあることは事実だが、相変わらず先進国のなかで突出して率は高い。また減少の最大の原因も不況に求められている。男に仕事があれば妊娠した女子生徒は学校をドロップアウトして結婚するが、仕事がないから中絶する。加藤はそのようなことには一切触れない。
また加藤は学校で規律が徹底されている事例として、金属探知機の置かれている学校の入り口前に生徒たちが並んでいる写真を示し、「生徒たちは整然と待っている」というコメントを付けている。一瞬、シニカルな冗談かと思ったが、本心から感心しているようだ。1999年にはコロラド州のコロンバイン・ハイスクールで生徒が銃を乱射する事件が発生し、その後も銃がらみの生徒の犯罪がアメリカの学校を悩ませ続けていることは日本でもよく知られているところだ。
八木が参考にしたという加藤には、教育学の基本的な用語についても間違った理解が散見される。例えば「児童中心主義」は、教育方法についての概念である。対立概念は教師中心主義である。近代の学校では教師が生徒に知識体系を教授し、生徒たちは系統的に知識を吸収する学習が求められてきた。しかし、そのような学習活動は暗記を中心とした無味乾燥な学習に陥りやすい。その反省から生活経験に根差した学習活動を組み立て、生きた知識を育てていく教育が考えられた。20世紀前半にデューイが提唱した経験主義教育にまで溯ることができる。子どもを甘やかす教育のことなどではない。
オルタナティブ教育についても誤解している。加藤は通常の教室ではない部屋で学習している生徒を見て、校則違反をした生徒が懲罰を受けていると理解し(丁寧に顔の分かる写真まで掲載している)、オルタナティブ教育だとしている。しかしオルタナティブ教育とは文字通り代替教育であり、メインストリーム(主流)の教育以外の教育プログラムを指す。飛び級などを含む英才教育も代替教育であり、ドロップアウト予備軍の生徒を学校にとどめるための教育も代替教育である。後者は、学力低位で中退の可能性が高い生徒たちであり、座学が苦手な者も多いから実技授業を増やすなどして卒業まで指導しようとするプログラムだ。加藤が見たのはおそらくこれである。
八木は信頼性の低い文献に頼った講演などを行うべきではなかった。しかし八木には確信犯だった節がある。講演記録の中に彼が児童権利条約の影響を受けているとする東京都のパンフレットを取り上げている箇所がある。八木は「泥だらけになって外から帰ってきた子どもを、母親が家に入る前に手を洗いなさい」というのは子どもの権利を侵害する行為になる、とパンフレットに書かれていると批判する。しかし筆者が都庁の閲覧室で見たパンフレットには、もちろんそのような記述はない。子どもに勉強を強制してばかりいてはいけない、外遊びをする時間を与えることは保護者の義務だ、とするごく真っ当な文章があっただけである。読み間違えなどではなく、話を完全に捏造しているのである。
先進国の国家指導者の多くは、学校教育(学歴)や社会活動あるいは企業経営などのなかで知的優秀さや職務遂行能力の高さを示すことを通じて政治家となり、政治家として指導力を示すことによって国家指導者の地位に上り詰める。しかし安倍首相の場合、小泉純一郎に後継指名されたことと祖父の岸信介を敬愛する本人の自負心以外にはなく、重要な閣僚経験さえもない。
八木の属する委員会には曽野綾子なども加わっている。安倍内閣は好況感演出の経済政策を優先させているようだが、その陰でアメリカの宗教右翼まがいの議論と日本の戦前回帰志向を混ぜ合わせたような奇妙な教育論が行われているはずだ。すでに特別活動である「道徳」を教科化すべし、とする報告が出されている。報告書は曖昧にしているが、教科科目ならば成績評価をすることになり、戦前の「修身」の復活である。修身のような徳目主義教育は、要領のよい子どもを偽善者に仕立て上げるだけである。
凡庸な政治指導者の周りには良識を疑わせる人物が集まってくる。朱に交われば赤くなる、の喩えどおり、安倍政権は今後ますます爪先立ったイデオロギー的姿勢を強めていくだろう。
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