戦後史をめぐる吉田茂外交と昭和天皇
- 2013年 5月 3日
- 時代をみる
- 池田龍夫
「4・28講和式典」に関しては、4月29日付で取り上げたが、東京新聞28日付社説に大胆な問題提起があった。仄聞はしていたが、61年前の「単独講和条約」の裏話を、新聞として明確に示した点に注目した。「吉田茂首相(当時)と昭和天皇の介入に関するる記述である。要点を拾って、同社説の論旨を紹介しておきたい。
「講和条約と同時に発効した日米安保条約によって、西側陣営に立ち、反共の砦の役割を担うことになった日本,戦後社会を牽引したのは吉田首相の軽武装・経済重視の『吉田ドクトリン』路線でしたが、最近の昭和史研究や豊下楢彦・前関西学院大学教授の『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波現代文庫)は、外交防衛、安全保障面で昭和天皇の果たした役割の大きさを明らかにしています。昭和天皇の沖縄メッセージや講和条約交渉への天皇の介入は、沖縄の運命や日本の防衛・安全保障に決定的できだったようにみえます」と、当時の対米交渉の背景を説明している。
同社説はさらに「沖縄メッセージは昭和47年5月、天皇御用掛の寺崎英成がマッカーサー司令部に伝えた極秘メッセージ。天皇が米軍の沖縄占領継続を希望し、占領の長期租借(25年ないし50年、あるいはそれ以上)で――などの内容。79年の文書発掘は沖縄に衝撃を与え、その後、入江侍従長の日記で内容がほぼ事実と確認されたことで、沖縄の人々は大きく傷ついたといわれます」と、付け加えている。
ダレス米国務省顧問(当時)目論見どおり、沖縄は本土から分離され、米軍基地は今なお存続している〝戦後外交〟裏面史にまで踏み込んだ論説に敬服した。
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