小沢一郎政治裁判はまだ現在の政治的事件である(四)
- 2013年 5月 3日
- 評論・紹介・意見
- 三上 治
対話風の議論から 小沢一郎政治裁判と日本の政治権力(1)
A 日本の政治権力(統治権力)は制度《憲法》に基づいて運用されているというのが建前だが、恣意的で絶対的なものとして存在しているところがある。専制というのはそういうことだが、小沢政治裁判はそういうものか。「敵を殺せ」というのが政治の原理だが、権力者のありかたを縛るもの、制限するものが憲法の原理だが、それを建前にして、実際は恣意的に振る舞う。小沢事件でもそれが見えるということか。
三上 検察が国策捜査といわれるものをやりだしてから、こういう振る舞いが目に付くようになったといえる。いつごろということは言えないけど、日本の政治権力における官僚の力の衰退という兆候が見え初めた時期といっていい。それには色々あるだろうが、検察が政治家を見下すようになってきてからだと言える。そうした背景があるが、こうしたことがまかり通るのは政治権力(統治権力)の自己制限的な規範としての法的精神(憲法精神)が肉体化されたものとしては存在してこなかったところにあると思っている。権力者の自己規範という意味でも、国民の思想という意味でも。その意味では憲法も民主主義もまがい物はとしてはともかく、一度も存在なんかしてこなかったと思っている。法(憲法)は政治権力(統治権力)の行使を制限し、その恣意的、絶対的ふるまいを制限するものじゃなくて、政治権力の統治の道具(装置)のように存在してきたと思っている。大日本帝国憲法の統治権の規定や歴史を検討してそういう考えを強く持つようになった。そこには裁判などの僕の体験のあるけどね。政治権力が法(憲法)によって運営されるといっても、権力の担い手や国民がそれをどう考えているかで決定的に違う。権力者や権力行使を制限し、縛るものとそれを理解するか、権力者の道具(装置)として考えるのでは決定的に違うことだからね。国民主権と言う言葉があるけど、その理解をどういう風にしているかということでもいいけど。
A 小沢事件の分析としてそれをやってみてくれないか。
三上 検察が政治資金規正法違反で小沢一郎や周辺を立件しようとする。彼らはこうした表層の論理で持って、政治権力としての意図を貫徹しようとする。これは改めてのべないけどね。そうするとマスメディアは一体となってこれを利権政治批判(政界の浄化)という像に仕立てあげる。マスメディアは強いものの味方であるとは田原総一朗の言葉であるが、政治権力(統治権力)の味方という意味に理解していい。その動きに反応して権力に同調する。政治権力が絶対化するとき、マスメディアはそれに同調し、その意向を拡張、先取りして展開する。マスメディアはそれを疑い論評するというよりはその尖兵になるという傾向が強い。新聞報道などは小沢の起訴は当たり前のようにいう。そんな権限などないのに。(もちろん少数派としてそれに抵抗する部分はいる。そういう抵抗や批判がネットでは強い。これはマスメディアの衰退と関係している)。戦争とマスメディアの関係を考えてもいい。戦争を扇動したメディアのありようは形を変えて続いている。そしてそこで出来上がる像は人々にも浸透する。戦争の場合は聖戦や正義であるが、小沢事件の場合は「きれいな政治」という正義論になる。政治権力とマスメディアと人々の心的動きを構図として描いてみて欲しい。ここでマスメディアは知(知識)という存在に広げていいし、それを象徴させてもいい。統治権力―知(知識)―人々の心的動き(意識)が権力形成としてある様相がここにはみえる。正義という共同観念の生成である。統治権力は法律に違反した行為として立件し、それを通して統治権力を強化し権力の保持や絶対化の志向をするわけだけれど、それにマスメディアという知が加わり、その一体化した動きは人々の正義観(共同意識)の形成に動く。戦争は正義という共同観念の発現であるけど、統治権力の絶対化がこの正義像をとうして同意され承認されていくことでもある。この構図に権力の発現とその様式があるということだ。政治権力の絶対化と超権力化というのは抑圧的で暴力的に現象するようにみえるが、それは一面であり、そのようにはなかなか発現しない。それは政治権力が危機にある時で、本質的には人々の同意を形成というように現象する。それは聖戦や自由のためという正義をかかげてだけでなく、もっと卑小な政治の浄化のようなものをかかげるし、多様な形態をとる。人々を抑圧するというより、同意という形態で人々の意思を参加させることで権力の絶対化は進むとみなければならない。小沢事件での権力の発現をこんな風に理解して欲しいと思う。
A 君の考えはわかる気もする。反権力意識というか権力に批判的な人たちも小沢事件では検察やマスメディアの考えにやすやすと乗せられるように見える。田中角栄事件の時もそうだったけれど。きれいな政治や利権政治家批判は通りやすい言葉だし、乗せられやすい正義だけど、それを見抜くといか、そのことに批判的になるのは難しい。田中角栄事件時に比べれば検察の批判も強くなった。それは良き兆候と言えるのかもしれない。
三上 これは政治権力の本質というか、その構造がよく理解されていないためだと思う。政治権力が僕らの存在と言うか、実存とどう関係し、どんな課題としてあるかが理解されていないためだよ。フーコーは政治権力(統治権力)の絶対化や超権力化を権力の病として批判していた。彼にはファシズムやスターリン主義という時代的な経験があった。彼は政治権力のこの病と言うか動きを暴力や抑圧というところからではなく、同意形成というところから分析していた。僕らには天皇制下の政治権力の絶対化の動きの歴史がある。それを権力の動き、マスメディア(知識)動き、国民の同調という総体的動きの中で析出してきたとはいえない。そのようには天皇制的なものが政治権力(統治権力)の絶対化を進めた構造や過程を対象化しえてはいない。僕はこの歴史と言うか歴史の流れを意識している。制度的にはドイツ型の国家主導の近代化と権力体系ということが問題であるけど、制度的問題以上に政治権力(統治権力)に対する思想ということが重要なのだと思う。それは権力を開いていくという言い方でもいいが、権力の絶対化や超権力化の動きに対して権力を制限し限定づけていくという思想である。フーコーは権力のあるところに抵抗があるというけど、抵抗というのは権力を批判し、それを制限し、開いていく思想的な動きのことだ。政治権力(統治権力)が知(知識)を介在して人々の同意を得て行く、この権力の生成(生成の様式)に対象的になって抵抗を形成していくことだね。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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