偽薬「アベノミックス」に麻痺する批判精神
- 2013年 5月 4日
- 時代をみる
- 天皇制憲法盛田常夫自民党
これが天皇元首化を目指す議員たちの姿なのか。4月28日の「主権回復」を祝う政府式典で、天皇陛下退席の際に、国会議員たちが「天皇万歳」を三唱し、檀上の安部首相や麻生副総理もそれに加わったという。主権在民国家の行事に、いったいこれは何なのだ。
軍事主権をアメリカに掌握されたままの日本が何をもって「主権回復」と考えるのか、この式典はいったい何を祝う行事だったのか。政府与党のたんなる示威行為だったのか。天皇の元首化で天皇制国家に戻ろうという自民党の憲法改定路線の行く末を示しているのだろうか。そうだとすれば、時代錯誤も甚だしいし、そもそも戦後憲法はこのような天皇の政治的利用を許していない。このような時代錯誤の醜態に日本のメディアも国民も反応が鈍い。メディアも国民も「アベノミックス」などという「偽薬」を嗅がされて、批判精神が麻痺しているのではないか。
「靖国集団参拝」は政治運動
ニューヨークタイムズやワシントンポストが懸念を示し、「不必要な民族主義の誇示」と批判された大臣や国会議員の靖国神社参拝は、今に始まったことではない。そもそも政治家が集団で宗教的施設を訪れることが信仰行為であるはずがない。議員の「代理」が参加しているようだが、信仰に「秘書代理」などあろうはずもない。これこそ政治的な示威行動だということを雄弁に物語っている。アメリカのメディアの指摘を待つまでもなく、「靖国参拝運動」は偏狭な民族主義の示威行動である。
今どき集団で政治家が宗教施設や擬似的信仰施設に参拝する光景は、イスラム教が支配する国家か、個人崇拝で支配を図る独裁国家でしかみられないものだ。私的な団体ではなく、政権政党が率先して行う行為ではない。これでは「将軍様」を崇拝する民族を嘲笑する資格などない。同じ穴の狢(むじな)というものだろう。
「横断歩道、みんなで渡れば怖くない」。一人で靖国に行けないから集団で行く。なぜ一人でいけないのか。後ろめたいことがなければ、一人で静かに参拝したらよい。他意があるから、後ろめたいのだろう。はっきり言いたいが、公言できない。「大日本帝国は中国や韓国を侵略したのではない、アジア民族を欧米の支配から解放する聖戦だった。お国のために聖戦で命を失った同胞の御霊を鎮魂することのどこが悪い」、と。戦前の帝国主義的侵略にはすでに歴史の審判が下っている。それに真正面から異を唱えることができない。だから、いじましくも、これ見よがしに、「みんなで靖国に参拝して」、日本の戦争行為が正当性を主張したいのだ。安倍政権の再登場で、天皇制国家への回帰を日本の伝統と考えるアナクロニストが勢いを得ている。
日本の侵略戦争という歴史的事実をどうしても認めたくない安倍首相は、「侵略の定義は学界でも定まっていないし、国によって異なる」と本音を暴露した。この非常識で天皇制国家を復活させようという時代錯誤は、いったいどういう思考構造から生まれているのか。大方、政治家安倍晋三の思考はそれほど複雑なものではなく、「侵略や従軍慰安婦などの負のイメージは、日本民族を末代まで傷つける言いがかりだ」、「日本民族の歴史に泥を塗るような自虐史観からは脱却しなければならない」という程度のものだろう。負の歴史から学ぶことなく、負の歴史を否定することに、「政治家安倍晋三」の真骨頂があると信じ込んでいるようだ。
今の政治状況が危ういのは、このアナクロ主観主義的歴史観を「素晴らしい歴史認識をお持ち」(橋下維新代表)と高く評価し、安倍政権をアシストする「野党」がいることだ。政権与党と一緒に改憲に突っ走る翼賛政治が始まりつつある。
自民党が目指す天皇制国家
自民党の憲法改正草案を読むと、憲法前文の構造に根本的な変更が加えられている。現在の前文は、戦前の天皇主権国家からの決別を明確にするために、なによりもまず主権が国民にあることを謳っている。しかも、主権在民を明確にするために、前文には「天皇」への言及が一切ない。きわめて明瞭な規定だ。
これにたいして、自民党の改正案はまず冒頭の文言で、「日本国は…….天皇を頂く国家であって、国民主権の下……三権分立に基づいて統治される」と規定する。さすがに国民主権に触れざるを得ないが、この文言では「国民主権」は従の位置を占め、「天皇制が日本の伝統的な国家形態である」が主たる規定になっている。しかも、三権の長が一緒になって「天皇陛下万歳」を三唱している姿を見ると、三権分立もまた天皇制に従属するもののようだ。まさに憲法前文の書き換えは、自民党政治家の天皇制への懐古意識を明瞭に表現している。
民族意識の高揚のために。日本に残されている唯一の手段が天皇制である。中国は共産党、北朝鮮「将軍様」を「国民支配(統合)」の手段としているのに対抗して、天皇制こそが国民を統合する力にしなければならないと考えているようだ。自民党の政治家たちが本当にこのようなことを信じているのか、あるいは中国や北朝鮮のイデオロギー政治への対抗イデオロギーとして利用しようとしているだけなのか。その真意は政治家によって異なるだろうが、天皇制国家を正当化するために、日本は古代から天皇制国家だったということ強調して、天皇の権威の復位を狙っているようだ。
「ネット右翼」の応援に気を良くして憲法改正に意欲を示ししている安倍首相の最近の言動や、「靖国参拝」や「天皇陛下万歳」などの動きを見ると、これらの政治家のかなりの部分は本当に天皇制国家への回帰を望んでいるように見える。しかも、安倍首相を始め、戦後教育を受けた若い政治家も天皇制国家を主張しているようだから、自民党が批判する「戦後教育の弊害」などなかったのではないか。
天皇の権威の復位
憲法改正案「第一章 天皇」は、「天皇は、日本国の元首」という規定で始まる。現在の憲法規定でも国家の法的形態から言えば「立憲君主制」であり、国際的慣行からも天皇は「元首」として扱われている。しかし、現行憲法は天皇をことさら「元首」と規定せずに、「象徴」とだけ規定している。「元首」と「象徴」の違いは何か。後者が純粋に形式的な存在であることを強調するのにたいし、前者は実質的な統治の可能性を内包した規定である。「元首」として規定することによって「天皇の権威」を高め、「天皇」への忠誠心を高めることが要請されている。だから、第一章第三条で「国旗及び国歌」規定を新設することによって、天皇崇拝の要件が明記される。
日章旗と「君が代」が法律で定められてから教育現場で混乱が起きているが、自民党は「国旗国歌法」を憲法にまで引き上げることによって、その強制力を高めようとしている。「日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない」。この憲法改正案が成立すると、「君が代」を謳わない人はたんなる職務違反では済まない。憲法違反に問われる。私などは物心がつき、「君が代」の歌詞の意味を知ってからは、「君が代」を歌ったことがないが、「君が代」を歌わないことが憲法違反になるような息苦しい社会に戻りたくない。日本村の密告社会を想像すると、この憲法規定が及ぼす影響はきわめて甚大だ。
「お上」に忠実な人々
欧米社会では法律や憲法の具体的運用にかなりの許容度がある。とくに思想信条にかかわるものへの権力的規制は抑制されている。日本では事が思想信条にかかわる問題となると、途端に窮屈になる。先進国の中でもとくに日本社会は相互監視の習慣が根強く残っており、些細なことでも新聞の社会面に掲載されるほどだ。欧州では絶対に記事にならないことが、日本の全国紙の社会面の記事になっている。
「駅のコンセントを使って携帯電話の充電をしている人がいる」と交番に「告げ口」して、警官が駅に駆けつけたという信じられない記事も新聞に掲載されていた。線路沿いを通りかかった人が「貨物列車の運転士がパンを食べながら運転している」とJRに伝え、運転士が特定されたという記事にも驚いた。日本人の勤勉さや仕事の繊細さは褒められることだが、権力に従順であることを善として、物事の軽重をわきまえずに何でも告げ口すれば、社会の息が詰まってしまう。
大阪の終業式で、口パクで「君が代」を歌っている教師を摘発したという記事が、最近の全国新聞に掲載されていた。こういう摘発を専門にやる人がいるらしい。まるで北朝鮮の人民監視のようだ。摘発係も管理職もご苦労なことだと思うが、自分たちのやっていることの無意味さや馬鹿さ加減に気付かず、教育長や首長の命令を一生懸命に果たそうとする姿は恐ろしい。無批判に「お上」の命令を実行する姿こそ、「聖戦」の名のもとに、軍国主義に突っ走った戦前の日本の姿ではないか。
今のところ、「君が代」の強制力はまだ公立学校に限定されているが、これが憲法規定となれば、公立学校だけの規制に留まらなくなる。今の自民党政権が続く限り、「君が代」を歌わない人は、「憲法違反の非国民」として断罪されることは目に見えている。その摘発に精を出す日本人は幾らでも出てくる。中国や北朝鮮だけが人民監視の独裁政権なのではない。自民党が狙う「天皇制国家」は同じアジア的専制主義と同族だ。目くそ鼻くその類だ。
天皇が元首ともなれば、「君が代」監視だけでは済まない。少なくとも公立学校には日章旗とともに、天皇陛下の「御真影」が飾られよう。今では公式行事で日章旗に頭を下げるのが一般化しているが、少なくとも公立学校へは元首となる天皇の御真影が配られ、行事ごとに御真影への敬礼が強制されよう。御真影への敬礼を欠くのは憲法違反になるから、より強い監視の目が光る。天皇制を実感させるためには、こうやって天皇の権威を誇示する以外に方法がない。安倍自民党ならやりかねない時代錯誤の企みである。
昭和天皇の死去の際、日本は一瞬、戦前国家に戻ったようだった。当時、私は在外大使館に調査員として勤務していた。天皇の死に至るまで数カ月、大使は毎日2度にわたって館員を集め、ほとんど無内容な天皇の病状の説明を繰り返し報告した。館員はみな聞き流していたが、「万が一の時には、心構えをしっかり持つように」というのが、大使の口癖だった。弔意受付が終わった後、公邸の「御真影」にお参りするよう、大使から通達があった。公使に「私は行きません」と伝えたが、大使に直接言ってくれないかというので、「思想信条により、天皇の写真に頭を下げることはできません」と大使に直接伝えた。その時は何も言わずにきょとんとしていたが、後で「あれはアカだ」と言いふらしていたようだ。「私がアカなら、貴方は何ですか」と聞くのも大人げないが、私の場合は嘱託だったから大使も強制させることはできなかった。だが、ふつうの外務公務員は大使の意向に逆らうことはできない。逆らえば、帰国命令を出される可能性があるからだ。「敬礼」一つで、人の人生も左右される。
象徴天皇制下ですらこれだ。もし天皇がたんなる象徴ではなく、「元首」ということになれば、元首にたいする不敬は公務員と非公務員とを問わず、一律に憲法に違反する「不敬罪」になるだろう。こんなことにならないように、日本に住んでいる人にはもっと頑張っていただきたい。
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