SF(サイエンス・フィクション)としての原子力平和利用
- 2013年 5月 22日
- スタディルーム
- SFとしての原子力平和利用加藤哲郎現代史研究会
*これは5月25日に行われる現代史研究会(テーマ:「原発問題を考える―「原子力平和利用」と科学者の責任」)用のレジュメです。先に掲載した島薗さんのレジュメと共にご利用ください。(編集部)
「核なき世界」の必要―①被爆労働・ヒバクシャの不可避、労働力摩滅労働
(その3つの理由) ②巨大リスク装置産業としての核開発、自然災害・テロ・人為ミスで莫大な被害
③廃棄物処理の困難、後世世代への人類的・自然史的責任
Ⅰ SFとしての出発
1 フェビアン社会主義者H・G・ウェルズ『解放された世界』1914 「原子爆弾」「原子力」の〔発明〕
原子力産業利用—大量失業・貧困・競争格差—世界戦争・原子爆弾ー世界政府・世界人権の論理
2 日本におけるモダニズムからのウェルズ受容 1920.8岩下孤舟「世界の最大秘密」『新青年』
原子爆弾と原子的家庭、戦争抑止力としての原子爆弾、失業・社会問題の革命なき解決
3 1920.9ウェルズ=レーニン会見 1920.12レーニン「共産主義=ソヴェト権力プラス全国的電化」
トロツキー1926「無線、科学、技術、社会」 放射能の解放、科学技術の中立性
4 海野十三1927「放送された遺言」の警告 「神への冒涜では」「安全な統御は可能か」
5 レオ・シラード(ユダヤ系ハンガリー人核物理学者) 1934核連鎖反応「現在の物理学上の諸発見の工業的応用に関する限りは、作家の予見が科学者の予見より正確である」1939 ルーズベルトへの手紙
Ⅱ SFに導かれた科学技術の戦争動員
6 マンハッタン計画——20億ドル(230億ドル)13万人の政・軍・産・学協同体、被爆労働実験
社会・人文学版 OSS R&A(戦時情報局調査分析部2000人、地域研究・近代化論・国際統計)
7 ソ連の原爆開発——「原爆スパイ」と秘密都市「原子力収容所」、粛清・抑留の延長上の強制労働
8 ドイツと日本の原爆開発——ハイゼンベルグと仁科芳雄、仁科らが戦犯訴追されなかった理由
9 戦時中の「一発逆転」の夢———直木賞候補作家立川堅、1945.1.8「朝日・科学者の初夢」湯川秀樹
Ⅲ SFにあこがれ利用された日本の科学技術
10 仁科芳雄による日本の科学技術体制再建・日本学術会議
11 武谷三男・民主主義科学者協会の「反ファッショ原爆」論と「社会主義でこそ平和利用」
12 専門馬鹿、研究費、科学技術庁——「科学者を札束でひっぱたいた」中曽根原子力予算・3原則
付録 戦争犯罪としての原爆——「ヒステリー」「アレルギー」「アムネジアAmnesia 」
参考文献:島薗進著『つくられた放射線「安全」論』(河出書房新社2013)との接点
1 p35科学者・研究者・専門家——学術・社会科学・自然科学・学際研究・地域研究
2 p66 日本学術会議会長談話の不適切性・信頼性
3 p99 放射線医学—「第二次世界大戦中から冷戦期へ引き継がれた科学や科学情報の統制が、福島原発災害まで持ち越された」「異論を許さない科学者の政治的主張」
4 p227 「不安をなくす」情報隠匿、「安全」と「安心」
5 p247 「ABCC以来の放射線被曝研究の歴史」——市民科学(高木)、「人文学の責任」
加藤哲郎・井川充雄編『原子力と冷戦ーー日本とアジアの原発導入』(花伝社2013)
加藤哲郎『日本の社会主義——原爆・原発をめぐる平和の論理』(岩波現代全書、近刊)
<ネチズン・カレッジ上のデータベース>http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml
「占領下の原子力イメージ」「日本マルクス主義はなぜ『原子力』にあこがれたのか」
「反原爆と反原発の間」 エコノミスト掲載「原爆と原発から見直す現代史」
原子力・原子爆弾の想像上の創始者1913ウェルズ
「原子爆弾」と「原子力」の語は、イギリスの科学小説家にして文明批評家H・G・ウェルズ(一八六六—一九四六)が創り出した。ウェルズは、フェビアン協会に熱心に加わる社会主義者であり、平和主義者であった。生物学・化学等を学んだウェルズは、「タイム・マシン」(一八九五年)、「透明人間」(一八九七年)、「宇宙戦争」(一八九八年)、「月世界旅行」(一九〇一年)、「空の戦争」(一九〇八年)などの空想科学小説で、ジュール・ヴェルヌと共に「サイエンス・フィクション(SF)の父」とよばれる。
ウェルズは、第一次世界大戦の直前、一九一三年に『解放された世界』を執筆し、原子力を想像=創造した(一四年大戦勃発前に出版)。謝辞はラザフォードの放射線崩壊の共同研究者であるフレデリック・ソディー(一九二一年ノーベル化学賞受賞)『ラジウムの解釈』(一九〇九年)に宛てる。ソディーは今日エコロジー経済論の先駆者として知られる。『解放された世界』で原子爆弾が登場するのは、近未来の一九五六年世界戦争の中である。ラジウムとアインシュタインの特殊相対性理論の延長上での「人工放射能」の発見は一九三三年、その核分裂エネルギーによる「巨大な経済革命」は「最後の戦争」で原子爆弾が使われる前に設定され、実用化が進んで原子力エンジンが発電、自動車、飛行機、錬金術に使われるのは一九五三年、「熱気をはらんだ企業の光景、この巨大な生産力、この幸運な金持ち連中の群がる様」は「人類の新紀元開幕期の輝かしい一面」として描かれている。つまりウェルズの小説では原爆よりも「原子力の産業利用」が先行する。
同時にウェルズは、後に素朴に「原子力の平和利用」を夢見た亜流とは異なり、社会主義者らしく、「光り輝く場面の目立たないところに悲惨と社会的破局が蓄積」する局面を想定していた。「石油に投資された莫大な株式資本は売り物にならなくなり、何百万の炭鉱労働者、旧式の工場で働いていた鉄鋼労働者、無数の職業に携わっていた未熟練労働者、もしくは反熟練労働者たちの大群は、新しい機械のめざましい効率性によって、解雇されつつあった」、「世界はまったく統治されていなかった。だから、豊かさの実際の到来とともに、測りしれない豊かさが満ち溢れた状況において、そして人間の必要を満たすのに欠かすことのできないすべてのものと、また人間の心の中にあった意志と目的を実現するのに必要なすべてが手中にあったとき、人はなお苦難、飢餓、激怒、混乱、衝突、そしてわけのわからない苦しみについて語らなければならなかった」、「この莫大な新しい富、それを分配するいかなる計画もなかった」(八二頁)——フェビアン社会主義者ウェルズにとっては、「原子力時代」が到来しても「富の分配」と「産業計画」が重要な問題であった。
ウェルズ『解放された世界』での「原子爆弾」「原子戦争」は、原子エネルギー産業化の後に、「原子力機械装置の到来が引き起こした社会的、政治的緊張」の延長上で登場する。その威力と悲惨な結果は、「猛り狂った生き物のような赤紫色の巨大な火の球が周囲の崩れ落ちる建造物の中を凄まじい速さで回転」し、「沈黙の廃墟、破壊された建造物の残骸がうず高く積み重なった世界」で「ばらばらになった人間、頭と肩、あとは黒ずんだぼろぼろの肉の塊」と想像力を駆使するが、まだ第一次世界大戦さえ見ていない一九一三年の執筆であるから時代の制約は否めない。それでも「製造するにも扱うにも最も危険な」元素カロリニウムによる原子爆弾は「爆弾の落ちたところは、今日にいたるまで放射性物質が撒き散らされていて、処理しがたい放射能の発源地になっている」と描かれる(一四四頁)。
ウェルズが、原子エネルギー実用化による大量失業や格差拡大、原子爆弾による世界戦争の悲惨を描いたのは、「原子力の平和利用」を説くためではなかった。第一章「新しいエネルギー源」、第二章「最後の戦争」のあとに、第三章「戦争の根絶」を配して、「国家と国家が戦う時代の終末期の、つまり原子力の解放に続く危機の年における人類の状態」を脱し、科学技術を地球人類の「計画」のもとにおく「世界共和国」の必要を説くためであった。それは現実の世界では、第一次世界大戦の後に国際連盟、第二次世界大戦後に国際連合として組織されるが、そのいずれにもウェルズは満足することはなかった。この意味で、ウェルズの「世界共和国」は、ブハーリンの起草したコミンテルン世界綱領の最終目標「共産主義=国家の死滅」と似た、国民国家廃絶のユートピアだった。ただしそれは「自然の征服」ではなく、「人間の共和国」だった。
ウェルズのロシア革命論とレーニン「共産主義=ソヴェト権力+全国的電化」トロツキー「放射能の解放」
H・G・ウェルズは、第一次世界大戦前の一九一四年と、戦後ロシア革命を経た一九二〇年九月に、ロシアを訪れている。二度目の訪ロにおけるレーニンとの会見時のウェルズの第一印象は「巨大な、修復不可能なまでの破壊」であった。ボリシェヴィキは「農民の支持」を得て「大都市の秩序を回復」しつつあったが、それは「カール・マルクスの理論[=先進国革命]とは完全に矛盾するかたちで、ロシアの支配権を握っている」(ウェルズ『影のなかのロシア』原書一九二〇年、みすず書房、一九七八年、六六頁)。だから「ロシアにおける大発電所の開発計画に賭けている」レーニンは「クレムリンの夢想家」であり、「新しい、より幸福な共産主義的産業主義」のヴィジョンは、「漸進的なコレクティヴィスト」ウェルズとも共有可能である。しかしそこに「不可避的な階級闘争、再建への序曲としての市場主義秩序の崩壊、プロレタリアートの独裁等々といったマルクス主義のドグマ」をもってくることで、レーニンとウェルズは対立する(一〇〇頁以下)。
レーニン自身は、会見後にウェルズを「ブルジョアの俗物」と嘲笑したと言うが、ウェルズは、戦争と革命の廃墟で再建に取り組むレーニンに「電気技師のユートピア」を見出し、ある種の親近感を抱いた。レーニンが「共産主義とは、ソヴェト権力プラス全国の電化である」という、後に日本社会主義の「原子力の平和利用」容認に大きな影響を与えるテーゼを唱えるのは、一九二〇年一二月の第八回全ロシア・ソヴェト大会においてであり、九月のウェルズとの会見の直後であった(邦訳『レーニン全集』第三一巻、大月書店)
そして、もう一人のロシア革命指導者トロツキーも、ウェルズのSFに影響を受けていた。一九二六年の「無線、科学、技術、社会」では、「イギリスの作家ウェルズ(みなさんの多くはこの人の空想小説を知っていることでしょう)」の一九〇二年段階での飛行機の戦争での使用の予言が現実になった実例を挙げて、「社会主義というのは高度な技術を前提しており、それを必要とすること」「科学や技術の中にある限りない可能性」を、無線技術者たちに説いた。「科学と技術は、物質およびそれとは不可分の空間と時間を人間に従属させる」として「原子力」と「放射能」、「技術の中立性」にも言及した(トロツキー『文化革命論』現代思潮社刊、)。
放射能は唯物論にとって危険なものでは決してなく、弁証法のもっとも見事な勝利なのだ。……放射能の諸現象は、原子内のエネルギーの解放という問題にわれわれを連れていく。原子は、全一的なものとして、強力な隠されたエネルギーによって保たれているのであり、物理学の最大の課題は、このエネルギーを汲み出し、隠されているエネルギーが泉のように噴出するように、栓を開くことにある。そのとき石炭や石油を原子エネルギーに取り替え、それを基本的動力とする可能性が開かれてくるのだ。この課題はまったく望みなきにあらずだ。だがこれはなんという展望を開いていることだろうか! この一事からして、科学・技術的知識が大転換に近づいており、人間社会の発展における革命の時代は物質の認識やその獲得の領域における革命の時代と合致しているのだ、と主張することができる。解放された人類のまえには無限の技術的可能性が開かれているのだ。……技術それ自体は軍国主義的だとも平和主義的だともいえない。支配階級が軍国主義的である社会においては、技術は軍国主義に奉仕している。
一九二八年のコミンテルン世界綱領は、共産主義段階に「人類は、自然力とのたたかいに、人類自身の集団的な力の発展と向上に、その全エネルギーをそそぐようになる」「生産力の限りない、なめらかな、急速な上昇」=自然征服を夢見たが、それは、ウェルズの「空想」を現実のものとすることを意味した。この意味で、二〇世紀の共産主義とは、ある種のサイエンス・フィクションだった。ただしウェルズは、原子力の産業化が産み出す大量失業や格差拡大を警告し、「処理しがたい放射能」にも言及していたが、レーニンにもトロツキーにもその「光と陰」は映らず、「陰」の方は無視された。
この壮大な「共産主義=巨大な生産力、自然征服の夢」こそ、そこにいたる労働者の階級闘争・革命による体制転覆の夢、民族自決・脱植民地の希望とならんで、二〇世紀の世界で多くの民衆・知識人を社会主義・共産主義思想に惹きつけたものだった。しかもそれがマルクス主義理論の「全体性」と史的唯物論の「必然性」で担保されていることが、マルクスとはやや異なるエンゲルスの「空想から科学へ」の通俗的普及とあいまって、世界の社会科学・人文科学にも浸透していった。
ウェルズの最終目標は世界政府で、「原子力」はイメージ喚起の舞台装置
H・Gウェルズは、第一次世界大戦後に「世界史大系(The Outline of History, 1920)」や「世界史概説(A Short History of the World,1922)」を著した文明史家であり、啓蒙的な科学史家でもあった。今日読むと、エコロジー(生態学)の観点から人類史の光と陰を描いた世界政府主義者であり、「人権」概念から戦争の廃絶、軍備の撤廃を提唱した平和主義的社会主義者であった(ウェルズ『ホモ・サピエンス 将来の展望』原著一九四二年、新思索社、二〇〇六年、浜野輝『日本国憲法と新世界秩序』龍星出版、一九九六年)。
初めて原爆を登場させた『解放された世界』の邦訳は第二次世界大戦後になるが(水嶋正路訳、サンリオSF文庫、一九七八年、浜野輝訳、岩波文庫、一九九七年)、「世界史大系」は『世界文化史大系』(北川三郎訳)として一九二九年に、「世界史概説」も『世界文化史概観』の名で三九年に邦訳が出ている(岩波新書赤版、『資本論』訳で知られる長谷部文雄訳、どちらの邦訳にも「文化」が付された点に、戦後の岩波新書青版『世界史概説』訳者阿部知二は注意を促している、一九六六年)。イギリスの「科学史」家ならぬ「文化史」家ウェルズの名自身は、すでに一九〇九年にはエイチ・ジー・ウェルス『第弐拾世紀豫想論』(吉村大次郎訳、大日本文明協会)が出されていたから、社会主義黎明期の日本でも広く知られていた。英語を読める知識人やジャーナリストの中には『解放された世界』を通じて原子爆弾や原子エネルギーを早くに知った日本人がいたとしても不思議ではない。ただしウェルズにとって世界戦争は「戦争を終わらせるための戦争」(The War That Will End War,1914)で「世界政府」こそ最終目標であった。レーニンの「国家死滅のための国家=プロレタリア独裁」(『国家と革命』一九一七年)とも通じるが、レーニンが「全人民武装国家」を想定するのに対し、ウェルズは科学技術発展を制御しうる強力な世界政府と世界法、いわば「世界主義的・共和主義的近代化」を「新世界秩序」として構想した。ところが第一次世界大戦で世界強国の一角に入ったばかりの日本では、むしろ欧米「文化」へのキャッチアップの近代化、大陸への進出と日米戦争の文脈で、ウェルズにとっては「世界政府」のイメージを喚起する手段・舞台装置にすぎない「原子力」が注目されるようになった。ちょうどレーニンやトロツキーが生産力発展を謳歌し「放射能」を無視したように。
大正期日本(1920 『新青年』)における「原子力」イメージの導入
大正期日本における「原子爆弾」「原子力」イメージ導入は、当初はウェルズの文明批評を抜きに、表面的な生産力主義、近代主義的受容から始まった。第一次世界大戦後、一九二〇(大正九)年に創刊されたモダニズム雑誌『新青年』第八号掲載、岩下孤舟「世界の最大秘密」がそれである(一九二〇年八月)。
それは、「今から約二十年前に、エッチ・ジー・ウェルスが、人間は間もなく鳥より早く空中を飛ぶに至るであらうと云った時に、人々は『ウェルスは小説家だから、好い加減な出鱈目を云ふ』と云った。ところが今日は如何だ。人間は一時間に百哩乃至二百哩を飛ぶではないか!」と、トロツキーに似て(トロツキー以前に)ウェルズの科学的予言に注意を促す。「今ここに説かんとする大発見も亦、凡俗はこれを架空的な夢と呼ぶであらう。しかしこの大発見が、ワットの蒸気におけるが如く、又ウェルスの飛行機に於る如く、地上に大なる福音をもたらすべき日が来ないと断言し得るものが果たしてあるであらうか?」と始まる。そこには、「原子爆弾」と「原子的家庭」という、二つの夢が同居していた。
そこには「英国バーミンガム大学のアーネスト・ラザフオード教授は、原子を分解する事に成功した。で、この事は、他の学者の最近の発見と相俟つて、或る『力(フォース)』を解放するに至つた。そして人間を殆ど神様と同様の物にするか、それとも人類文明なるものを粉微塵に破壊して終ふかも、実にこの『力』の掌中に握られてゐるのである」、「『力』の偉大さは、実に驚くべきもので、一オンスの物質の中には、英国の艦隊を海底から世界最高の山頂まで持ち上げる『力』が含まれている」、「恰も今日無電が大洋を越える事が出来るやうに、吾々は原子力を放つて、この大地を透過させ、地球の反対の面、例へば日本から云へば亜米利加の一市街を灰燼に帰せしめるやうな事が出来やう」とある。
他方で、ウェルズの大量失業や格差拡大の警告は無視される。「若し仮にこの『力』が実現されたら現代社会の最大難物である労働問題などは忽ちに解決され、万人は悉く労働の苦痛から解放される。色んな税金なども不必要になる。泥棒や巡査はいなくなる。汽車も汽船もなくなる。戦争や疾病も無くなり、人間はもっと長命するやうになる」、「原子力利用の専門家は、『原子的家庭(アトミックホーム)』と称してゐるが、そこでは鉄瓶の湯も、凡て原子力で沸かされる。主人や奥様の着物も亦、その力を借りて洗濯する。だから若しさうしたいと思つたら、毎日下着を代へる事が出来る。そこには雇人の問題などはない。何故なら、ボタンを一つ押しさえすれば、真空器か又は掃除機が自ら動いて、室内の塵芥は管から本管へ放出され、そしてそれは町の中央原子力塵芥駆除器で吸収される」、「食物は同様の『力』で料理されるし、食器なども原子力で沸された湯で洗われ、熱気で乾かされる」「原子力が利用さるれば、嫌な仕事などは無くなるし、実際今日の所謂『仕事』などは無くなるのである」、「勿論労働問題などはなくなり『社会的不安』は一掃されて終ふ」。
それは、同時期『新青年』に連載され多くの読者を得た樋口麗陽「日米戰爭未來記」のような空想戦争小説ではない。著者は科学ジャーナリストと思われ、むしろ「これが有益に使用された暁には、人類を塗炭の苦しみに陥るゝ彼の戦争なるものは、永久に不可能のものとなるに相違ない。何となればこの原子爆弾の威力に対しては、如何なる強国と雖も対抗できぬからである」と、後に仁科芳雄や武谷三男が語る「抑止力」に、世界平和への希望を託した、それは、科学技術発展による欧米へのキャッチアップ=近代化の近道だった。階級闘争も社会主義革命も経ることなく「共産主義の高度な段階」に達する生産力発展の道が、科学技術の発展、原子力エネルギーで実現できるというのである。無論、ここでの「原子力」は「豊かで便利な生活」「家庭電化」のシンボルである。ウェルズの「世界共和国」とも、マルクス・レーニン主義の「階級的近代化」とも異なる「産業主義的近代化」で、戦後の「平和利用の夢」の原型である。原子力は、軍事利用=原爆にも平和利用=家庭電化にも使える、神秘的「力」であった。
海野十三「放送された遺言」1927での原子力への警告
ただし日本のサイエンス・フィクションにも、戦前から「原子力の夢」への危惧はあった。日本のSF小説の草分け海野十三は、科学ジャーナリスト出身で、一九二七年の『放送された遺言』では、原子力による近代化の夢の問題性を指摘していた。それは、晩年のウェルズが、第二次世界大戦とヒロシマ、ナガサキを見て、原爆は「やがて地上から一切を、善も悪もあらゆるものを、拭い去ってしまうであろう」と憂い、「世界史概説」初版の進化論的楽観主義を改めてペシミスティックな終章を第二版に書き加える(一九四六年)以前の段階での、日本における原子力イメージからの先駆的警告であった。
欲望がこの頃はあまり容易にえられるようになってきたため、必然的に次に起ってくる欲望には人類として大いに慎まねばならぬものまでが平然と現われてまいります。それは一めん致し方のないことのようにも考えられますが、また一めんから考えるとそれは恐ろしい罠であるようにも思われます。いったい人類は人類としての敬虔さをつねに持っていることが必要であります。『神を怖れる』ということを忘れ、神を冒涜するようなことはあくまで慎まねばならぬと思います。しかるに現代はこの立派な埓を乱暴にも蹴破って神を怖れぬ仕儀や欲求が平然と行なわれるようになっていると思います。
いまここに一例を申し上げますならば、人類が五万年かかってついに得たる霊薬と称する第九十五番目の原子チロリウムの獲得に対する人類の熱心さとたくらみはあまりにひどくはないかと思います。チロリウムは人類に適度に服用せられて不老不死の大目的を達するという証明の出るやいなや人々はあらゆる醜い争闘を演じてこの稀代の霊薬を手に入れようとあせっています。ラジウムよりもいっそうその存在量の少ないチロリウムが、結局人類のすべてへの需要をみたすためには到底あたりまえな分配方法では数人の人類を満足させることもできません。そのためについにここにチロリウムの人造があらゆる研究費を惜しまず試みられました。
のちのマンハッタン計画や原子力研究を予見するかの如く、海野は、不老不死の欲望は「神への冒涜」ではないか、原子エネルギーの開発が人類にとって制御可能なのか、それは「安全」なのかと問いかける。
しかしぜひこのことを行なうまえに一度よく考えてみなければならぬことがあります。それは人間は誰も彼も不老不死で生きのびたいという欲望を起すことは、はたして許し得べきことだろうかということです。そして第二には酸素原子をチロリウム原子に変成する実験ははたして安全に取りはこびうるものであるかという二つの疑問なのであります。……一グラムの水素原子が全部へリウム原子になったとすると十三万四千馬力で一時間ひっぱるほどのとても素晴らしく大きな電力になります。たった一グラムの水素をヘリウムに変成したばかりで特急列車が七十組同時に動くのですから大変な力ができるわけになります。この怖るべき事実から出発して、こんどおこなわれようとする実験――酸素をチロリウムに変成するときには、たった一グラムの酸素を蚤の眼玉ほどのチロリウムになおすために発生する力は、水素をヘリウムに直した場合の約十万倍であって、馬力にすると百三十億馬力となって私らでは到底想像することのできない悪魔のような巨大な力です。……その実験が成功したときにでてくる勢力エネルギーは、胸に考えてみただけで脳貧血になりそうな莫大なものです。私はその巨大な勢力エネルギーが飛びだしてきたときのことを考えると慄然といたします。多分その驚くべき巨大な力は簡単に人類に操縦されはしないでしょう。私は想像します。おおそれはもっとも恐ろしき出来事の端緒となることでしょう。かくも短い時間のうちにかくも小さい空間に発生せられた巨大なる勢力エネルギーは人力を超越し、人意を踏みにじって、そこに現われてくるものは第二次の原子変成現象、第三次の原子変成現象、それからまた第四次、第五次と引きつづいて起り、とめどもなく膨脹拡大する原子変成アトミックトランスフォーメーションが数万の雷鳴と地震と旋風とを同時にこの世界に打ちつけ、その結果、衝突と灼熱と崩壊と蒸発と飛散とが一時に生じて瞬またたくうちにこのなつかしきわれらをのせている球形の世界を破滅消滅しさってしまうことであろうと信じます。」
この海野十三の小説では、「『神を怖れる』ということを忘れ、神を冒涜するようなことはあくまで慎まねばならぬ」という倫理上の原理的問題と、第一に「人間は誰も彼も不老不死で生きのびたいという欲望を起すことは、はたして許し得べきことだろうか」、第二に「酸素原子をチロリウム原子に変成する実験ははたして安全に取りはこびうるものであるか」というチェルノブイリ、フクシマに通じる問題が、すでに先駆的に提起されていた。ちょうど日本共産党の「二七年テーゼ」、「自然の征服」を謳った二八年コミンテルン世界綱領の頃である。
海野十三は『新青年』四四年一二月「諜報中継局」にも原子爆弾を登場させ、ヒロシマの「新型爆弾」のニュースを聞いて、『敗戦日記』四五年八月一〇日にこう記した。
今朝の新聞に、去る八月六日広島市に投弾された新型爆弾に関する米大統領トルーマンの演説が出ている。それによると右の爆弾は「原子爆弾」だという事である。…原子爆弾の成功は、単に日本民族の殲滅にとどまらず、全世界人類、否、今後に生を得る者までも、この禍に破壊しつくされる虞れがある。この原子爆弾は、今後益々改良され強化される事であろう。その効力は益々著しくなる事であろう。戦争は終結だ。…日本はここでも立ち遅れと、未熟と、敗北とを喫したわけだが、仁科博士の心境如何? またわが科学技術陣の感慨如何?
ウェルズに示唆を得たレオ・シラードーー「マンハッタン計画」への道
現実の原子エネルギーの開発は、核物理学の進展によるものだった。一九三八年末、ナチス統治下ドイツのオットー・ハーンと、ユダヤ系女性物理学者リーゼ・マイトナーによる核分裂の発見・検証は、物理学者たちの世界で、すぐさま情報が共有された。
核分裂の連鎖反応を応用した原子爆弾は、もともと「平和」のために構想された。ただしその「平和」の含意は、それぞれに異なっていた。マンハッタン計画に加わった科学者の多くにとって、それは、近代文明の破壊者であるナチズム・ファシズムの世界支配を阻止し、人類と文明を守るためのやむをえない措置であった。原爆は世界平和に貢献するために製造されたのであり、人類の文明を野蛮から守るために使用される必要悪とされた。ちょうどヒトラーのナチス・ドイツが、ポーランド侵攻から第二次世界大戦へと突入する時期である。アメリカには、ナチスに追われた多くのユダヤ系科学者が亡命していた。
マンハッタン計画に直接連なるアインシュタインのルーズベルト大統領宛手紙は、一九三九年八月二日付、ハンガリーからの亡命物理学者レオ・シラードが起案し、ルーズベルト大統領の助言者レーマン・コーポレーション副社長アレギザンダー・ザックスが、一〇月二日に大統領に手交した。 それは、とりわけナチスのユダヤ人迫害をおそれた亡命核物理学者たちが、ヒトラー独裁のもとでの核物理学先進国ドイツにおける原子力研究の進展が原爆を実現し、第三帝国の世界支配に連なる悪夢を恐れてのものだった。
発案者レオ・シラードは、ハンガリー生まれのユダヤ人で、エントロピーや分子生物学にも詳しい核物理学者だった。ベルリン大学時代にH・G・ウェルズの『解放された世界』から「核連鎖反応」のアイディアを得て、一九三四年には「現在の物理学上の諸発見の工業的応用に関する限りは、作家の予見が科学者の予見より正確である」と記した(『シラードの証言』みすず書房、一九八二年)。ナチス政権成立と共にウィーン、ロンドンを経てニューヨークへ亡命、三九年三月にはイタリアから亡命したエンリコ・フェルミらとともにウランの核分裂実験に成功、ハイゼンベルグらドイツに残った核物理学者によりナチスの原爆が先に作られることをおそれ、アインシュタイン、ザックス経由で原爆製造の提案がルーズベルトに届けられた。
ちょうど同じ頃、一九三九年一〇月二四日付で、シラードが敬愛するH・G・ウェルズも、旧知のルーズベルト大統領に手紙を書いていた。ヒトラーのファシズムに対して、民主主義諸国が結束するために「人権宣言」を発して「中立国と敵国に押し通す」ことを求めた。ウェルズ研究家浜野輝は、この手紙とその後の三九年ウェルズールーズベルト往復書簡を通じて、シラード=アインシュタイン書簡からマンハッタン計画——ヒロシマ・ナガサキ原爆投下への道筋とは別に、ウェルズのサンキー人権宣言(一九四〇年)—ルーズベルトの「四つの自由」(四一年)—大西洋憲章(四一年)—連合国ワシントン宣言(四二年)—ポツダム宣言(四五年)—日本国憲法(四六年)—国連世界人権宣言(四八年)の人権思想のループを見出している(前掲『日本国憲法と新世界秩序』及び『解放された世界』岩波文庫版巻末解説「ウェルズと日本国憲法」)。
裏切られたシラードの願いと米国における科学者たちの戦争動員
今日的には、シラードら核物理学者たちの反ファシズムの善意による原爆開発の提案・協力が、それ自体として人類史にとってどのような意味があったかが問われる。学者たちは、その核分裂エネルギーの威力に恐怖しながらも、ナチス・ドイツの悪に立ち向かう善意で自分を慰め、自由と民主主義を守るためと割り切った。しかしその善意は、米英政府と軍によって利用された。実際には戦時ナチス・ドイツは原爆を作ることが出来ず「原子爆弾はヒットラーに勝利するための必要悪」という当初の企図自体が結果的には神話となった。その副産物である「原子力の平和利用」は、核実験とならんで、地球生態系に回復不可能なかたちで放射能を流出・拡散し、人類を絶滅しうる核兵器と地球的規模でのヒバクシャを生み出してきた。
ルーズベルト大統領下の原子爆弾製造計画、いわゆるマンハッタン計画にたずさわったのは、日独伊枢軸に対抗する反ファシズム連合国の側の科学者・技術者・軍人たちであった。といってもソ連に対しては秘密にされ、米国・英国・カナダが関わったものだった。原発製造には、二〇億ドル(二〇一一年換算で二三〇億ドル)の巨額な軍事予算、現場労働者・作業員を含め一二万五〇〇〇人を要したように、原爆とは、科学者たちの頭脳に政府・軍・産業界の戦争動員を加えた巨大な組織的プロジェクトであった。そのプロセスについては多くの研究があるが、もともと連合国軍内部に内在する英米とソ連の戦後構想の対立は、このマンハッタン計画の秘密性とドイツ・日本敗戦時の勢力圏分割に萌芽的に現れていた。冷戦の前兆である。
世界の核物理学の最先端研究とその軍事的実用化は、第二次世界大戦時の国家間競争によって行われた。一般には英・米・ソ連・中国らが加わった連合国と日独伊枢軸国の戦いであった第二次世界大戦の中で、核兵器開発のアクターは限定的で、連合国内でも枢軸国内でも、矛盾と疑心暗鬼に満ちたものであった。原爆製造計画そのものは、英米の共同作戦だった。イギリスで開発が開始され、マンハッタン計画にはイギリスの関係者が渡米しチームに加わった。カナダ政府もウラン供給という役割を持っていた。しかし計画そのものは秘密裏に進められ、全容を知るのはグレーブス准将とオッペンハイマーらごく小数の指揮官たちに限られた。実質的チームは、米国陸軍のクレーヴス准将がスチムソン国務長官に報告しつつ進められた。オッペンハイマーを長とする科学者集団が原理的研究開発から設計までを受け持ち、軍と技術者集団が製造・実験・運用にあたるという二段階に分かれていた。総力戦での新兵器開発では、第二段階でも科学者たちの協力は不可欠だった。その進行状況も、ホワイトハウスやペンタゴンでは一握りのトップのみが知るかたちだった。それは、連合軍がなおイタリア、ドイツ、日本と戦争状態にあるなかでは顕在化しなかったが、ドイツの敗北が色濃くなり、ヤルタ会談で米英とソ連の戦後世界の分割支配が課題に上る頃には、焦点となっていた。もともとナチスへの対抗として始まったものの、ドイツの敗色は、一九四四年にははっきりしていた。
実際の原爆は、発案者シラード等の反対にもかかわらず、ナチスに対してではなく日本に対して用いられた。広島・長崎の原爆被害はオッペンハイマーの予想さえこえていた。数十万の都市住民のジェノサイドに帰結したことで、科学者たちの多くは核兵器を「使用できない兵器」として厳格に管理されることを望んだ。 確かに開戦前、ドイツは世界の核物理学研究の最前線だった。当初の計画からしても、ナチス・ドイツの原爆製造が疑われ、ヴェルナー・ハイゼンベルグらドイツの核物理学者がどこまでヒトラーに協力しているか、いつ製造できるかを知ることが、焦眉の課題だった。そのためナチ占領下のスウェーデンから亡命したニールス・ボーアには、ロスアラモスに特別の研究室が与えられ、軍と戦略情報局(Office of Strategic Service=OSS、戦後の中央情報局CIAの前身)には「アルゾス」という暗号名を持つ特別の情報作戦が組織されドイツの核物理学者たちの動向が調査されていた(山際晃・立花誠逸編『資料 マンハッタン計画』大月書店、一九九三年)。元ニューヨーク・ヤンキースのモー・バーグが、イタリアやスイスでドイツの学者の動向を聞き込みしていたのもその一環であった(ダヴィドフ『「大リーガー」はスパイだった』平凡社、一九九五年)。
人文・社会科学も動員された。アメリカは第二次世界大戦期に「敵国ファシズム」=日独伊に勝利するために戦略情報局(OSS、戦後のCIAの前身)調査分析部(Research & Analysis、R&A)に全米の社会科学・人文科学の俊英を集め、アメリカの世界戦略に沿って戦後世界秩序を設計した。そこでは戦後社会科学の方向を決定づける数々のアイディアや方法論的模索が生まれた。経済学では、ロストウ、レオンチェフらがマルクス主義者スウィージー、バランらと一緒に討論していた。社会学はシルズが中心でパーソンズが協力者だった。最重要な対独政策策定は、ドイツから亡命したフランクフルト学派マルクス主義者ノイマン、マルクーゼ、キルヒハイマー らが中心で、亡命知識人が大量動員された。それは、アインシュタインら自然科学者が原爆製造に関わった「マンハッタン計画」の人文・社会科学版であり、哲学・美学・歴史学から経済学・統計学・政治学・社会学・教育学、新興の文化人類学・社会心理学・地理学・メディア論等の博士号を持つ研究者約900人(最高時アナリスト2000人)が、ドイツ・ソ連や中国・日本を学際的に共同研究して対敵戦略と戦後改革を構想し、匿名の膨大な各国毎の経済・政治・社会・文化の百科全書を作り、必要な語学訓練を兵士にほどこして前線に送り、前線での現地人との接触や捕虜の扱い方、占領統治のあり方をマニュアル化する素材となった。W.W.ロストウにとって「成長」とは、資本・労働の増加率と人口増加率の関数として、一人当たり産出量を増大させることだった。それは、マルクス主義の①原始共産制—②奴隷制—③封建制—④資本主義—⑤社会主義という発展段階論を強く意識して、①伝統社会—②先行条件準備期—③離陸期(テイク・オフ)—④成熟への前進期—⑤高度大衆消費社会という5段階を設定した。近代化論は、基底に生産力を置いて生産関係(生産様式)を説くマルクス主義と対決したかに見えるが、その適用過程では、一人あたり国民所得など経済的指標ばかりでなく、複数政党制や世論の役割、社会保障、電話やメディアの普及などの社会的・文化的指標をも用いて各国の発展段階を数量的に計測し、その社会的機能の統合の度合を見る視角が入っていた。それが、戦後の地域研究や国際関係論・文化人類学・社会心理学の隆盛の前提となり、かつ、プロジェクト型研究と科学技術予算配分、レフェリー制学問評価、学際研究・境界領域研究等の源泉となった。数量化・統計が推奨され写真・映画・文学、年鑑・地図・名簿が基礎資料になった。イギリス風実証主義・経験主義とアメリカ風多元主義を根底に置くため、単一理論として方法的に体系化されたわけではないが、マルクス主義に対抗しうる開放的準拠枠組を持っていた。各国地域研究を総括する一般理論は、パーソンズ=シルズの社会システム論・社会統合論に洗練されマルクス主義の全体性への対抗軸となった。マルクスの再生産表式に相当するのがレオンチェフの産業連関表とサイモン・クズネッツの国民所得計算で各国国民所得計算と国連等の国際指標へと展開され具体化した。各国国民経済と社会統合の歴史を統括し、世界史的に整序するのがロストウの開発経済論・近代化論でソ連のマルクス・レーニン主義唯物史観への対抗軸となる。
ソ連における原爆開発と秘密都市=原子力収容所(メドヴェージェフ)
ソ連はソ連で、いち早く米英の原爆製造に気づき、マンハッタン計画の内部に幅広いスパイ網を持っていた。これが、戦後のソ連による早期の原爆製造、核に対する核での対抗という冷戦の前提となる。オッペンハイマー解任などマッカーシズムの一争点であったこの点は、ソ連崩壊後、スドプラトフ『KGB 衝撃の秘密工作』上下(ほるぷ出版、一九九四年)、ヘインズ=クレア『ヴェノナ』(PHP研究所、二〇一〇年)、それにジョレス&ロイ・メドヴェージェフ『知られざるスターリン』(現代思潮新社、二〇〇三年)の「原子力収容所」告発などではっきりしてきた。原子力から見る限り米ソ冷戦は、第二次世界大戦の中にすでに孕まれ、始まっていた(市川浩『科学技術大国ソ連の興亡』勁草書房、一九九六年、D・ホロウェイ『スターリンと原爆』上下、大月書店、一九九七年、など参照)。スターリンのソ連は、米英による原爆製造=マンハッタン計画を初期から探知していたばかりでなく、クラウス・フックスらを通じて重要情報を入手していた。
ヒロシマ原爆直後、在日ソ連大使館は二人の大使館員を広島・長崎に派遣し、原爆の威力を調査し報告させていた。内一人は放射性被爆で帰国後死亡した(アレクセイ・A・キリチェンコ『知られざる日露の二百年』現代思潮新社、二〇一三年)。一九四五年八月二〇日には、国家防衛委員会で原子計画を管理する第一総局が設置され、戦後戦略の中に原子力を位置づけクルチャートフを中心に本格的開発に入った。その製造体制は、戦前スターリン粛清期の運河建設やシベリア開発に準じるものであった。旧ソ連体制下で言論を抑圧されてきたジョレスとロイのメドヴェージェフ兄弟は、地図に載らない秘密都市に科学者・技術者や被爆労働者を隔離・幽閉しての原水爆開発を「原子力収容所 Atomic Gulag」と名付けた(前掲『知られざるスターリン』、『回想 一九二五—二〇一〇』現代思潮新社、二〇一二年)。
ジョレス・メドヴェージェフによれば、ソ連では一九四一年一〇月一三日の『プラウダ』で、「数百万の住民もろとも大都市全体を破壊することができる」原子爆弾が、すでに報じられていた。四五年末に二五万人(米英マンハッタン計画の倍)、五〇年には七〇万人以上が原爆開発に従事しており、「その半数以上が囚人で、三分の一が内務省の建設部隊であった。わずか一〇パーセントほどが『自由雇用』の人であるが、彼らも移住の自由は厳しく制限されていた」、「ウラン採鉱の主な労働力はドイツの戦争捕虜、ハンガリーとチェコスロヴァキアに抑留されたドイツ国籍の市民であった。……一九五〇年の初めにソ連政府がドイツ人捕虜の釈放と送還を決めたため、捕虜のドイツ人を利用する余地は少なくなっていった」((前掲『知られざるスターリン』)。またウラン採掘の被爆労働ばかりではなく、チェリャビンスク州スネジンスク市(秘密都市チェリャビンスク70)では、核化学の専門家ニコラウス・リール教授ら捕虜になったドイツ人科学者数十人がソ連の原爆開発に動員されていた(片桐俊浩『ロシアの旧秘密都市』東洋書店、二〇一〇年)。
第二次世界大戦終了時のソ連における抑留軍事捕虜は、ドイツ二三九万人、日本六四万人、ハンガリー五一万人の三国が突出している(白井久也『検証 シベリア抑留』平凡社新書、二〇一〇年、八〇頁)。ドイツ人捕虜の数十万人が原爆開発に用いられていたとすれば、日本人抑留者にも該当者がいるのではないかと考え、シベリア抑留研究会(代表 富田武成蹊大学教授)や各種文献・手記、それに米国CICが抑留引揚者を帰国時に舞鶴で訊問した米国陸軍情報部(MIS)Project Stitch 資料(米国国立公文書館NARA所蔵)にあたってみたが、今のところソ連の原爆開発に協力を強いられた日本人科学者・労働者は見つかっていない。ただし一九五五年にウラン工場が建設されたクラスノヤルスキ地方ゼレノゴルスク市(秘密都市クラスノヤルスク45)の場合は、日本人抑留者が強制労働に従事した収容所と炭鉱の跡地が、ウラン濃縮、使用済み核燃料処理工場に「発展」していった(片桐前掲書)。いずれにせよソ連の核開発及び核事故の真実は長く隠され、一九四一年の日ソ中立条約をもとに終戦工作の相手にソ連を頼みにした敗戦時日本政府・軍部が裏切られるばかりでなく、戦後日本の社会党・共産党も「社会主義の核」の実態を知ることなく、ソ連を「反ファッショ」で「平和勢力」とみなすことになった。
日本にも科学者の戦争動員・戦時協力があったが原爆開発は初歩的であった
日本にも戦時科学技術動員があり、原爆開発も試みられた。一九四一年五月、近衛内閣の閣議決定「科学技術新体制確立要綱」が「高度国防国家完成」のための「日本科学の建設」をうたうもので、企画院科学部や技術院が重要な役割を果たした。今日の科学研究費補助金の起源も、この戦時科学技術動員に発する。日本軍主導の原爆開発について、ジョン・ダワーは、戦時日本の原爆開発が「一貫性のない試みにすぎず、明らかに失敗」だったという(邦訳『昭和』みすず書房、二〇一〇年、所収)。「ニ号研究」参加者で、敗戦直前に思想歴により検挙された体験を持つマルクス主義核物理学者武谷三男は、「原子爆弾が日本でできない事などは百も承知」で「何とか原子核物理学の研究という純粋な研究が不急なものとして止められる事から救う」ためだった、と戦後得意げに述べる(「原子力時代」『日本評論』一九四七年一〇月)。同盟国ドイツとの協力は、ウラン獲得のため試みられたが不可能だった(山崎正勝『日本の核開発』績文堂、二〇一一年、保阪正康『日本の原爆』新潮社、二〇一二年)。ただし当時の仁科芳雄と核物理学者たちとの交流記録(『仁科芳雄往復書簡集 Ⅲ』みすず書房、二〇〇七年)を読むと、原料も施設もないところで、それなりに真剣に原爆を作ろうと試みられたことがわかる。
『朝日新聞』一九四五年一月八日の「科学者新春の夢」には、山本峰雄「B29の四倍の親飛行機、無人機操り米本土爆撃へ」、浅田常三郎「敵基地の蠢動も暴露、すごい高性能受信機の威力」と共に、湯川秀樹博士の「華府(ワシントン)を吹飛ばす、洞窟から謎の放射線」が掲載され、「現在できているサイクロトロンを何十倍、何百倍にした巨大な装置」による放射線攻撃が「初夢」として語られている。これは「初夢」として語られているため、インタビューをまとめた記者の「夢」なのか、湯川自身が目を通した「夢」なのかは定かでないが、当時の日本の科学者の有り様を示していることはまちがいない。
一九四五年五月敗戦後のドイツでは、ヴェルナー・ハイゼンベルグらナチスの原爆開発に関わった核物理学者が連合軍により逮捕・拘束され、四六年一月までイギリスで長期の訊問を受けた。日本でも仁科芳雄らは事情聴取を受けたというが、拘束されなかった。ジョン・ダワー『昭和』(みすず書房)は、米国側文書にもとづいて、「降伏後、日本の原子核関連分野の研究者たちは拘束され、厳しい監視下におかれた」という(米軍一九四五年一〇月三〇日指令)。この指令文書は『仁科芳雄往復書簡集 Ⅲ』に収録されているが、「拘束」「拘留」はなく、ただ「管理下におく」だけである。『仁科芳雄往復書簡集 Ⅲ』には、一二月一五日には「原子力にかつて従事した日本人の拘留解除を認める」、ただし「原子力エネルギー研究を行うかもしれぬ彼らの行動とすべての研究室に関しては定期的な検査を行い、研究を禁止せよ」というワシントンの機密電があり(一一九七頁)、これが指令通りなら、仁科芳雄以下原子力関係者は一か月半の拘束を受けたことになる。
ところがちょうどこれが日本にあった五基のサイクロトロン破壊の時期であり、仁科は全国の研究者と連絡をとり、占領軍への抗議活動を行っている。日本の多くの研究書にも「原子力研究の禁止、サイクロトロン廃棄」はあるが、「科学者の拘束」は述べられていない。ワシントンと東京の占領軍内の齟齬なのか、科学者たちが沈黙しているのか、ダワーも「この問題についてはさらに研究が必要」としている。いずれにせよ、こうした点について、ほとんどの原爆開発関係者は戦後に沈黙を保った。
そして、核物理学者に期待する巷では、湯川博士の「初夢」に似た「一発逆転の夢」が膨らんでいた。日米戦争末期の『新青年』一九四四年七月号には、立川賢の科学小説「桑港(San Francisco)けし飛ぶ」が現れた。日本が石炭の百万倍に匹敵する熱エネルギーを持つウラニウム235を使った原子爆弾を完成、原子力エンジン搭載の爆撃機で太平洋を横断し、米国本土サンフランシスコ(桑港)に原爆を投下してビルを壊滅させ、七〇万人を殲滅し戦局を逆転するというストーリーである。立川賢は、この頃日本の大衆文学の勲章である直木賞候補になった作家であった(一九四二年下期第一六回、四三年上期第一七回)。
『日本沈没』など海外でもよく知られる作家小松左京のSFへの関心の原点は、一九四一年『毎日小学生新聞』に連載された北村小松の小説「火」との出会いだった。「マッチ箱一つで富士山が吹き飛ぶ」と原子爆弾が描かれ、「こんなの嘘だろう」と思ったが四年後に広島・長崎で実現、以来「科学を制御しなければ人類は滅んでしまう」と考え、警鐘を鳴らし続けた(小松左京『SF魂』新潮新書、二〇〇六年)。
「科学雑誌」というジャンルがある。明治期に生まれたが、なぜか日米開戦の年一九四一年が、『科学朝日』(朝日新聞社)、『図解科学』(中央公論社)、『科学史研究』(日本科学史学会、岩波書店)、『科学文化』(科学文化協会)と創刊ラッシュだった。翌四二年に『科学日本』も刊行開始、「生活科学」「厚生科学」に「国防科学」の分野が加わる。科学動員協会からは、分厚い『科学技術年鑑』が毎年刊行された。
そして、マンハッタン計画では、戦後の経済再建への応用・商業化可能性が、未来への希望として正統化された。それは、広島原爆投下直後のトルーマン大統領らの以下の声明にも示唆され、その後の「原子力の平和利用」=「平時利用」の有力な伏線となる。
原子エネルギーを解放することができるという事実は、自然の力に対する人間の理解に新しい時代を迎え入れるものである。将来、原子力は、石炭、石油、降雨から得ている現在の動力を補うことができるかもしれない(トルーマン大統領声明、一九四五年八月六日)。
今日、原子爆弾の形で原子エネルギーを大量に解放することができるという事実は、このエネルギーを平和的産業目的に使用する見通しの問題を提起している。……われわれは、開発するまでには長い歳月と多額の支出を要する新しい工業技術への入り口にいるのである(スチムソン陸軍長官声明、八月六日、山極・立花前掲書)。
四五年五月の国際連合結成に恒久平和のための軍備管理が期待されたが、米国の原爆投下は冷戦の開始、戦後世界戦略上でのソ連への対抗で、アジアにおける冷戦の出発点であった。原爆という「軍事利用」=「戦時利用」はその巨大な破壊力ゆえに「戦争抑止力」という「平時利用」のイメージに用いられた。他方の「原子力平和利用の可能性」は、「安価で安全なエネルギー」という原子力開発継続の正当化に用いられた。
仁科芳雄ら自然科学者たちの「悔恨共同体」「無念共同体」
敗戦後すぐに占領軍の訊問を受けた仁科芳雄らは、戦争協力を反省することよりも、戦後の研究を再開することに使命を見いだした。日本の核物理学者たちは、戦時中の原爆開発では欧米に大きく水をあけられたが、原子力の基礎研究では自信を失っていなかった。三・一一の福島原発事故を踏まえて、仁科芳雄の戦時・戦後を詳細に再検討した小路田泰直は、多くの科学史家や歴史書とは異なる問題を指摘している(小路田泰直「『想定外』と日本の統治——ヒロシマからフクシマへ」『史創』第一号、二〇一一年八月)。小路田は問う、「アメリカはなぜ仁科に対して寛大だったのか」と。以下のGHQ 経済科学局科学技術課次長H. C. ケリーが、経済科学局長W. F. マーカットに宛てて送った四八年九月三日付の報告書を挙げ、「アメリカは早い段階から、少なくとも一九四六年三月以前の段階から—ということは事実上終戦直後から—、戦争中に長足の進歩をとげた日本の原子力研究を、破壊するのではなく、利用しようとしていたのである。それは七三一部隊の細菌兵器技術を利用しようとしたのと、動機において同じであった」と断じている。
主題:合衆国による日本科学者の利用
1.貴方の一九四六年三月の口頭による要請にこたえ合衆国による日本科学者の利用の可能性を調べた。
2.日本は理論科学に優れた指導者をもっている。実験科学では、仁科や菊池といった二、三の例外を除けば、むしろ弱い。理論科学者たちは、理論原子核物理学の分野で際立った寄与をしてきた。Oppenheimer 博士のような最良の助言者によれば、核理論の発展において彼らは合衆国とほとんど肩を並べている。実験核物理学における彼らの寄与はほとんど無視できるほど小さい。
3.日本の科学者が合衆国に行くとすれば、学者として、安全に責任をもつ民間の機関をスポンサーとして行くべきであり、ドイツの場合のように彼らを輸入すべきではない。ドイツ科学者の輸入による—アメリカの科学者自身にさえよる—負の宣伝効果を見れば、われわれの方法がより実際的なものであることが分かる。
4.合衆国に行くべき最初の科学者の一人は京都帝国大学の教授、湯川博士である。彼は中間子理論の発案者であり、Oppenheimer によって世界の最も優れた理論物理学者一〇人の中に数えられている。湯川博士は、プリンストンの高等研究所の任用を受け九月二日に発った。この計画は、極東委員会の議論のため、早めることはできなかった。
5.貴方の承認があれば、同じ路線が将来もとられるであろう。傑出した日本科学者は、非友好的な国々よりもアメリカに向かうよう、あらゆる手段で奨励されるであろう(前掲『仁科芳雄往復書簡集 Ⅲ』一三四三—四四頁)。
小路田は告発する。「だから冷戦が激化し始めると、アメリカは、日本の学術研究体制の刷新運動——その帰結が一九四九年一月の日本学術会議の結成——の中心に仁科を据えるなど、仁科らの研究チームを雲散霧消させないよう意を用いなくてはならなかったのである。だからアメリカは仁科に寛容だったのである」、「しかし冷戦が激化し始めると状況は一変した。アメリカは公然と日本の原子力技術の利用に乗り出してきたのである。アメリカは、湯川秀樹をはじめ多くの核物理学者をアメリカに招聘し、恵まれた研究環境を与え、彼らをアメリカの核開発に、直接・間接に巻き込んでいった。その招聘された核物理学者の中には、長岡半太郎の五男で、やがて日本の核戦略の決定に重要な役割をはたす嵯峨根遼吉などもいた。仁科も、短期間であるが、一九五〇年三月三日から四月六日まで、アメリカ科学アカデミーの招きでアメリカ各地の原子力施設を訪問している。そしてこのアメリカの働きかけに、仁科らは積極的に応えたのである」と。
じっさい戦後に「原爆・原子力」を解説し、「原子力の平和利用」を唱えた「専門家」は、ほとんど例外なく戦時日本の原爆開発の担い手であった。陸軍主導の理研・東大「ニ号計画」の仁科芳雄、嵯峨根遼吉、武谷三男ら、海軍がスポンサーの京大荒勝文策研究室「F号計画」に関わった湯川秀樹、坂田昌一らである。
付:戦後日本の病理学的診断(アムネジア 健忘症)——「核ヒステリー」と「核アレルギー」
Amnesia (医)独 die Amnesie記憶喪失症、健忘症(特定の記憶が欠落する現象、またはその状態)
Hysteria(医、独)ヒステリー、病的興奮(unmanageable emotional excesses)神経症の一種
Allergy (医、独) アレルギー、反感、毛嫌い〈免疫反応が特定の抗原に対して過剰に起こること〉
●1945-55 アメリカにおける核ヒステリー論 トルーマン原爆声明への科学的・倫理的・宗教的批判周辺化
起源は広島・長崎原爆投下のバーチェット報道やコーネル大フィリップ・モリソンの広島ホロコースト論を批判したReader’s Digest, Feb.1946掲載De Seversky, Alexander P., “Atomic Bomb Hysteria” で、New Yorker, Aug.1946掲載 John Hersey ”Hiroshimがベストセラーになった状況が、米国内では人種主義を背景に「核ヒステリー」とみなされ周辺化された(Patrick B.Sharp, Savage Perils: Racial Frontiers and Nuclear Apocalypse in American Culture, UP Oklahoma 2007,リフトン=ミッチェル『アメリカの中のヒロシマ』岩波書店、1995,p.103)。
● 1954/3-56「日本人の核ヒステリー」——ビキニ被爆から原水禁運動出発への米国公文書での診断
「日本人は病的なまでに核兵器に敏感で、自分たちが選ばれた犠牲者だと思っている」「日本人が米国の原子力平和利用計画の可能性を称賛すればするほど、現に存在する[核兵器、死の灰に対する]心理的障害を小さなものにする」「原水爆反対、だからこそ平和利用を熱狂的に歓迎」
●1964-74 日本における核アレルギー論=佐藤内閣非核3原則・沖縄核密約時の日本側造語
荒瀬豊・岡安茂祐「『核アレルギー』と『安保公害』ーーシンボル操作・1968年」(『世界』1968年9月号)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study582:130522〕
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