政治家の見識と歴史認識
- 2013年 5月 27日
- 評論・紹介・意見
- 三上 治
日本維新の会の共同代表である橋下大阪市長の従軍慰安婦について、「当時は軍の規律を維持するために必要だった」、「沖縄駐留のアメリカ軍司令官に風俗の活用を進言した」という発言に対する内外の批判が高まり、よくある政治家の失言という事態を超えた問題になりつつある。この背景には安倍首相の登場以降にわかに強まってきた右傾化的発言に対する内外の批判がある。これは戦後体制脱却を主張する安倍首相等の発言に対する警戒や懸念と言ってもいいものである。もう少し詳しく言えば戦後体制脱却が戦前への回帰、あるいは戦前の肯定的評価としてあることへの批判である。日本国憲法《戦後憲法》の改正という政治的動向に対する警戒もある。
日本維新の会のもう一人の共同代表である石原慎太郎の「軍に売春はつきもの」、「侵略に当たらない」という発言を加ええる全体がよく見える。さらには安倍首相の村山談話(日本の侵略戦争を謝罪したもの)について「安倍内閣としてそのまま継承しているわけではない」という発言を付けたしてもよい。
内外からの批判に対して、橋下も安倍も弁明に努めている。現実には言いわけの中で最初の発言の趣旨は消されて行く事態になっているが、時が経てば同じことが繰り返されると想像できる。今回の言動は彼らの見識や歴史認識から出てきたものでその反省がなければ批判が収まったころにまた出てくるからだ。
僕らはここに次のような事態を見なければならない。政治家の見識には歴史認識が関連しており、それは不可欠の関係であるということだ。橋下の見識を疑うような発言には歴史認識がついて回っているのでありそこを見なければならない。これまで従軍慰安婦について保守系の政治家たちはそれを軍の周辺に存在した売春婦の問題として処理する傾向があった。これは戦後にアメリカのGHQが従軍慰安婦の存在の公表を封じてきたことを逆手にとって日本軍隊の旧機関《特務機関など》がその資料を隠し、その実態をつかめなくしてきた結果を反映している。(例えば、田村泰次郎原作の『春婦伝』は映画『暁の脱走』になるとき、GHQからの検閲で大幅に書き換えられた。慰安婦、とりわけその多くが韓国等の半島の出身者であることを伏せるように指示されていたのである)。軍が関与し、その管理などにも関わった施設として従軍慰安所があり、そこに従軍慰安婦がいたのである。軍が関与していたことは明らかであり、それは一般的な売春施設《民間の施設》があって、そこに売春婦がいたということではない。売春一般とは明らかに違うのであり、軍の管理が及ぶ形の性行為の強制があったのだ。これは性奴隷を制度的に存在させていたことなのである。
この事実は認めた上でそれを批判的に、つまりは反省的に考えるのが歴史的な認識である。従軍慰安所と従軍慰安婦の存在は戦後の緒事情で実態が伏せられ、資料などは処分されてしまっているが、想像力を働かせば実態は分かるはずのものである。数少ない資料や軍人の発言でそれは描き得る。
資料が隠匿されたことを受けて従軍慰安婦の存在の事実を歪めてきたのは、その事実を認識することが、中国大陸での戦争の所業《虐殺や強姦など》を明るみにし、戦争や軍隊の批判になるのを避けたいためである。石原慎太郎の「侵略戦争ではなかった」という見解はそれを代表しているし、安倍首相の「侵略は定義しにくい」という発言も同じである。日本が中国大陸で行った戦争は侵略戦争といわずにどのように語り得るか。従軍慰安婦の存在やその実態を隠し強制連行はなかったと主張、その意図の中に中国大陸での戦争を曖昧にしようとする事があるのを見て置かなければならない。戦前の日本の戦争を自衛のための戦争として肯定したいと言うところを根底にした右翼や保守の歴史認識は従軍慰安婦問題を民間の売春の問題にしてしまうことと連なっている。それが最近の発言なのだ。歴史認識は過去のことではない。現在から未来にかかわることなのだ。その意味で橋下が沖縄で軍司令官に提言したとされることは意味深である。要する風俗を現在の性慰安所として使えということであるからだ。恥ずかしい発言と言って笑い過ごすことのできないことがここにはある。さすがに橋下はこの発言の部分は撤回すると言っているが、いくらいいわけをしたところで通用しないことに気がついたのであろうか。風俗の活用と言っても軍が関与すればどういうことになるのかの理解力も想像力も欠如しているのだ。
「当時の軍の規律のためには慰安婦は必要だった」。という発言の方は撤回しないらしいが、言いわけを重ねていけば問題をあやふやにできるということか。この発言が出てきたときに多くの人が驚き批判したのは、これが慰安婦は必要だったということに肯定的なニュアンスを感じたからだ。彼には慰安婦は民間の売春婦という右翼や保守派によって流布されてきた前提があるのだろが、それを差し置いても,戦場では慰安婦のような存在が必要だったというのは、それを肯定的に見ている所があるから出てくる発言だ。多くはその事実を認めても肯定できないために沈黙するか、否定的な発言をする。肯定しようのないことである。橋下は後から慰安婦を認めたことも、肯定したこともないと言いわけし、問題をあやふやにしているが、彼にはその肯定があって必要だったというのがでてきている。ここは彼の人間観や女性観に関わるところでもあろうが、発言を聞いて受け取ったときに印象を忘れるべきではない。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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