安倍政権の外交と教科書問題
- 2013年 6月 11日
- 評論・紹介・意見
- 安倍政権小川 洋教育
狂言には太郎冠者という人物がよく出てくる。短慮からヘマをやらかしたり、主人の留守中に小賢しい悪事をしたりもする。最後は主人に咎められて逃げ惑い、橋掛かりを主人に追われながら退場していくという役回りである。最近の安倍政権はこの太郎冠者にダブって見えてくる。
アジアの近隣諸国と敵対する姿勢から、安倍政権はアメリカ政府と議会から不興を買った。日頃、仲間内で議論している話を、政権に就いても、さしたる緊張感もないまま外向けにも話してしまうのだろう。日本の太平洋戦争中のアジア侵略を謝罪する村山談話や従軍慰安婦問題を反省する河野談話を否定する発言をしたり、集団で靖国神社に参拝したりする。中国や韓国政府から当然のように批判が起きるが、首相は「脅しには屈しない」などと妙に力み返る態度をとった。
ところがアメリカ議会などから批判されると、一瞬でトーンダウンした。その直後に橋下徹氏の従軍慰安婦を正当化する発言が飛び出したわけだが、安倍内閣の豹変に失望した自民支持層の極右部分を自陣営へ取り込むことを狙ったともみえる。しかし、橋下氏の一連の発言がアメリカ国務省ほか国内外の多くの組織からの集中砲火を招き、橋下氏が火達磨となったため、政権としては維新の会と明確に距離を置かざるをえなくなった。少なくとも国際社会に対しては戦争責任を否定するような言動は封印しなければならなくなったのである。主人の目を盗んで悪さを仕掛けた太郎冠者が悪事の露見に慌てふためいている態である。
日本のマスメディアの報道を見る限りでは、安倍政権が前言を翻し、村山談話などの継承を明言したことによって、アメリカ政府の警戒感は解消したような印象が広がっているのだが、アメリカ側の疑念は容易には消せない。「東洋経済」の特約記者P.エニス氏は、「水面下では、日米両国政府の間で緊張が高まっている」として、「国務省が在ワシントン日本大使館の高官を極秘に呼び出し、『歴史』問題をめぐる論争の高まりが原因で、地域の安全保障に悪影響が出かねないという懸念を表明した」と伝えている(5月21日記事)。エニス氏はまた、航空自衛隊の練習機の操縦席に乗った安倍首相の写真にあった「731」の機体番号に、ワシントンのアジア専門家の間に衝撃が走ったとも伝えている。首相が国内の極右に受けようとして、あえて「731部隊」を想起させる番号を選んだと受け止めたというのである。いずれも日本の新聞・テレビのメディアは報道していないが、首相をはじめとする日本の政治家たちの一連の言動に、アメリカ政府や外交専門家たちは神経を尖らせている。
このような動きの陰で、自分たちの置かれた状況が理解できないのか、自民党の国会議員たちが歴史教科書の記述をめぐって教科書会社に陰湿な仕打ちをした。報道によれば5月28日、教科書検定制度の見直しを検討する自民党の部会が国会内で開かれた。議員45人が出席し、教科書会社の編集者などを相手に、南京事件や慰安婦問題の記述を中心に否定的な意見を述べたという。橋下発言の余燼の納まらない時期に、このような会合を開くという政治感覚の貧しさは、救い難いというしかない。
もし彼らの目論見が「成功」し、歴史教科書から南京事件や慰安婦問題の記述が削除されたり表現が矮小化されたりすれば、当然、韓国や中国からの反発を招く。その動きは今回と同様に、アメリカ政府あるいは議会からの批判を呼び、内閣は激しく動揺することになる可能性が高いが、彼らには、そこまで先を読むことができないらしい。
この会合後、自民党の関係者は「学説で確定したこと以外」は教科書本文に記述しないことを参院選挙の公約に掲げたいとも言ったという。教科書検定の基準を選挙公約に掲げるという発想には驚かされるが、学説云々の発言は、一見もっともらしいものに聞こえるかもしれない。しかし大江裁判を想起すれば、それが何を意図しているのか想像がつく。
大江裁判を簡単に振り返っておこう。沖縄戦における住民の集団自殺を指示した責任者として大江健三郎氏の著作に名前を挙げられた人物や遺族が、2005年に大江氏と出版社の岩波書店を名誉棄損などで訴えた。原告となった人物は当時の指揮官であり、訴訟時には88歳になっていた。彼が生き残ったのは、多くの一般住民を犠牲にした戦闘から逃れて慰安婦の手を引いて米軍に投降したからである。戦後は、いわば生き恥を晒しながら生きてきた人物である。これを、自民党議員でもある稲田朋美氏らが説得したのであろう、彼女自身が弁護士役を買って出て訴訟を起こした。本人はともかく、家族にしてみればいい迷惑であっただろうが、稲田氏たちはこの老人を政治利用したのである。裁判は最高裁まで争われたが、当然のように下級審から一貫して大江・岩波書店側の勝訴であり、2011年の最高裁判決で最終決着をみた。
稲田氏は、「百人切り」訴訟にも関係している。日本軍の南京攻略時、二人の日本人将校が日本刀で中国兵捕虜や農民を殺害し、その数を競ったことを報じた記事を掲載した新聞社や、この事件を著作で取り上げた本多勝一氏らを相手取って、2003年にやはり名誉棄損で遺族らが提訴したものである。稲田氏は原告の弁護士として、「日本刀は3人も切れば使い物にならなくなる」など、稚拙な弁論を展開したが、これも2006年には最高裁で原告側の全面敗訴に終わっている。
大江裁判はノーベル賞受賞者を巻き込んだこともあって社会的にも大きな注目を浴びたが、その裏側で文科省の見逃せない動きがあったことはあまり知られていない。当時の教科書検定官が、この訴訟を根拠に「学説が定まっていない」として、集団自殺に軍の関与があったとの記述の削除を指示していたのである。稲田氏は「自虐史観」追放にもっとも熱心な議員の一人であり、安倍首相とも近い関係にある。今回の部会にも関わっているはずである。もっともらしい証言や史料を一つでも拾ってくれば、「まだ学説は確定していない」と主張でき、彼らが不都合とする記述を教科書から抹殺できると考えているのだろう。
この小賢しさと愚かしさは、まさに太郎冠者のそれである。劇中の太郎冠者は憎めない人物なのであるが、現実政治では笑っているわけにはいかない。この政権は、頭のてっぺんが粗雑な右翼的イデオロギーに染まっていて、自らの攻撃性を抑えることができず、また日本の国際的な立ち位置も理解できないようだ。参院選挙で自民党が圧勝するようなことがあれば、彼らは仲間内の議論を外に向けて、さらに大きな声で主張するようになるだろう。その時、日本の右傾化の最後の歯止めはアメリカ政府や議会という奇妙な力学が可視化されることになるかもしれない。日本国民の良識が参議院選で問われている。
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