現代史研(直前情報)とレジュメ―北一輝と二・二六事件
- 2013年 7月 3日
- スタディルーム
- 2.26事件北一輝古賀暹
2013.6.13現代史研究会レジュメ
北一輝と二・二六事件 古賀暹
年表
明治16年(1883年) 4月3日誕生
明治34年)(18)5月 上京、幸徳秋水らと会う。研究の開始
明治37年 (21) 夏 上京。研究開始。
明治39年(23) 5月 『国体論及び純正社会主義』自費出版 発禁
11月 宮崎滔天の勧誘により「革命評論」同人となる
12月 中国同盟会に入会。神田錦輝館で演説(通訳 張継)
明治40年(24) 2月 孫文の日本追放。宗教仁と親交。
明治43年(27) 5月 大逆事件の検挙始まる
7月 北も拘留。
明治44年(28) 10月 武昌にて辛亥革命始まる。
11月 宗教仁の招請で上海へ(黒龍会の援助)
大正元年(29) 1月 中華民国成立。 南京。
大正2年(30) 3月 宗教仁暗殺される。
4月 上海日本総領事より、3年間の中国よりの退去命令
5月 帰国。
8月 中国第二革命の敗北。亡命客集まる。(張群)
大正3年(31) 7月 第一次大戦(北は米英側への参戦ではなく、反米英を主張。中国では中国の米英側に立つ参戦に反対して、参戦反対を掲げた第3革命運動が起こるが敗北)
譚人鳳来日。
大正4年(32) 1月 大隈重信「対支21か条の要求」
2月 譚人鳳、大隈会談
大正5年(33) 4月 『支那革命外史』後半完成。
6月 上海に渡る
大正8年(36) 5月 5・4運動
8月 国家改造法案(国家改造原理大綱)執筆
大川周明、上海に渡航。改造法案を持ち帰る。
12月末 帰国。猶存社に入る。
大正12年(40) 2月 猶存社解散
5月 『改造法案』出版。「ヨッフェ君に訓ふる公開状」
大正14年(42) 8月 安田共済生命事件(大川との対立決定的)。西田税北の門下に移る。
大正15年(43) 5月 「改造法案」(第三回公刊頒布に際して告ぐ)。西田税編集兼発行人
昭和2年(44) 7月 西田税『天剣党規約』を配布。
昭和5年(47) 9月 橋本欣五郎ら桜会を結成
昭和6年 (48) 9月 満州事変
10月 十月事件
昭和7年(49) 2-3月 血盟団事件(井上準之助、団琢磨暗殺)
5月 5.15事件、西田税事件派によって狙撃される
昭和8年(50) 救国埼玉挺身隊事件発覚。栗原安秀、西田税に止められる。
昭和9年 (51) 11月 士官学校事件(村中孝次大尉、磯部浅一一等主計逮捕される)
昭和10年(52) 6月『日米合同対支財団の提議』執筆、頒布。
7月 真崎甚三郎教育総監更迭
8月 永田鉄山軍務局長を相沢三郎中佐が斬殺
北は中国訪問を考える。(外務部長張群)
12月 相沢中佐の公判に向けて準備(第一回公判1月28日)。弁護人 鵜沢聡明 政友会を離脱して臨む。
昭和11年(53) 2・26事件
はじめに
北一輝研究を始めた動機と方法
イ、「張群は『日本の平和民主化が一応の形を整えた』ことをみとめながら、『心理と詩想の改革こそ困難』なことを指摘し、、、、、『この二つは、平和民主日本を保証するだけでなく、日本と他の民主国家とが合理的な関係を再建するのに必要な保証にもなるものである』」と要約し、それに続けて、「張群が『思想革命と心理建設』の必要を説いているのを、私は、日本文化の根本にふれた批評だと思い、かつこれこそ中国国民の総意であると思った」(竹内好『日本とアジア』ちくま学芸文庫、59)と張群の意見に全面的に賛意を表明
ロ、「二月二十六日の朝のことである。当時上目黒駒場の私の家の玄関の鍵のかかった
ガラス戸をぶち壊すようにガンガン叩く者がある。寒さにふるえながら玄関の戸
をあけてみれば、杉田省吾がころげるようにしてはいってきた。いつもユッタり
していた彼が、オーバーの雪も払おうともせず、帽子もとらず、『とうとうやった
よ。すぐ一緒にきてくれ、そのままでいいから』と、私の外出をせきたてるのだ。」
ハ、二・二六事件をファッシズム運動だったという視点から北を捉えるのではなく、北の理論の発展から捉える。不惑一貫。
第一部 北一輝の理論の基本骨格
【一】社会有機体論に基づく国家論―実在の人格としての国家と個人の独立
1、草食動物の群れからの出発
「今の生物進化論者にして生存競争を個人間或は個々の生物間のこととのみ解するならば、個々としては遥かに弱き菜食動物が肉食動物に打ち勝ちたる所以も解せざるべく、野馬が其の団結を乱さざる間は一頭と雖も他の猛獣に奪わるること無しと云ふが如き無数の現象を説明する能はざるべく、牙と爪と有せざる人類は原人時代の遠き昔に於て消滅したるべき理にあらずや。」(第一巻108)
2、原始共産制(同化と分化)
「最も原始的なる共和平等の原人部落に於ては全く社会的本能によりて結合せられ政治的制度なき平和なりしを以て政権者なるものなかりき」。(243)
「国家は長き進化の後に法律上の人格たりしと雖も、実在の人格たることに於ては家長国の時代より、原始的平等の時代より、類人猿より分かれた時代より動かすべからざる者なりき。」(238)
「堯舜の時代とは、、、、、食物の特に豊富なりしが為めに平和に平等に些かも闘争なく生活したるなり。、、、、、堯と云ひ舜と云はる々如く柔和なる赤子の如き人物が村老ほどの地位に立ちて簡単な事故を処したりしものなり」(424)
「この時代は後世の私有財産制度に入り君主が土地人民の凡ての上に所有権者とならざる部落共産制の原始時代として、本能的に国家の生存が目的とせられ其の目的の為めに素朴なる一時的なる機関が生ずるに至りしなり。」(422)
3、所有される実在の人格である国家(同化と分化による他国家の吸収と新たな分化)
「社会の進化は同化作用と共に分化作用による。小社会の単位に分化して衝突競争せる社会単位の生存競争は、衝突競争の結果として征服併呑の途によりて同化せられ、而して同化によりて社会の単位の拡大するや、更に個人の分化によりて個人間の生存競争となり、人類の歴史は個人主義の時代に入る。」(119)(註1)
「然るに長き後の進化に於、大に膨張せる部落の維持を祖先の霊魂に求めて祖先教時代に入るや(如何なる民族も必ず一たび経過せり)祖先の意志を代表する者として家長がまず政権に覚醒し、更に他部落との競争によりて奴隷制度を生じ土地の争奪の始まるや、実在の人格ある国家は土地奴隷が君主の所有たる如く、(君)主の所有物として君主の利益の為に存するに至れり。」(243)
「各員の独立自由は一切無視せられて部落の生存発達が素朴なる彼等の頭脳に人生の終局目的として意識せらるるに至れり。― 斯の意識は原人の無為にして化すと云はるる無意識的本能的社会性が、生存競争の社会進化によりて実に覚醒したる道徳的意識として喚び起されたる者に非ずや。漁労時代遊牧時代の殺伐なる争闘を以て道徳なき状態なりと速断する如きは幼稚極まる思想にして、この部落間の争闘の為に吾人は始めて社会的存在なることを意識するを得たるなり。」(118)
4、分化の進展による個人の独立と近代国家
「アリストーツルの国家の三分類を形式的数字の者に解せず之を動学的に進化的に見るならば、君主国とは第一期の進化に属す。而して貴族国とは此の政権に対する覚醒が少数階級に限られて拡張せる者と見るべく、民主国とは更に其の覚醒が大多数に拡張せられたるものにして第三期の進化たりと考へらるべし。」(244)
「日本国も亦等しく国家にして古代より歴史の潮流に従ひて進化し来りたる国家なるが故に、如何に他の国家と隔離せられたることに由りて進化の程度に多少の遅速ありしとするも、独り全く国家学の原理を離るゝ者に非らず。」(244)
5、世界連邦と近代の倫理
「人類は其の歴史にはいりてより生存競争の内容を進化せしめて止まず」(111)[人類の過去及び現在において異人種異国家間の生存競争が戦闘によりて行はれ来れしとするも(それは)其れだけのことにして、人類の進化と共に人類の生存競争の内容が更に進化して他の方法にて優勝を決定するに至るべきや否やは別問題なり。社会主義の戦争絶滅論は生物種族の進化に伴ひて、他の生物種族に対して完き優勝者たらんが為めなると共に人類単位の其れに到達するまでに、生物種族は進化に伴ひて競争の内容を進化して行くと云ふ他の理由によりて国家競争を連邦議会の弁論に於て決するに至らしめんとする者なり。」(110)
「社会主義者の戦争絶滅は世界連邦国の建設によりて期待し、帝国主義の終局なる夢想は一人種一国家が他の人種他の国家を併呑抑圧して対抗する能はざるに至らしむる平和にあり。」(111)(この発言が北一輝と石原莞爾、大川周明らの世界最終戦争論や、東条英機らの対中戦争論根本的な分水嶺を形成するものであるが、それは別の機会において論ずることとする)
「社会主義の世界主義たる所以は茲にあり。個人の自由を認識する如く国家の独立を尊重す、而も其の個人主義の自由の為めに国家の大我を忘却し、其の国家の独立の為めに更に世界のより大なる大我を忘却することを排斥するなり。」(123)
「個人の権威を主張する私有財産制の進化を承けずしては社会主義の経済的自由平等なき如く、国家の権威を主張する国家主義の進化を承けずして万国の自由平等を基礎とする世界連邦の社会主義なし。」(434)
【二】天皇機関説
1、美濃部天皇機関説と北一輝の機関説(「綜合人」と「実在の人格」)
美濃部
「我が国体が其の歴史上の基礎に於て欧州の諸国と同じからず、国民の忠君愛国の
信念が欧州の国民と同日に論ずることを得ざるは固より論なし。然れども…、今日
の法的顕象に於て我国の国体は決して欧州の立憲君主国と其模型を異にするものに
非ず。独乙の国法学者が統治権の主体に付て説明せる所は、我国の国法に於て亦等
しく適用せらるべき所なり」(「君主の国法上の地位」)
「抑憲法は我国歴史の産物に非す、憲法以前の我国の歴史は嘗て国民
の参政権を認
めたることなし、我国の憲法は専ら模範を欧州近世の憲法に取る、明白なる反対の
根拠あらざる限りは、欧州近代の立憲制に共通なる思想は亦我憲法の取りたる所な
りと認めさる可からす。」(君主の大権を論じて教えを穂積博士に請う)
北一輝
「日本国のみ特殊なる国家学と歴史哲学(傍点)とによりて支配さるると考ふること
が誤謬の根源なり。謂うまでもなく人種を異にし民族を別にするは特殊な境遇による
特殊の変異にして人種民族を異にせる国民が其れぞれ特殊の政治的形式を有して進
化の程度と方向とを異にせるは論なきことなりと雖も…、些少の特殊なる政治的形式によりて日本国のみは他の諸国の如く国体の歴史的進化なき者の如く思惟するは誠に未開極まる国家観にして、以然たる尊王攘夷論の口吻を以て憲法の緒論より結論までを一貫するは誠に恥ずべき国民なり。」(二二六)
「社会の進化の跡を顧みよ。社会はその進化に応じて正義を進化せしむ。河流は流れ行くに従ひて深く廣し、歴史の大河は原人部落の限られたる本能的社会性の泉よりして、社会意識の奔流となりて流る――人類の平等観これなり。」(四九)
美濃部―天皇を最高機関とする君主政体
北一輝―「一人の特権者と平等の多数者」を最高機関とする民主政体
2、民主主義の首領としての天皇
万世一系の天皇という言葉の北の解釈(未来規定なのだ)
「日本民族も古代の君主国より中世史の貴族国に進化し以て維新以後の民主的国家
に進化したり。――而して現天皇は維新革命の民主主義の大首領として英雄の如く
活動したりき。『国体論』は貴族階級打破の為めに天皇と握手したりと雖も、その天
皇とは国家の所有者たる家長と云ふ意味の古代の内容にあらずして、国家の特権あ
る一分子、美濃部博士の所謂広義の国民なり。即ち天皇其者が国民と等しく民主主
義の一国民として天智の理想を実現して始めて理想国 の国家機関となれるなり。」
(354)
「『天皇』と云ふとも時代の進化によりて其の内容を進化せしめ、万世の長き間にお
いて未だ嘗て現天皇の如き意義の天皇はなく、従って憲法の所謂『万世一系の天皇』
とは現天皇を以て始めとし、現天皇より以後の直系或は傍系を以て皇位を万世に伝
ふべしと云ふ将来の規定に属す。憲法の文字は歴史学の真理を決定する権なし。従
って『万世一系』の文字を歴史以来の天皇が傍系を交へざる直系にして、万世の天
皇皆現天皇の如き国家の権威を表白せる者なりとの意義に解せば、重大なる誤謬な
り。」(361)
3、天皇と議会が衝突した場合。(松本清張の解釈)
「天皇と帝国議会とが最高機関を組織し而もその意志の背馳の場合に於て之を決定
すべき規定なきに於ては法文の不備として如何ともする能はざるなり。」(364)
この発言を引用し、北一輝をどうしても天皇主義者に仕立て上げねば気がすまな
い松本清張は、「北は天皇の絶対権を認めたのであり、天皇の「神聖不可侵」を承
認した」と述べているが、私にはこの松本の発言は全くといってよいほど理解不可
能である。
第二部 中国革命から日本改造へ
【一】中国革命の挫折と改造法案
1、孫文との対立―実在の人格としての国家
2、日本の中国進出と民族革命路線
3、改造法案-補足的ブルジョア革命としてのクーデター
【二】改造法案路線の挫折と第二次大戦の予兆
1、大川周明との決別の意味
2、西田税との二人だけの党
当初のガリ刷りのごく少数に配られたものや、第二版は、北の思想を理解させ普及させるというよりも、これに賛同するもの集まれという姿勢であった。第二版の際の「凡例」においてはそれが顕著であった。「前世紀に続出したる誤謬多き革命理論を準縄として此の法案を批判するもの歓ぶ能ず。・・・・第20世紀の人間は聡明と情位を増進して、「然り然り」「否な否な」にて足るものべからず。」とあり、討論や説明を拒否する姿勢で貫かれていた。ところが、大川・西田との訣別以降の西田版では、北は『第三回公刊に際して告ぐ』なる一文を北は書き加え、なぜ、「改造法案」執筆にいたったのかという心情や個人史を書き記している。そればかりか、さらに、『国体論及純正社会主義論』と『支那革命外史』の序文を収めて、その理由についても次のように言っている。
「而して此の二著の序文だけにても収録した理由は、理論として二十三歳の青年の主張論弁したことも、実行者として隣国に多少の足跡を印したことも、而して此の改造法案に表はれたことも20年間大本根本の義に於て一点一画の訂正なしという根本事の了解を欲するからである。」
私は、『告ぐ』を執筆し、西田税に版権を譲った時点で、北の『改造法案』の扱い方に、大きな変化があったと考えている。大川や満川にそれを示した時点では、日本の「同志」たちには、一定程度、この法案を理解してもらえるだろうという楽観的な見通しが存在していたが、彼らとの訣別に及んで、日本人の思想の変化に気づかざるを得なかったということだ。自分の思想は日本においては孤立している、したがって、それに基づいて『国家改造』を行おうとすれば、既成の人々との共同によって行うことは不可能である、自らの思想の普及に努め、その力によってなさなければならない。それには、時間がかかるかも知れないが、その道を進もう。北一輝は、かなり自分よりも年少の西田税との出会いの中で、こうした方向へと転換したのである。元騎兵少尉の西田の若き情熱が、北と触れ合い、内部に潜んでいた彼自身の若き日々を思い起こさせていた。
「『国体論及純正社会主義』は当時の印刷で一千頁ほどのものであり且つ二十年前の禁止本であるが故に、一読を希望することは誠に無理であるが、其機会を有せらるる諸子は『国体の解説』の部分だけの理解を願いたい。右傾とか左傾とか相争ふことの多くは日本人自らが日本の国体を正当に理解して居らぬからだと思ふ。この著者はそれを閲読した故板垣老伯が著者の童顔を眺めて、お前の生まれ方が遅かった、この著述が二十年早かったならば我が自由党は別な方向を取って居ったと遺憾がられたことがあった。」
3、日米合同財団による対中路線
「不肖嘗て海軍の責任者に問ふ。対米7割の主張は良し。若し米国海軍に英国の海軍を加え来る時、将軍等は能く帝国海軍を以て英米二国の其れを撃破し得るかと。答て曰く、不可能なり。一死を以て君国に殉ぜしめんのみと。不肖歎じて独語すらく、君国は死を以て海軍に殉ずる能はざるを如何にせんと。」
「日本の対外策が品行方正なりし時代は満州事変上海事変以前のご令嬢方をもって終
わりと致候。、、、、元亀天正の国際渦中に突入したる今日、日米婚家修好して四海波静
かなるや否やを疑うや何ぞ」
【三】2・26事件
1、国家改造へ向けた三路線
イ、幕僚と大川周明
「大川周明或はこれに従ったものの思想は、ファッショ的思想濃厚であると思われ
るし、われわれの反対するところだ。」 「幕僚ファッショなるものを(は)、日本本
来の国体観を持つことが出来ず、外国への留学等に於て、ナチス、ファッショなど
の政治形態への共鳴から、日本にこれを移植しようとする浅薄な思想をもっている
ものもある」。永田鉄山、岡村寧次、小畑敏四郎(ただし、彼の場合は満州問題で東
条と対立し皇道派に分類されている)、東条英機ら。
ロ、井上日召と若手将校(テロリズム)
「5・15事件於ては、明きらかに吾々青年将校の有する思想と、それに非らざ
るファッショ思想が混在している。即ち、五・一五事件の被告中の陸軍士官候補
生の如きは明らかに、われわれの思想であるが、大川周明或はこれに従ったもの
の思想は、ファッショ的思想濃厚であると思われるし、われわれの反対するところだ。」
ハ、北一輝と若手将校
「はっきり云うふと、今日に資本主義経済機構は明瞭に否定する。今日迄の所謂
資本主義経済組織、明治維新の時に取り入れられた富国強兵の資本主義といふも
のは、、、今やその役目を果し段々破綻して、何等かの新しい形式に移りつつあ
る、、、。だが、今日に資本主義の組織権力といふものを根抵としている統制経済主
義には明瞭に反対だ。我々は今日の資本主義組織といふものを打破するために、
すくなく共、大資本、私有財産、土地の三つの因子に、、、根本的修正を与へなけ
ればならぬ。先ず大資本を国家の統一に帰する、私有財産を制限する、土地の所
有を制限する。この三つである」。
2、長期的展望と第二次大戦回避路線
イ、天剣党規約
『天子皇室より国家改造の錦旗節刀を賜うと考ふるが如きは妄想なり。要は吾党革命精神を以て国民を誘導指揮して、実に超法規的運動を以て国家と国民とを彼等より解放し-彼等が使用妄便する憲法を停止せしめ、議会を解散せしめ、我党化したる軍隊を以て全国に戒厳し、、、正義専制の下に新国家を建設するにあり、、、、。」(現代史資料4,37)
「軍隊は国家権力の実体なり、故に一面之を論すれは国家を分裂せしめんと欲せは軍隊を分裂せしむべく国家を奪わんとすれば軍隊を奪うべき理、軍隊の革命が国家其の者の革命なりとか此の謂なり。,、、、吾党同志は其の軍隊に在ると否とを問わず軍隊の吾党化に死力を竭くすべく又同時に軍隊外に於ける十全の努力を以て国民の吾党化を期すべし。是の如くして天剣党は一般国民及軍隊の吾党化協同団結を以て日本国の更正飛躍を指揮し全国に号令せむことを期す。」(同右)
3、士官学校事件と真崎罷免から相沢事件
4、2・26事件の奇妙な性格
イ、青年将校たちの思想状況―天皇親政論と決起主義
大岸頼好 「皇政維新法案大綱」 不当存在の除去―「大命降下」― 一君万民の天皇親政社会
末松太平の『私の昭和史』には、この「維新法案」を手に入れた西田税が、「『皇国維新法案』を一冊を、たまたま西田のところへ来ていた渋川善助(註①)の前に突きつけ、「これは一体誰が印刷したんだといって、えらい剣幕でつめ寄った」という話が出ている。同書の同じ箇所で末松は、大岸が『改造法案』には「骨が粉になっても妥協できない三点がある」と言ったと記しているし、また、遠藤友四郎は『日本改造法案大綱』をしばしば「赤化大憲章」と表現していたと続けている。
磯部浅一
「陛下 日本は天皇の独裁国であってはなりません 重臣元老、貴族の独裁国である
も断じて許しません もっとワカリ易く申上げると 天皇を政治的中心とする近代的
民主国家であります 左様であらねばならない国体でありますから、何人の独裁をも
許しません 然るに、、、天皇を政治的中心とせる元老、重臣、貴族、軍閥 政党 財
閥の独裁国ではありませぬか いやいや よく観察すると この特権階級の独裁政治
は 天皇さへないがしろにしているのでありますぞ 、、、、ロボットにし奉って彼等が
自恣専断を思ふままに続けておりますぞ ,、、陛下 なぜ もっと民を御らんになりま
せんか 日本国民の九割は貧苦にしなびて おこる元気もないのでありますぞ」(同2
88)
ロ、「妥協」の産物としての「要望書」路線
「要望事項」には、「事態を維新廻転の方向」に導くこと、「天聴に達しせしむる」こと、などとともに、「兵馬の大権を干犯したる宇垣朝鮮総督、小磯中将、建川中将の即時逮捕。軍権を私したる中心人物、根本博大佐、武藤章中佐、片倉衷少佐の即時罷免。」などが謳われていることが特徴的である。つまり、具体的には、軍部内部の統制派的人材の一掃によって、その改革を図り、天皇には維新への号令を発してもらうことによって国民意識の改革に着手しようとするわけである。
こうした「要望事項」を見ていると、二・二六事件というものは、クーデターの敗北というよりも、陸軍内部の全共闘闘争という面が浮かび上がってくる。なぜ、彼らは皇居を占拠し、革命委員会なり臨時革命政府を樹立しなかったのかなどという疑問が湧いて出てくるが、皇居占拠どころか彼らは陸軍省や参謀本部の掌握でさえも考えることができず、ただ単に、陸軍大臣にお願いしているだけなのである。註 この点で磯部が、「余の作製した斬殺すべき軍人には林、石原(莞爾),片倉(衷)、武藤(章)、根本(博)の五人であった」(248、獄中手記)と記しているのは注目されるが、それは反乱軍の統一方針にはならず、「要望」路線に繰り込まれてしまっている。
村中孝次
「我国体は神に万世一系連綿不変の天皇を奉戴し、この万世一神の天皇を中心とせる全国民の生命的結合なることに於て、万邦無比と謂はざるをべからず、我国体の真髄は実に茲に存す。」と彼が述べていることからしても、天皇神格化論的傾向は強いが、奸臣を除去すれば天皇親政が実現されるといった単なる「親政」論者ではなかった。彼は二・二六における決起を「昭和維新」への「前衛戦」と位置づけ、本隊を陸軍とみなす。本隊である陸軍が賛同すれば、陸軍そのものが維新に入り、国民が賛同すれば国民自身の維新となり、「而して至尊大御心の発動ありて、、、日本国家は始めて維新の緒に」に就くというのが、極めて抽象的であるが、「蹶起」成功後の青年将校全体の統一的な方針であったと考えられる。
ハ、二段階革命路線
これは、西田の天剣党規約の路線や北―西田の公判闘争路線とのある意味での妥協でもある。陸軍全体の取り込みから国民全体へ。「陸軍一家」中心主義。渡部教育総監に対する殺害意志のなかったこと。軍事参事官会議に下駄を預けていること。
「この次に来る敵は今の同志の中にいるぞ、油断するな、似て非なる革命同志によって
真人物がたほされるぞ 革命家を量る尺度は日本改造方案だ 方案を不可なりとする輩
に対して断じて油断するな たとひ協同戦線をなすともたへず警戒せよ」(磯部浅一)
『二・二六事件青年将校安田優と兄・薫の遺稿』 出版記念シンポジウム
主催 現代史研究会・社会運動史研究会・同時代社
刑死した青年将校安田優、反乱へと向かう精神の軌跡──その全資料と事件における被告人訊問調書、第十五回公判調書、東京軍法会議議決書など収録。さらに、左翼運動体験者の兄・安田薫が、弟への鎮魂の意をこめて書き残した、中国で体験した「敗戦の現場」の記録は何を語るか。下記の要領で、出版を記念してシンポジウムを開催いたしますのでご案内します。
記
日 時:7月13日(土)午後1時30分~5時
場 所:明治大学リバティータワー 1093教室(9F)
資料費:500円
開会・司会:由井 格 本書発刊に至る経緯
報 告 :古賀 暹 「北一輝とは何だったか」
北一輝の思想とその時代はどのようなものであったか。
二・二六事件青年将校と北-西田たちの微妙な関係に光をあてる。
早すぎた蜂起と「二人だけの党」。
発 言 :安田善三郎 二人の兄の遺稿を整理した者として
:三 上 治 書評者の立場から
問い合わせ先
同時代社 高井
〒101-0065 東京都千代田区西神田2-7-6
tel.03-3261-3149 fax.03-3261-3237
doujidai@doujidaisya.co.jp
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〔study586:130703〕
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