六0年安保の闘いを引きずって 生涯を中小労働運動に
- 2010年 10月 4日
- 評論・紹介・意見
- 60年安保闘争労働運動日本共産党特集:安保50周年由井格
労働者の共済生協に就職
1958年秋の警察官職務執行法(警職法)の改訂反対闘争は、助走段階なしでのいきなりの展開となったが、「オイコラ警官の復活反対」という国民感情を背景に一気に盛り上がり、10.4のゼネストでとどめをさし、ひとまず岸戦犯内閣を打ち砕くことができた。運動の中では、第二の治安維持法ともいえる警職法の改訂は阻止できたが、岸内閣と日本資本主義は、60年の安保改訂=日米軍事同盟の強化をめざしており、われわれはそれを阻止するために、次の段階に対応できる体制構築にかかるべきだという方向が提示された。
警職法反対闘争が一区切りついた時点で、中央大学自治会は、その闘争の総括と、来るべき安保闘争への意思統一をかねて、箱根仙石原の萬岳楼で、全自治委員を対象とした討論合宿を行った。講師は当時の日本共産党神奈川県委員長の中西功さんにお願いした。その理由は、中西さんは対米従属論一途の党本部主流とは異なり、日本独占資本は帝国主義的自立をめざしており、革命の性格は社会主義革命であると主張されていると、われわれが判断したことによる。
砂川闘争や6.1事件(全学連大会に出席の党員グループ会議を党本部で開催、党中央代表はつるしあげられ、中央委員会不信任を決議。学生対策の津島本部長等が暴力を受けた事件)以後、学生細胞に対する党本部の監視は強まり、特に全学連主流に近い細胞や党員に対しては、地区委員会や都委員会を飛び越した指導や介入が行われた。党中央は、6.1事件とともに、法政大学第一細胞が10.4の警職法反対の労働者の統一ストにあたって、都内で配布した「労働者は武器を持って起ち上れ」というビラの「武器」という表現をストライキという意味ではではなく、文字通り武器と判断して法大細胞の指導部を除名処分にし、それに従うよう千代田地区委員会傘下の学生細胞に押し付けてきた。さらに、私が所属していた中央大細胞や自治会を例に上げると、58年に学内改革をめざした昼夜両自治会の共同ストライキが企画され、クラス討議でも確認されたが、ストライキは運動の巾をせばめるという昼間部の一部党員の意見に便乗したOB党員と党本部学生対策部の介入が行われ、「活動者会議」なるものが招集された。そこでは、スト決行派の委員長(由井)と共闘担当の中執、AG(反戦学生同盟)の二、三人の活動家に非難が集中し、つるしあげが行われた。自治会の機関決定はその圧力で覆され、その結果、二部(夜間部)自治会だけのスト突入となり、孤立した闘いの末、指導部が処分されるという大きな打撃を受けた。
その当時の二部自治会の指導部は、社会党員と共産党員によって構成されていたが、その後の60年安保闘争では、ハガチー事件、アイク訪日阻止闘争で大きな役割をはたすことになり、さらにその後、生協運動でも大きな足跡を遺している。
箱根仙石原の合宿のねらいは、党や誤った権威から自立した運動をどうつくるか、後を託す人たちが自らの思考に依拠して物事を決めて行く契機になれば、という私の思いもあったといえる。異端者とも見られていた中西さんにお願いしたのも、新しい段階に突入した日本資本主義に対し、われわれはどのような視点を確立するべきかという伏線を持ってのことであった。
なお、これまた後日談になるが、この後を引き継いだ中大の活動家の諸君は、59年末から
60年にかけてブントに加入し、その後は諸派に移り、今日も活動を続けている人が多い。
59年2月の役員改選で、私は退任し卒業、就職することにし、3月15日創立2年目の労働者の共済生活協同組合である「東京労済」の就職試験を受け、オルグとして採用された。
東京労済は、労働者の相互扶助を目的とした組織で、日本生協連の都連、東京労働金庫、東京地評(東京地方労働組合評議会)、都内の中立系の労働組合が57年春に創設した生協である。このような事業体組織は大阪・新潟等数府県で先行していたが、法的根拠を生活協同組合法に基づいて設立されたのは東京が全国で初めてである。
東京労済への応募、就職した契機はいくつかあるが、主なものは、中大の何人かは、明大、法大の党員と同様、千代田地区委員会(委員長は中西三洋氏・中西功さんの末弟)の要請もあり、千代田地区労支援の活動や原水協の働き手を務めていた。その上、U君と私は当時の区内の共産派と革同派の労働組合活動家で構成していた「千代田労懇」にも顔を出していた。そんな関係で、東京原水協の事務局の仕事を手伝うことになった。当時東京原水協の事務局(事務局員は法大の服部君)は東京地評会館に置かれており、学生運動の合間には地評に顔を出すことも多く、芳賀事務局長や常任幹事、書記局のメンバーと顔見知りになっていた。そんなわけで推薦、身元保証人は、芳賀地評事務局長、稲村明喜原水協事務局長(全金東京)、草野幹事(全日通)に引き受けていただいた。
労働者共済のオルグとして、共闘組織も担当、59年4月1日から勤務ということであったが、仕事を早く覚えるために3月20日頃から出勤した。当時の東京労済の事務所は、港区田村町の労金会館に置かれていた。この建物は元全自動車の会館であったが、長期闘争の敗北後、労働金庫が引き取ったものであった。住人は労働金庫協会、日本生協連、労済連(現全労済)中央福対協(現中央労福協)、労住協、東京労済、等々で、今日でいうその労働者福祉運動の事業体の総本山的役割を果たしていた。
59年3月末から私の勤め人生活ははじまったが、当時私は千代田地区労の要請により闘争中の永田町グランドホテル労組(全国一般)の職場占拠に加わっており、泊り込み要員の一人だったので、この高級ホテルから職場に通うことになった。(この争議は、首相官邸の脇で、安保まで持ち越させるわけには行かないという、経営者、政府、暴力団、警察の弾圧によって終結させられた)
警職法反対闘争を闘った東京の労働団体は、前年に結成された警職法反対共闘会議を、来るべき安保闘争に向けて、「平和と民主主義を守る東京共闘会議」として再編成し、59年2月20日に発足させていた。オブザーバーを含めて31団体で構成し、11の常任団体と、社共両党のオブザーバー参加によって運営されることになった。私の就職先の東京労済は、東京労働者福祉団体連絡協議会(東京福祉連=現東京労福協)の構成員であり、その共闘組織の常任団体に選定された。東京福祉連の事務局は東京労済に置かれ、4月よりその担当書記を私が兼任することになり、東京共闘会議に参加することにもなった。
その後3月28日には、総評の呼びかけに呼応した13団体を軸に「安保改訂阻止国民会議」が結成された。国労会館での結成大会には地方代表を含めて約600名が結集し、4月15日には第一次中央行動が展開された。
しかし、統一行動を展開してみて、思うように運動は拡がらず、誰と無く「安保は重い」という言葉が発せられるようにもなった。その上もう一つやっかいな問題が表面化してきた。59年6月25日の第三次統一行動のスローガンに、東京共闘会議は「岸内閣打倒」を加えるように主張したが、少数意見として処理された。さらに7月の国民会議の幹事会では、共産党、原水協、平和委員会等の反対で決定されなかった。反対理由は、岸内閣打倒という政治的スローガンをかかげると、安保反対という一点で結集して来た人たちが参加しなくなる。原水協などに加わっている自民党系の人たちが参加しにくくなるというものであった。以下この種の論争は、11月10日の日本共産党機関紙「アカハタ」に安保闘争スローガンの一つとして「アジア人民の敵、売国と反動の元凶岸内閣打倒」がかかげられるまで続いた。ところがこれで一件落着したわけではなかった。11.27の「国会突入」の評価をめぐって共産党やその影響下にある団体と、東京共闘との対立はますます深まっていった。さらに年明けの岸渡米阻止闘争では、いったん決まった動員計画と「配置」までがひっくり返されることになる。これには宮本顕治と太田総評議長がかんでいる。なおこれらのことを含めて、日共本部(主流)と東京共闘会議の対立・闘争・党の介入経過については、東京共闘会議の事務局次長であり、岩垂総評書記と共に、安保闘争を実質的に組み立てた竹内基浩東京地評書記の遺稿<「六〇年安保」を労働者はいかに闘ったか>(社会評論社)に詳しい。
さて、東京共闘会議は「重い安保」という軛を断ち切り、併せて、闘いの足枷となる「幅広共闘論」の克服をめざして、7月の第四次統一行動を前に、闘いへの意思統一のために7月16~17日箱根で討論集会を開催した。この討論集会への参加は、私にとってはじめての泊り込みの出張であった。東京労済の職員でもあり、福祉連の書記でもあるから、まさか手ぶらで参加するわけにも行くまい、という思い込みで手作りの資料を持って出かけた。内容は、今後の闘いのことを考えると、企業内組合ということがガンとなる。企業内外の労働者を分断している要因の一つは、個別企業で実施している「企業内福祉」であり、それに対する闘争を拡げ、企業、組合を横断する労働者自身の福祉活動に取り組もう、という提案だったと記憶している。しかしながら印刷物の汚さと、当時としてはトッピもない提起だったためか、全然問題にされなかった。但しこの提案は、60年安保闘争の一段落後東京地評オルグによっても取り上げられ、後の合同労組運動や産別ごとに統一的な共済制度を活用しての横断的組織づくりに生かされることになった。
労務管理の一手段・企業内福祉との闘い
3月末から仕事につき、まず共済事業の内容と事業の流れを覚え、それがすんだらいよいよ外に出ることになった。普通の会社ならさしずめセールスということだが、労済の非常勤役員(東京地評の常幹や、中立系組合の幹部、生協等事業団体の役員)や、専従役員の兵站部の活動と位置づけていたので、組合まわり、外まわりの職員を「オルグ」と呼ぶようにしていた。そして、特に59年3月労働組合活動の経験者3名(都職員・国鉄のパージ者、民間の職人組合の書記)と、4月の学卒者2名(東外大の生協役員と私)に加え、それ以前に採用していて共済事業に詳しい20才前後の職員2~3名を加えて4月から「組織部」をつくり、オルグ団を編成した。このオルグは当初は担当地区を持たずに、自分のつながりのある組合や地域を思い思いにまわっていたが、59年夏ごろまでには担当地区を持つようになった。それにともない、週のはじめには定例のオルグ団会議を持って、情報交換、共通課題の検討などを行い地域に散っていった。(当時の東京労済の事務局長は「君は中小企業労組のオルグつもりで働いて欲しい」と私に伝えていた。)
私は福祉連の書記兼務ということもあり、東京中部地区と、北部全域と東部の一部を担当した。
事業としての労済は火災共済からはじまった。当時火災保険は掛け金も高く、建物の構造や地域によっても料率が違っていた。その上被災時の査定が厳しく、加入者の不満はくすぶっていた。そもそも労働者集団の居住区は保険市場からも敬遠されていた。そんな中、54年に大阪・新潟の福体協による火災共済事業が出発、56年には、中央福対協、総評、全労、日本生協連、労金協会の呼びかけによって火災共済の危険分散を担保する再共済機能を持つ「労済連」が設立された。この労済連は各都道府県の単位労済生協の設立を指導するとともに、新しい共済制度の開発を行った。その一つが非常時の闘争積立をかねた「積立金付生命共済」(一口に付き月200円の掛金、内150円が闘争積立金をかね、残りの50円で死亡時5万円保証)で、組織(慶弔)共済とともに企業内福祉に対抗し、労働組合の自立化のために一定の役割をはたすようになった。同じ頃、労働者の相互扶助機構としては大先輩格の労働金庫も、社内預金廃止の運動を開始した。(企業の倒産によって山陽特殊鋼での社内預金が消えたのを契機に運動は大きく前進した)
この全労済は早速機能を発揮した。一つは発足直後に発生した新潟大火による被災者への共済金の支払い(但し、当初は新潟福対協=労済単独対応)と59年9月の伊勢湾台風による1000名を越す労働者の死亡に対する見舞金(給付金)の支出等である。
組織(慶弔)共済は、当初月60円という定額掛金であったが、給付項目が多岐にわたっており、勤続年数等に関係なく適用されたので急激に普及した。労働組合本体からも、労働者の中小企業への帰属意識離れを促進するものとして本格的に受け入れられた。この共済は、他の共済と結合されて大型化する方向と、長野県や山梨県で実施されたように、地域での企業の枠を越えた合同労組運動の基礎固めにも活用された。なおこの種の共済制度を利用しての合同労組運動では、東京東北部で展開された東部一般の活動がある。中でも南葛飾一般の活動は今日でも継承されている。
話しが共済活動に走りすぎたので安保闘争とのかかわりに返ろう。といっても「安保は重い」という言葉の裏には、もちろん一気に盛り上がった警職法闘争との比較があるが、組合活動家にとっては、どうにもならぬ企業内組合という問題がある。こうまで労働者を企業にしばりつけているのは、恩恵として与えられる企業内の福利厚生も一つの要因である、と位置付けたのは先程から記している中央福対協なり、福祉連の見解であった。その点からすると、このことは「重い安保」と一面重なり合うことになる。東京労済は7月に生協としての総代会を開催していた。総代=代議員は、協力団体として位置付けられた労組の代表(規模にかかわらず1名)と地域代表からなる。総会前に各地区ごとに運動方針と共済制度の内容討議の「地域集会」を実施してきた(通常は「強化月間」と併せて年2回)。余談だが、地区共闘の行動日と、プロレスの放映される金曜日は、人が集まらないので避けた。そこでは企業内福祉との闘いは必ず提起された。ある意味では側面からの支援になっていたと思う。
港区労協 港地区委員会でのこと
就職にともない職場の労組に加入、いきなり港区労協に顔を出すことになり幹事会のメンバーになった。港区労協は東京地評会館に事務局を置いていた。私は高橋良彦(通称ヨッチャン・政治家名松本礼二)部長の下で、争議対策部を担当することになった。昼はオルグとしての担当の地域を回り、東京共闘会議や福祉連や社保協の仕事(東京社保協結成時まではその書記の仕事も受け持った)があるときは主に地評会館と労金会館で働いた。夜になると、中小企業の争議現場で過ごした。その中でも区内の全金高山精密支部の争議では、戸板一枚挟んで、動員された暴力団と、お互いに鉄棒を持って対峙した。新橋駅近くの十仁病院争議ではヨッチャンが愛育会病院の方にまわっていったので、私が責任者で対応した。早朝4時頃、暴力団員にガード下に呼び出されて短刀をちらつかせて「殺すぞ」とおどかされた時は、思わず「警察を呼ぶぞ」と口走り、後で人間の弱さをつくづく知らされた。十仁病院争議からは、北部の仕事が忙しくなって手を引いたが、その後地区事務局長で区議の渡辺勇さんから聞いたことによると、地元暴力団の介入に対して、当時首都高建設で立ち退きを迫られ、警視庁と対抗していた在日の華僑・黄華会館(?)の人たちが組合を支援し解決したとのことである。
就職にともない共産党籍は千代田区から港地区委員会に移った。千代田区は党本部から見れば「自由主義・分散主義」で締め付けも弱く、所属細胞では弾圧されながらも、比較的自由に居られた。ところが港に転籍してみると、まさに党内論争・闘争の真っ盛り。港地区委員会傘下には、(東京)地評会館細胞もあり、安保闘争の方針、最賃性の問題で、党本部と対立していた。それに全電通本社支部問題も重なり、地区委員会の多数は本部批判派となっていた。そのことの根底は、復活した日本資本主義をどう評価し、それに基づいてどのような方針を立てるか、ということにあったが、六全協以来機関にしがみついて来た地区委員の多くは、本部の言いなりで、論争に加わることができなかった。港の動向を心配した共産党都本部は、区内で開催される討論集会には、構造改革派であるとみられる安東仁兵衛氏を監視役に派遣してきていた。われわれは安仁さんが、党員と思われる活動家の発言をいちいちチェックするのを見て彼に対する評価にとまどいを持った。それでも党改革には、党内の構改派の人たちとの連携が欠かせないと判断し、59年10月の地区大会では「現代の理論」を廃刊させた党本部は誤りであるということを含めた中央委員会批判決議を、賛成38、反対13、保留16で可決した。挙手採決であったので大よその傾向は判った。賛成は安保闘争に積極的に取り組んでいる職場細胞、反対は区内に多数存在していた党寄りの経営細胞や金融機関、保留は居住と大雑把な分類ができた。
安仁さんのことに戻せば、この頃の態度が後でかなり影響した。安保闘争一段落後、すでに除名されたり、離党したりした人たちや党本部批判派の結集のための集まりが、教育会館で開催されるという呼びかけがあったが、安仁さんが中心にいるということで、出席を ためらった部分がいた(私もその一人)。
港地区党大会で敗北した党本部はその直後都委員会名で、指示を発令、「党規約に基づく」地区委員会を発足させた。地区党大会で選出された「多数派」の党報は、安保に反対する闘いのさらなる前進を訴えているが、党本部派の党報は「アカハタ」の拡大と党員を増やすことが主要課題となっている。地区党大会での論争での党本部のレベルを示す論調の一つを紹介する。大会二日目のことだが、第一日目の都委員会からの出席者は杉本文雄氏、戦前からの労働運動の活動家で、その人柄から労働運動の活動家からは信頼されていた人物であったが、最賃性をはじめ一連の賃金問題や電通本社支部委員会の解雇問題(千代田丸事件)に充分対応しきれなかった。そこで二日目には春日正一都委員会長が乗り込んできたが、国際情勢の分析と日本資本主義の現状分析で、多数派の地区委員と論争になった。答弁に詰まった春日氏は、地区党は地区の問題を論議すべきで、地区党までが世界情勢分析まですると、さまざまな判断が生じて党はアッチコッチに頭ができてヤマタノオロチになりまとまりがなくなると反論してきた。我々の対米従属論一本槍のナショナリズムだという批判に対しては、諸君はインターナショナルでなく、メトロポリタンだという答弁で奇妙な論を展開していた。
60年になると多数派地区委員会の数名かがブントに加入したが、地評会館細胞の多くや、私のような党本部批判派の党員は、党本部の指定した新地区委員会をサラリーマン集団と見做して別離し独自の道を歩むことになった。
安保闘争の中でのめぐりあい
「安保闘争の真実」については、先にも述べたように竹内基浩さんの遺稿を参照してほしい。私はここでは、東京地評の書記局の人たちについてふれて置く。
当時の東京地評は、戦前の全評の流れを継ぐ人たちが指導部を形成していた。いわゆる高野派の人たちで、芳賀事務局長をはじめ36・7年の人民戦線事件を経験している。それに加えて、戦前合法左翼として最後までねばった東交の人たちが中核をなしていた。さらに、戦後戦地から復員してきた新しい幹部たち。この人たちは民同派ではあったが、いざ闘いとなるとセクトは捨てていた。これらの指導部の下に水野邦夫、佐々木靖夫、竹内基浩をはじめとする異能な書記集団が活動していた。
水野は主に組織担当。早大時代は日共神山派、除名退学後故郷での青年団運動にかかわり、その活動が総評から評価されオルグになった人。佐々木は陸軍幼年学校時代、広島で被爆、仙台交通労組を経て地評へ。主に教宣担当。安保闘争時に彼の編集した地評新聞は、政党からのイチャモンにより二度弾圧を受けた。竹内は政治担当。安保闘争時は日共党員、総評岩垂書記と共に安保闘争を組み立てた人。大衆団体、共闘会議の決定を守り実行することを原則とし、そのため党と対立。60年4月安保闘争の「決戦」を前に国際的な連帯の必要性が追求されている時に北京総工会より東京地評へ招待状が来た。訪中団事務局長として渡中する彼に、党本部は「密書」を託す。帰国後春日庄次郎はそのことを謝罪。その密書にはこの男は反党分子だから気をつけて対応してほしいという内容だったという。私は、労働運動についてはこの三人から大きな影響を受けた。またこの人たちは私の意見も受け入れてくれ、仲間として扱ってくれた。60年6月闘争に一区切りつくと、水野を中心に、企業別組合をいかに克服するかという研究が本格化し、合同労組運動が模索され始めた。企業組合を横断した組織に変えるにしろ、個人加盟の純粋な合同労組を形成するにしろ、共済制度が一定の役割を持つ、ということで、その原案つくりをまかされた。制度は全労済制度を軸にしながら大型化し、独自部分を加えることで充実させた。
佐々木とは異質のおつきあいとなった。まずアナキズムに目を開かせてくれたことだ。おかげで、山口健二というトッピモナイ人も知った。また私が13年間山梨県で仕事をし、県内の労働組合員の山登りの仲間と協力して山小屋を造ったが、佐々木には、山小屋での料理を教えてもらった。
竹内の下で東京共闘会議の下働きをした。竹内からは、政党と労働組合の関係はいかにあるべきかを学んだ。60年安保闘争終焉後、64年の日本共産党の6・17ストつぶしの時期にかけて、都教組の内田宜人を頭目に、竹内たちと都内の非日共系左派の活動家を結集して「労働者同盟」をつくり、それを東京労働戦線連絡会議に発展させた。さらに全国に呼びかけて当時の中労委会館を満員にすることができた。
その竹内の遺稿集がこのほど刊行されることになった。解説を担当したが、共に闘い、指導してくれた今は亡き三人の方への鎮魂としたい。
追記
私は1968年から82年までの13年間、山梨県で全労済山梨県本部の事務局長に就任していたが、その間、注射による筋短縮症から子供を守る全国協議会、連峰スカイライン建設反対共闘会議、南アルプススーパー林道建設反対(現地)共闘等々の事務局長も担当した。また、その間山梨県労働者生活協同組合の役員も兼務し、多くの仲間に支えられながら労働運動をはじめとする社会運動の分野で働くことができた。指導してくれた方々、支えてくれた方々に心から感謝している。
*2011年4月2日に著者の要望によって補足訂正いたしました(編集部)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion156:101004〕
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