「現代史研究会」rhizome「皇帝のいない八月」の会(仮名)
- 2013年 7月 9日
- 交流の広場
- 武田明
現代史研(直前情報)とレジュメ―北一輝と二・二六事件
http://chikyuza.net/archives/35818
9月、10月の現代史研究会
http://chikyuza.net/archives/35479
交流の広場の書き込みの流れは速いですね。
ページを遡っていくと前回の書いた文章にまだまだたどり着けるものの現在、2ページ目へとなっています。
書くよりも読んで、コメントもして行きたいのですが、折角、実際に会える機会も迫っていますので、
現代史研究会を喧伝しながら最大限に有意義な時間を共有できる方法論を模索していきたいと
考え、再び、投稿しています。
8月は、お休みとお断りもありますので、
日々是革命的に、時々刻々明滅する日常生活と生涯時間の浪費を最小限度に防ぐためにも
8月も何らかの集いをしたい人々で集まれる企画を募集したいと考えています。
真夏の太陽の元でも日本国の革命的解放の模索、準備を怠らないようにしたい少数派でも集ってみましょう!
企画をまずは、募集したいと思っています。
現代史研究会の大衆運動、労働運動へと広がらないもどかしさは、リゾーム的ではないから、リゾーム組織を若返りを容認してこなかった閉塞にあるのではないでしょうか?
しかし、同じことをするのでは意味がありません。
難しい学術的アカデミックなものよりは、文化論的芸術論的大衆性に着目し、
映画史研究会(これもまだ仮名)としたいと個人的には構想しています。
映画の中には、エーゼンシュタィンやグリフィス、サイレント以降の名作もまだまだ捨てがたい魅力を持っていますが、映画史のみを扱う研究会ではありません。
映画の様に、現象や社会問題、歴史、現代史問題を「大衆視覚的」にわかり易く展開する、それで深いものとしての討論の研究会を模索しています。
例えば、今、ちきゅう座内でも主軸でもある原発エネルギー問題にあっても
映画作品として、「チャイナシンドローム」やそして、日本でも田原総一郎氏原作の「原子力戦争」などがありますが古く、繰り返し見返したい現在、現代の欲求には到底、答えられていないものとなっています。
商業化した映画ではなく、ドキュメンタリーであっても秀作があったなら紹介し、広報しながら大衆運動に結び付けていく方法論、映画と言うよりも「視覚」=「絵」の効果は、絶大なものではないかと思うのです。
映画を寧ろ「視覚論研究会」にまで、解体し本来、アート一般、大衆文化前衛たる映画とは何かを解体する様に対話を展開する事が目的となります。
語り回しは、無駄に難しかったかもしれませんが「論より証拠」アカデミックな閉塞を大衆的にわかり易く「視覚化」する思想・実践・行動について再構制する事に他なりません。
現代史研究会 7月13日は、北一輝と226事件ですが、一見、右翼クーデターとも思えるものですが、先入観では語りきれない置き忘れた問題意識がまだまだ無数にある様に、僕自身も考えています。
架空のクーデターを取り扱った映画『皇帝のいない8月』でもありましたが、
7月の北一輝論をステップにしながら8月に=「皇帝のいない8月」の会(仮名)
第一回 映画史研究会「日本の革命・クーデターの理想図を考える」(こちらもまだまだ仮名)と言う討論会なり、それに即した講演出来そうな、是非、有志参加して下さる先生をお招きできるように体裁を整えていきたいと考えています。
そもそも右、左的とは何か?まで。
6月の現代史研究会の会合の席でも述べていますが、
僕が、目的とするのは、アソシエーション=知的協働の再結集です。
柄谷行人氏が、廣松渉教授亡き後、カリスマ的?に取り纏めていた??組織でしたが、再び、舵を失い、大船を捨て、それぞれの小舟として浮遊している段階であるのを省察をしていきたいと考え、それに対して、助言、提言を集めながら、「視覚化」大衆運動化を模索する
滑稽な言い回しをするなら第一全共闘に対して、
「可能なるコミュニズム」から、まずは、知的協働として、理論、基礎を学者間で調整しようとしたものが、
第2全共闘の雛型であったと考えるとしたなら、知の面白さを「視覚化」し「大衆化」し結集していきたい欲求に答えるものの
講演料、その他、お金よりも理想の方が大事とする「真実の言葉」「対話」を集めていける場所を全力で作っていく努力を惜しまないようにしていきたいと考えています。
人間は、いつか死ぬものです。
他人に嘘をつけても自分には、嘘をつけない。
飢えているなら飢えているとそして人や社会が信じられないで引き籠っているなら引き籠っていると
現代の病理を語り合い、協力、共助、協働としてのアソシエーションの再結集を上記のような目的と理念の討議として展開しながら核心に迫れたならと考えているわけです。
知識を博物学化してはいけない。生きた実践的知としてのマルクスを取り戻さなくてはいけません!
では、その全ての前哨戦でもある「現代史研究会」7月13日にお会いしましょう!
難しい話をしたいわけではありません。それぞれの知的興味と良心にそって
孤独な魂の救済としての協働=アソシエーションを再建したい!ただ、それが、第一の目的となります。
10代、20代そして、30代の多くの現代史研究会初心者の参加を期待しています!
長くなりましたので、ここで一端、切ります。
明日は、
現代史研(直前情報)とレジュメ―北一輝と二・二六事件
こちらの読解。
そして、第一回 映画史研究会「日本の革命・クーデターの理想図を考える」(こちらもまだまだ仮名)レジュメと言うよりは、粗描出来たならと考えています。
関連用語解説:リゾーム
日本では主として、ドゥルーズおよびガタリの共著『千のプラトー』の中の登場する比喩的用語
あるいは哲学用語として知られている。
両者は、伝統的に西洋の形而上学はある絶対的な一つのものから展開していくツリーのモデルを
とってきたと解釈し、それに対抗して、中心も始まりも終わりもなく、多方に錯綜する
ノマド的なリゾームのモデルを提唱。
狙いは、体系を作り上げそれに組みこまれないものを排除してきた西洋哲学に反抗し、
リゾーム(地下茎、根茎)をモデルに発想の転換をさせるところにある。
西洋近代の哲学者デカルトは、その著書である『哲学原理』の序文において、
彼の時代の学校教育においても支配的であったアリストテレス的な学問論、
すなわち類を異にする諸学問は相互に比較することができず、
諸学問はいくつかの類に分かたれるという学問論に対して、
形而上学を幹とし、そこから他の諸学問が派生していくような学問の樹のモデルを提唱した。
このデカルトのいわゆる「ツリー型」の学問のモデルが、そのまま西洋の知の伝統的形態を指し示し、
ひとつの絶対的で同一的なものから他の存在者が派生するという西洋の伝統的な存在論を表現していると
ドゥルーズは指摘している。(Wikipedia解説)
では、まず自賛中央突破??をこのように行いますが忌憚のないご意見を頂けたなら幸いです。
(黙殺されても踏まれてもみなさん頑張りましょう!)
乱筆失礼しました。
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↑うまく飛べない場合は、検索で北一輝、現代史研究会などなど入れると出てくるのではないかと思います。
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