「尖閣諸島」事件への様々な反応へのコメント―「戦略的思考」の重要性
- 2010年 10月 5日
- 評論・紹介・意見
- 安東次郎尖閣諸島戦略的思考
「尖閣諸島」での中国漁船拿捕とこれに引き続く一連の展開については、様々の反応があった。(残念ながらここでは日本国内の反応に議論を限定させていただく。)
それは、だいたい次のような傾向に分けることができる。第一に「親(従)米派」による日米『同盟』重視論、第二に『リベラル派』・『左派』などによる「ナショナリズム台頭警戒論」、第三に、当然ながら「ナショナリスト」による「悲憤慷慨」。
この他、孫崎享氏(元外務省国際情報局長)などが、日米『同盟』重視論や感情的「ナショナリズム」とは一線を画した日本独自の「戦略」の重要性を提起されている点は、注目に値する。
孫崎氏の提起には学ぶべき点が多々あり、本来なら紹介すべきだが、それにかんしては氏の新著やツイッタ―(注1)をお読みいただくことにして、以下では、上記の三つの反応にコメントすることによって、事件に関する私の感想を述べさせていただく。
安保の重要性が再確認された?
まず「親(従)米派」。彼らは「今回の事件で中国の脅威が再確認された、また事件に対して米国は尖閣諸島に日米安保を適用することを明らかにした」、(したがって)「日本は米国を頼りにしなければならない」と主張する(注2)。
しかしいま中国の切るカードは、軍事のそれではなく、まずは経済のカードだ。日本経済が中国と深く結びつき、日本企業が中国に進出しているなかで、中国が経済的報復措置を取った場合――これはもちろん中国にも大きな損失をもたらすが――残念ながら先に「ギブアップ」するのは日本だ。
仮に米国が軍事面で日本を守ったとしても、米国が中国市場を――日本のために――確保してくれるわけではない。日本がもっぱら米国市場に依存していた時代とは、『安全保障』の前提がまったく違う。
「尖閣は日米安保の対象」の意味
この間、「尖閣諸島が日米安保の対象である」との米高官発言が報道されているが、これが「尖閣諸島への米軍の出動」を意味しないことは、ネットで情報を得ているひとには「常識」だ。
05年の『日米同盟:未来のための変革と再編』により、日本は「島嶼部への侵略」には「自らを防衛」することになっている。さらに「日米安保第五条」は「自国の憲法上の規定及び手続に従つて」行動するとしているのだから、米国が参戦するか否かは米議会の判断による。したがって「尖閣諸島」のみならず日本での軍事力行使全般に関して、米国は「フリーハンド」である。(注3)
さらにいえば、尖閣領有権にかんしては米国は中立なのであり、尖閣が日米安保の対象であるのも「日本の施政の下にある領域」(条約第5条)である限りでのことだ。
こうした安保条約の真実を隠して「米国を頼るしかない」というのでは、米国が日本を「しゃぶり尽くす」のを助けるだけだ。実際「辺野古への基地移設」、「グアムへの移転経費の負担+増額要求」、「想いやり予算+増額要求」、「F35購入要求」(注4)など軍事関連だけをみても、日本はまったくの「属国」状態である。
「属国」状態などというと、『リベラル派』・『左派』の一部からは、「ナショナリズム」を煽るものとして批判されるかもしれない。しかし「日本が被保護国=protectorate)(注5)である」のは、客観的事実であって、それに「気付かない」ことこそ「ナショナリスティック」な心理の『防御機制』によっているというべきだ。
「ナショナリズムの危険な昂揚」こそが問題?
一方『リベラル派』・『左派』の一般的な反応は、「ナショナリズムの昂揚は危険」というものだ。そしてこの点は「経済重視派」の本音とも重なるだろう。「ナショナリズムの昂揚」は確かには「危険」だ。しかしそのことを理由にして『リベラル派』・『左派』が菅政権の対応への批判を回避し、事態が『政局』につながることを警戒するのは正当だろうか。(注6)
今回の問題で「国民」が感情的になるのには、――マスコミによる扇動は考慮しなければならないが――それなりの「根拠」がある。
民主党政権がやったことは、「領土問題は存在しない」として「日本国内」で中国人を逮捕・拘留しながら、中国の圧力に屈して中国人を釈放したことだ。これは、菅政権の価値感からしても――そんなものがあるとして――「大失態」ではないか?
ただし客観的にみれば、結局は中国の圧力に屈せざるを得なかったのだから、逮捕したことのほうが政治的な「判断ミス」である。田岡俊次氏は「敵の動きを察知して避けるのはよいが、敵を見てから避けるのはダメだ」という趣旨の戦国の諺を紹介し、今回日本政府の対応はまさに後者であったとしている。それでもそのまま突っ走り、深みにハマって敗北するよりはマシな収拾であった、とも。これは適切な評価だろう(注7)。
仮に以上の「大失態」は問わないにしても、検察が外交上の判断を行い、それを内閣が「諒とする」――それによって内閣の外交上の責任を回避する――などということが、許されるのか。わたくしはこれだけでもこの政権は「失格」だと思う。
このような「大失態」や「失格」を隠蔽しながら、「ナショナリズムの危険な昂揚」を指摘することは、まったく説得力に欠ける。あるいはこう言うべきかもしれない。「政府の失態を黙認することこそが、ナショナリズムを危険な昂揚へと追いやるのだ」と。
いま必要なのは「たたかう覚悟」?
そういう次第で、私は「ナショナリスト」が悲憤慷慨するのは、ある意味で当然だと思っている。
「ナショナリズムなどという狭い了見は捨てるべきだ」といわれるかもしれない。しかしこういう種類の言説は未だかつて有効性を持ったためしがない。
「人間主義者」は(外国との)「対話」の重要性を強調するであろうが、この場合「外国」とは「外国のナショナリズム」である。そうであれば「自国のナショナリズム」と「対話」することは、なおさら重要であるはずだ。
そこで、私が「ナショナリスト」にたいしてまず言いたいことは、「ナショナリストの言説はほとんど場合、戦略的思考を伴っていない」ということだ。
「ナショナリスト」は、多くの場合「戦略の欠如」を「決意」で『埋め合わせ』ているが、それでは先の戦争のときと同じではないか。
たとえば、尖閣諸島周辺での戦闘を想定しても、大勢を決するのは『航空優勢』であり、これに「海上戦力」を加えるにしても、じっさい戦闘に参加する人々はじつに少数である。(注8)
勇ましいことをいう人々は、安全なところに居り、彼らに危険が及ぶのは「女性や子供にも」(女性自衛官もいるので不適切な表現だが、お許し願いたい)危険が及ぶときでしかない。「愛国」の決意を語ったり、中国の悪口を言ったりしても、なんの役にも立たない(注9)。必要なのは「知恵」であり、「戦略的思考」ではないか。
もちろんこの場合「戦略」とは「軍事」だけではなく「経済」を含む広範なものであることは言うまでもない。
ところで「戦略的思考」に欠けているのは、政治家も官僚も同じだ。
「戦略能力」なき菅内閣
仙谷官房長官は、中国人船長釈放後、中国の出方を読み間違ったことを『告白』したが、相手の置かれている政治状況、とり得る手段の分析など、基本的な分析ができていなかったことは、明らかだ。これは直接には外務官僚の『無能』を証明するものだが、菅政権の官僚依存を暴露するものでもある(注10)。これでは「国家戦略」など立てようがないだろう。
防衛省も同様で、「東アジアの安全保障情勢」を理由に陸自を1万3千人増員するという。海に囲まれた日本のなのに、陸自を増員してどうするのか。(第二次大戦における「バトル・オブ・ブリテン」を想起してほしい。)
このように菅政権を批判すると、「いまは『国家の危機』であるから、政府・国民が一丸となるべきだ」と言われるかもしれない。しかしそれは『扶清滅洋』のような話で、むしろ必要なのは、『辛亥革命』のほうだろう。
「一戦交えてでも」とか「(中国は)悪しき隣人」という精神構造
長島昭久議員(元防衛政務官)は「時に一戦交えてでも主権と独立を守る・・・」(25日)などといっているが、「一戦交えて」始まった戦争はこちらの都合でお終いにはならない。「日華事変」然り、「太平洋戦争」然り。日露戦争にしても、戦争終結のためにどれだけの戦略が練られていたか。
長島が『愛国者』なのか、『愛米者』なのか不明だが、こういう人間こそが「国家」を滅ぼす。
2日には枝野幹事長代理の「(中国は)悪しき隣人」という発言があった。「中国が悪いのであって、民主党のせいではない」と言いたいのか。しかし交渉とは一般に「理屈が通らない相手」と交渉することではないか。枝野や仙谷は「訴訟」でもしているつもりだったのか。
この発言で特に問題なのは、中国人全体―そう受け取られるだろう―を「悪しき隣人」と呼んだことだ。これは「民族対立」を煽る発言であり、決して言ってはならないことだ。枝野は、記者に「この発言の政治的影響」を問われて、「良い隣人だと思うか?」と反問したそうだが、これは自分の発言の政治的影響になんの責任もとらないということだ。それとも対立を煽ることが『任務』だったのか。
戦略的思考が出来る政府を構築する必要があるのでは?
こういう次第で、菅政権に『戦略能力』はまったく期待できない。いや、精確にいえば、菅政権は「戦略をもつ意志」に欠けている。
「首相をコロコロ替えるのはみっともない」などという宣伝に同調していたひとも、いまではもっと「みっともない」思いをして、ことの重大さに気づいたのではないか。これはもちろん、政権の「対中」姿勢が「軟弱」だから「強硬」に転換すべき、などということとはまったく次元の違う話であることは、お断りしておく。
ところで、「戦略能力ある政府が必要」というと、『リベラル派』・『左派』からはクレームがつくかもしれない。政府とは「階級支配の道具」だから、有能な政府は怖い。それに比べると「無能な政府は厳しく徴税できないだろうし、反対派への「弾圧」が下手だろう。」(じっさいは無能な政府もそれなりに、徴税の意志だけは強固であったり、反対派を策略で起訴したりはするのだが。)
しかし「無能な政府は人民に幸福をもたらす」のか。かつて無能な政府が無謀な戦争を始めたことがあったが、その結果がどうであったかは、言うまでもない。
日本の『リベラル派』・『左派』は、権力(Macht)と武力(Gewalt)を忌避する『姿勢』をとるのが常だ。しかし「国際標準」からすれば、これは本来のあり方ではない(注11)。『リベラル派』・『左派』こそ「官僚の統治」の打破と「人民」の政府(government of the people)を課題とすべきではないのか。
(注1)孫崎氏の新著は祥伝社新書「日本人のために戦略的思考入門」(以下[孫崎2010]と表記)。氏のツイッタ―はhttp://twitter.com/magosaki_ukeru
(注2)安保重視派は『自主防衛』を否定するわけではない。しかし安保体制下の自衛隊はそもそも「自主防衛」ができるように設計されていない。
(注3)[孫崎2010]p.155~162
(注4)F35は02年当時6千万ドル程度といわれていたが、いまでは1億5千万~2億ドルにまで上昇している。米国自体は戦略の見直しにともなって、戦闘機保有数を減らし、F35調達数も減らす方向。しかもF35については日本国内でのライセンス生産は許可されないと言われている。
(注5)日本がprotectorate(被保護国)と言われている例として、孫崎氏は、ブレジンスキーの著書『The Grand Chessboard』や「The New Republic」誌などを挙げている([孫崎2010]p.218)。
(注6)三上治氏は、「この問題を政局の材料にしたい野党などの対応は論外である」とされている。
http://chikyuza.net/archives/3515
(注7)朝日ニュースター「パックインジャーナル」(2010年10月02日放送)での発言。
(注8)今回の事態では、双方ともに軍事的な動きはとっていないと言われている。この点については、「リアリズムと防衛を学ぶ」の「尖閣沖事件は警察レベルの問題」(10.10.04)という記事を参照のこと。http://d.hatena.ne.jp/zyesuta/
もちろんこのことは「戦争なんかおこらない」という楽観論を正当化するものではない。
(注9)29日福岡市で発生した「右翼」による中国人旅行者への攻撃などは、恥ずべき行為であるとともに、戦略的にもまったくマイナスであることはいうまでもない。事件については以下を参照のこと。
http://www.47news.jp/localnews/hukuoka/2010/10/post_20101001130011.html
(注10)今回の事件の背景になにがあったのか、もちろん現時点では明白ではない。もちろん中国サイドの動きも考慮すべきだが、米国サイドの動きも推量する必要がある。その点で太田述正氏(元防衛庁長官官房防衛審議官)の次のコメントは、興味深い。
http://blog.ohtan.net/archives/52030627.html
(引用開始)
コラム#7で、「1999年の3月、日本海で二隻の北朝鮮の不審船を海自と海保の艦艇等が追いかけたが結局取り逃がした事案が起こりました。この時、この不審船情報を最初にもたらしたのが米国政府であったことは公然たる秘密です。日本政府に「いいかげん何とかしたらどうだ」とせまったわけです。」と書いた・・実はこの話、私が1999年防衛白書の事前説明に官邸に赴いた時、1人の内閣参事官から直接聞いたものだ・・けど、そもそも、今回、海保が中共の漁船に強くあたったのも、その裏に宗主国米国からの陰に陽にの圧力があった可能性は排除できないぜ。
そこへ、飛んで火に入る夏の虫じゃないけど、中共の方からちょっかいを出してきた。
そこで、米国に言われた通りに海保が動いたら、中共が異常なほどいきり立った。
で、今度は米国が事態を収めにかかり、外務省を通じて検察を動かした、と読むわけ。
要するに今回の件、日本の属国政府が、宗主国のマッチポンプに振り回されて踊らされただけって可能性が大なんだわ。
(引用終わり)
事件を通しての米中日の「収支」を考えると、日中両国が「評判」を落とした一方、米国は東アジア諸国を自国に引き付けることに成功したと思われる。
これとは別に戴秉国(たいへいこく)国務委員が深夜丹羽大使を呼び出す前に岡田外務大臣(当時)に緊急電話会談を申しいれたが、岡田がこれに応じなかったことも明らかになっている。この時点では日本側は中国にたいして外交チャンネルと閉ざすというきわめて危険な態度をとっていたことになる。これは単なる『ミス』なのか(大変なミスだが)、あるいはそれ以上のものなのか。
(注11)武力についての認識で『護憲派』と世界の『リベラル派』・『左派』の立場には相当に隔たりがあると思われる。たとえば、このサイトでは「カントの絶対平和主義・・・に深く傾倒」などという記事が載っているが、カントは、「常備軍の廃止」を提起する一方で、「人民の武装」は認めている。
「もっとも国民[Staatsbürger]が、みずからと祖国[Vaterland]を防衛するために、外敵からの攻撃にそなえて、自発的[freiwillig]に武器をとって定期的に訓練を行うことは、常備軍とは全く異なる事柄である。」(「永遠平和のために」光文社文庫版p.152中山元の訳)
この「常備軍の廃止(禁止)」と「人民の武装(の権利)」とは、いうまでもなくカントに特有のものではなく、英国の権利章典や合衆国憲法にも見られる「近代民主主義の基本的な理念」である。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion158:101005〕
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