親ノ血ヲ引ク兄弟ヨリモ: 家族独裁体制の崩壊後、北朝鮮は中国の植民地と化す
- 2010年 10月 5日
- 時代をみる
- 北朝鮮の世襲問題森善宜
はじめに:三代つづいた例(ためし)なし
昔の歌に「親ノ血ヲ引ク兄弟ヨリモ、堅イ契(ちぎ)リノ義兄弟」というのがあった(北島三郎「兄弟仁義」より)。奇しくも北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)で起こっている「三代世襲」と言われる歴史的な珍事に当たり、この歌が正にピッタリのようである。けだし、この歌は元々ヤクザの兄弟関係を示していて、今回の三代世襲の前近代的な性格付けに附合するし、金正恩(キムジョンウン)を戴く家族独裁体制が崩壊する時、何が起こるか言い当てて妙だからだ。
本稿は、北朝鮮で起こりつつある権力の三代世襲という問題を、そもそも世襲がなぜ始まったのか、その歴史的経緯に遡って解説し、次に金日成(キムイルソン)が打ち立てた個人独裁体制が家族独裁体制へ変容する構造的原理(からくり)を解き明かす。ここから、その当事者である金正恩の必然的末路を朝鮮半島内外の政治経済情勢と照らし合わせて展望する。
結論として本稿では、軍部の造反勢力が家族独裁体制の崩壊をもたらし、ここから不可避的に中国の植民地と化す外なくなると見る。すなわち、韓国(大韓民国)という「親ノ血ヲ引ク兄弟」よりも、朝鮮戦争で共に戦った「血盟関係」を謳う義兄弟たる中国に、ついには植民地化されるのである。
Ⅰ.なぜ世襲が始まったのか:その歴史的経緯
北朝鮮で世襲を始めたのは、そこで個人独裁体制を打ち立てた金日成である。後継者となる息子の金正日(キムジョンイル)が権力の継承を求めた可能性は否定できないにしろ、その最初の世襲準備に掛けた歳月を考えると、北朝鮮の世襲には権力の相続人たる金正日よりも被相続人である金日成の都合が主に大きく作用していると見て差し支えない。
金日成が権力を息子の金正日に世襲させる経緯を簡単にまとめると次節の年表のようになる。だが、これだけ見ても、どうして金日成が世襲を求めたのかは全く分からない。やはり問題は、彼が余人に権力を任せられなかった経緯にこそ問題があるので、ここでは金日成が権力を掌握する過程を簡単に振り返っておこう。
そもそも日本の統治から解放されるのと同時に北緯38度線で南北に分割占領された当時の南北朝鮮には、朝鮮内外から現れた共産主義勢力が複雑に協力と対立を交錯させる関係が形成されていた。中国共産党と共闘して帰国した「朝鮮独立同盟」を母体とする「延安派」、金日成をソ連の現地政策執行者としてまとまった「満州ゲリラ派」、そして朝鮮内で活動する勢力として光州に潜伏していた朴憲永(パッコニョン)を推戴する「国内派」が主要な勢力だった。
これら派閥とは別に、ソ連軍がソ連本国から呼び寄せた「ソ連派」と言われる党官僚集団がいて、彼らは金日成の演説文を作成する等、彼を北朝鮮政治の中心に据える上で大きな役割を果たした。その頭目として著名なのは、許ガイと言われたソ連籍の朝鮮人である。
このような派閥関係の中、スターリン(Joseph V. Stalin)の支援があったとは言え、金日成の抗日ゲリラ闘争の功績程度では居並ぶ独立革命家たちに対抗して北朝鮮で指導権を掌握するのには無理があった。彼は朝鮮共産党北朝鮮分局責任秘書(1945年12月)などに就任したが、その後身の北朝鮮共産党と延安派を中心に結成された朝鮮新民党とが合党した北朝鮮労働党(北労党)では、朝鮮独立同盟主席だった金枓奉(キムトゥボン)を委員長、金日成と国内派の朱寧河(チュニョンハ)を副委員長としたように、金日成は一歩その指導権を譲る外なかった。
しかも、北労党と対をなす南朝鮮労働党(南労党)が朴憲永の主導権の下に1946年11月に結成された後、南北労働党の最高指導部を形成する問題において、金日成は最高指導者としては名前が挙がらなかった。これは、当時のソ連軍で北朝鮮政策に事実上その責任を負い、のちに駐朝ソ連大使となるシトゥイコフ(Terenti Shtikov)の残した日記から明白である。実際に北労党と南労党が中央委員会のみを統合して「朝鮮労働党」を組織した1949年6月、金枓奉が中央委員会委員長、朴憲永と許ガイが同副委員長となり、金日成は同政治委員会の平委員へと転落したのだった。
金日成が同年8月頃から本格的に朝鮮戦争の開戦をソ連大使館や中国首脳部に訴え始めた背景には、このような実権の喪失があったと筆者は考える。彼は米軍の不介入を前提に、南朝鮮地域への朝鮮人民軍の全面的な投入戦術を許可するよう繰り返してスターリンに求めた。だが、ソ連共産党中央委員会政治局は同年9月に金日成の戦術を拒絶し、反対に朴憲永が指導していた南労党による南朝鮮地域での武装パルチザン闘争の強化を指示した。
こうして、金日成は北朝鮮の政府首班という職責にもかかわらず、党が軍も含む政府を動かすソ連型の国家体制にあっては1949年末まで、その戦術を実行できなかった。しかし全面戦争により朝鮮統一を実現して党の実権、さらには名実ともに全朝鮮の最高権力者となる野望は、中ソ関係が改善した1950年1月に実現の機会を得た。スターリンは突然、その戦術に同意を与え、軍事的な支援と金日成らのソ連訪問をも承諾したのである。
中ソ関係研究の権威である北京大学の金東吉(キムドンギル)副教授の研究によれば、スターリンは米国との全面戦に時間稼ぎをするため金日成の戦術に便乗、米国の関心を欧州からアジアへ向けさせ、米国の戦争介入を前提に中国との対決を誘導しようとした。それとも知らぬ金日成は毛沢東の同意も得て、1950年6月に朝鮮人民軍を南朝鮮全域へ進軍させた。彼は開戦直後に軍事委員会委員長と朝鮮人民軍最高司令官となり、軍を含む政府の権限を掌握した。
周知のように、金日成の思惑と裏腹に米軍は即刻この戦争をソ連の膨張戦争と見なして介入、同年9月の仁川上陸作戦により北朝鮮軍は壊滅して敗走した。そして、同年10月に中国人民志願軍が参戦して中朝連合司令部が形成され、戦争指導をスターリン~毛沢東~彭徳懐が行うようになると、金日成は全ての実権を喪失するに止まらず、今度は敗戦責任を問われる立場へ転落してしまった。他方、朴憲永は労働党の立て直しのため組織された党総政治局長に就任して、党活動の全般的な掌握に近づいていた。
こうして窮地に陥った金日成が打った手こそ、他派閥の粛清と党内での個人崇拝の本格化作業だった。1951年7月に開城で停戦会談が開始されると前後して、戦闘は北緯38度線を挟む一進一退の攻防に変わり、戦線が膠着していった。金日成は戦争指導から外された分、この粛清と個人崇拝を推進する時間的な余裕が与えられ、1952年春から朴憲永はじめ国内派の粛清準備に取り掛かった。彼はスターリンの死去した翌年3月に彼らを「米帝国主義のスパイ」として北朝鮮政府を転覆すべく画策したとの嫌疑で逮捕したのである。
しかも、停戦協定が結ばれた1953年7月には、ソ連派の首魁である許ガイが謎の自殺を遂げた。彼の自殺は金日成の指示によるのではなかったかとも言われ、それから幾らも経たない同年8月、党中央委員会第6次全員会議で金日成は、ついに党委員長に就任した。この従来の通説を覆す経緯は、筆者が執筆中の近刊著書で詳しく明かされるであろう。
しかしながら党首になったとは言え、朴憲永ほどの大物を軽々に処刑するのには無理があり、中ソからも助命活動がなされた。それでも金日成は、1955年12月には延安派の重鎮で内務相だった朴一禹(パギル)を逮捕、処刑してしまう。それと同時に、党内における金日成への呼称は、その尊称の程度が異常に高まり、ついには個人崇拝が極に達することになった。
証拠を伴わない粛清と異常な個人崇拝とは、コインのように表裏一体の関係にある。つまり、ウェーバー(Max Weber)風に言うと支配の「正当性根拠(Legitimitätgrund)」を伴わない為政者が彼の政敵を証拠もなく粛清しようとすれば、神ならぬ身であるからには正当性の欠損(legitimacy deficit)を補完するため、そこに個人崇拝という形で盲目的な服従が要求されるのだ。金日成が権力を掌握するためには、戦争という異常な状況を利用し、国内派の粛清による党内の権力バランスの変化が必要だったのであろう。
Ⅱ.個人独裁体制から家族独裁体制へ:その構造的原理
朝鮮停戦から個人独裁体制の形成に至る過程で、金日成の支配を特徴付ける構造的原理が明瞭に現れた。特に1956年7~8月に起こる「8月宗派事件」と呼ばれる反金日成運動ならびに事件収拾の過程における朴憲永処刑という結末に、その原理が刻印されている。この運動は当時、朝鮮職業総同盟委員長の徐輝(ソフィ)など延安派を中心とした4名が党中央委員会で金日成の排除を画策、実行の末に失敗、身の危険を感じて中国に亡命した事件である。
これら亡命者たちを受け入れた後、毛沢東とソ連首相ミコヤン(A. I. Mikoyan)は北京で会談を持っていた。筆者が入手した中ソ首脳部の会談録など、いくつかの資料から北朝鮮の個人独裁体制の構造的原理を語らせて見よう。まず、毛沢東とミコヤンは、次のように意見交換をしていた。長いが本質を突く内容なので、そのまま引用しよう。
「毛沢東:1953年11月、正にこの部屋で我々は金日成と話を交わした。金日成は『朴憲永の反逆罪の証拠があるが、充分ではない』と述べた。彼は我々に、どうすれば良いか尋ねた。我々は彼に、このような人はどんな理由でも殺してはならないと語った(後略)。
ミコヤン:そうだ。朴憲永は知識人だ。彼は他人を威嚇したことがない。彼は朝鮮労働党の創始者中の一人で、コミンテルン時代の人物だ。我々はモスクワで彼と何度も会った。その時、我々の受けた印象は彼が知識の高い人で、印象はとても良かった(後略)」。
「毛沢東:ソ連共産党第20回代表大会は金日成に、非常に不利だった。20回大会はスターリンの誤りを外に表し、反面で金日成は依然スターリン式そのままにやっているからだ。たった一言の自分に反対する言葉も金日成は我慢できず、反対者は誰でも直ちに処刑する。
ミコヤン:確実にそうだ。金日成はスターリンがやる方式そのままにやっている」。
「ミコヤン:朝鮮労働党第三回代表者大会に参加したソ連中央代表団が伝えるところによると、この大会の代表は全て労働党中央で決定したのであり、選挙を通じて選出されたのではない。この大会は、個人崇拝はソ連の現実であって朝鮮とは無関係だとしつつ、もしも朝鮮にも個人崇拝があるとすれば、それはただ朴憲永にのみあり、現在は彼がもう世に存在しないと明かした。(中略)ソ連の同志たちは、この大会は正式な代表者大会ではないと見ている。会議の開催は、ひとつの形式に過ぎない」。
ここで言う「朝鮮労働党第三回代表者大会」とは、1956年4月に開催された全党大会を指している。ミコヤンとの会談の後、ちょうど訪中していた北朝鮮代表団と会談した毛沢東は、さらに重ねて畳み掛けた。「ある人が異なる意見または反対意見を提示すれば即時、彼らを反党分子、反動と見て党から除名し、逮捕して、甚だしくは殺すことも躊躇しない。過去の皇帝、比較的に開明的な皇帝でも、そうはしていない。ところが、あなた方は一度に数多くの副首相を追い出した。これは、開明的でない皇帝がやることだ。スターリンは最後の一時期この開明的でない皇帝だったが、あなた方の現在が正にそれである。(中略)あなた方は、このように党内問題と朴憲永問題を連結して、自分たちの同志を『反革命』、『反動』などの帽子を被せ、彼らを逮捕して、殺した。これは極めて甚だしい誤りである。(中略)あなた方の党内には、恐怖の感情が充満している」。
この後に中ソから訪朝団が派遣されて北朝鮮首脳部と会談し、事態の改善を求めたが、金日成は会談での約束を反故にしてまった。彼が言い逃れられたのは、ひとえに国際環境の変化が幸いしたからだった。ひとつは東欧で起きた反ソ運動の高まりを受けて、中ソが北朝鮮に対する圧力を控えたこと、もう一つに中ソ対立の激化から、中国もソ連も北朝鮮を追い詰めるのではなく、金日成と和解しようとした。こうして金日成は、1961年9月に朝鮮労働党第4回全党大会を開催し、個人独裁体制を完成させることに成功したのである。
1964.6
1967 1969 1973.4 1973.9 1974.2 1980.10 1990.5 1991.12 1993.4 1997.10 |
党組織指導部指導員
党宣伝煽動部課長 党宣伝煽動部副部長 党文化芸術部長 党秘書 党政治委員 党政治局常務委員+党軍事委員 国防委員会第1副委員長 人民軍最高司令官 国防委員会委員長 党総書記 |
<金正日の権力世襲過程>
だが、毛沢東とミコヤンの会談録から予想できるように、金日成は粛清と個人崇拝という不正な汚い手段で権力を手に入れたから、もしも自分が死んだ時、もしも何の措置も講じずに権力を他人に任せた場合、その報いが必ず現れると考えたのは間違いない。いかに信頼できる人物だとしても、余人にその権力を継承される時、彼の権力への道は暴き出され、その罪業が明るみに出ることは、火を見るよりも明らかだった。
このような経緯から、スターリンでさえ措置しなかった権力を息子に世襲させるという前近代的な罪業隠匿が始まったのである。おそらく金日成の頭には、家族であれば自分の罪業を覆い隠すことができるという観念があったはずだ。これは、朝鮮人に特有な儒教から来る強い家族主義に由来すると思われる。
実際に彼が息子の金正日を党活動に引き入れたのは、上の図表のとおり第4回全党大会から3年後の1964年であった。ここから、金日成の個人独裁体制は、彼を始祖として世襲する家族独裁体制へと変容し始めた。この図表から分かるように、その世襲は本来の憲法や党規に既定すらない国防委員会とか党総書記とかいう異例づくめの職責を作り出す中で行われる外なかった。いかに権力の世襲が異様な事態であるかを示して余りあるであろう。
金日成の権力掌握過程が軍部、政府、党へと進展したように、金正日の権力世襲も党内での昇格と合わせて軍部、政府、党へと進んだことが分かる。金正日も父親と同様に朝鮮人民軍最高司令官となり、軍事委員会ならぬ国防委員会で政府の職責を完全に掌握、その後に金正日も党総書記になった。これは、軍部の掌握により暴力の排他的独占を通じて、自分に敵対する国内の政敵を駆逐する野蛮な伝統と言って良かろう。
そして、この構造的原理から言って血統による世襲は、父から子、子から孫へ罪業を重ねる外ないから、絶えることなく継承を求める属性がある。今回の金正恩による三代世襲は、この意味で当然と言えば当然の結果だった。金正日も父親に劣らず、核開発を理由とした北朝鮮住民の餓死、国外逃亡に伴う住民の処刑や虐殺という事態に大きな責任があることは明白だし、何よりも経済破綻をもたらしたという非難を免れることはできない。長男の金正男(キムジョンナム)が世襲を断ったとも言われる中、金正日にとって三男の金正恩が世襲をしてくれることは、罪業隠匿という意味で幸いだったと言えよう。
Ⅲ.北朝鮮の金正恩:その政治的末路
金正恩は去る9月29日に肥えた醜い姿を初めて示したとは言え、その性格を含む資質など全く正体が知られていない謎の人物である。それに何よりも、彼が父親を世襲するためには何かしら世襲支配の「正当性根拠」を示す実績がなければならない。彼がその実績を積むに当たり、よもや南北関係を最終的な破局へと悪化させるようなことはしないと判断される。それは、彼の実績作りに水を差すばかりか、6者協議への復帰を言明した父親の言葉と食い違うことになり、引いては世襲そのものに影を投げ掛けるだろうからだ。
既に北朝鮮では、2000年6 月の南北首脳会談を契機に開始された開城工業団地における韓国との経済協力が進展している。また、現在は途絶えているものの金剛山観光も盛んに行われ、合わせて軍事分界線をまたぐ鉄道・主要道路の連結事業も進み、現時点でも南北朝鮮を往来することは充分に可能である。確かに北朝鮮は、去る9月30日の南北軍事実務協議で依然かなり強硬な軍事的な態度を堅持しているものの、10月初旬の南北赤十字実務協議の結果や金剛山観光再開の協議提案で示されたように、当面の間つまり2012年に「強盛大国の大門を開く」までは比較的に柔軟な対外姿勢に出て来るものと推定される。
その間に何よりも北朝鮮住民に金正恩の世襲支配の正当性を認めさせる上で、どうしても破綻した経済を立て直す具体的な実績が求められる。この点は、衆目の一致するところであり、いま北朝鮮が頼れるのが中国だけである現況から見て、今後ますます北朝鮮の中国依存は進展すると判断して良い。もちろん、彼らは改革だの開放だのとは言わず、あくまでも「自力更生」を主張するのだろう。だが、中国の他にどこからも投資を呼び込めない以上、北朝鮮が中国の「東北」振興に合わせて、北朝鮮の東北部に位置する羅先特別市を中心に中国資本の導入を図ることは、ほぼ疑う余地がない。実際に金正日その人が本年5月に行われた訪中と前後して、250社余りの中国系企業が進出するという羅先特別市にある羅先大興貿易会社を直接おとずれた事実は、広く報道されたとおりだ。
こう考えると、羅先特別市などを開発して北朝鮮の経済を立て直すことが可能かどうかに、三代世襲の成否が掛かっていることになる。もちろん、額面どおり「強盛大国」が2012年に出現するとは受け取れないが、ともあれ「大門を開く」まで残すところ僅か2年余りしかないことになり、そのような短期間に果たして何が出来るのか甚だ訝しい限りである。また、羅先特別市だけの開発では無理だとすれば、その範囲を他の地域へ拡大することも考えられ、どちらにしても北朝鮮は、経済再建のために国を開くことが不可避であろう。
もともと羅先市近郊の開発が言われ始めたのは、もう1990年代の半ば、より正確に言うと1993年に「黄金の三角地」と称して羅津・先鋒地区を「自由経済貿易地帯」と法的に指定したことに始まる。そして何度か投資説明会を開催したのだが、ほとんどインフラ整備から着手せざるを得ない状況に、香港のエンペラー・グループ等を除いて、どの企業も積極的に投資する姿勢を見せなかった。ところが、ここに来て中国政府が投資企業に損失保証を付けてやる条件を発表、俄然この地域への投資熱が高まったのである。
とは言え、北朝鮮と中国の思惑は当初かなり異なっていたという。この事情を知る前述の金東吉氏の言を借りれば、北朝鮮は開城工団のような純粋に経済協力のみを行う構想を抱いていたのに対し、中国企業が最初に要求したのは「酒と女」だった。中国人の立場から見る時、経済協力をするからには儲けが第一なので、その前祝いとして大いに飲み食い、女を抱こうというわけであった。これに驚いた北朝鮮は、当該地域で行っていた実務者レベルの交渉を政府間レベルへと引き上げ、最後には金正日が決済することになったという。
韓国と北朝鮮の経済協力は、いわば朝鮮民族の「和解と協力」を象徴するモデル事業であって、毒々しい金儲けは二の次という色合いが濃い。これとは対照的に、中国が進出する羅先特別市などでの経済協力では、あくまでも採算が重要視されるから、容赦のない収奪と搾取が行われると見られる。しかしながら、北朝鮮が中国を離れては立ち行かない窮状に追い込まれている今、中国を通じて資本主義の悪しき「弊害」が流入するのは間違いないし、自由主義的な雰囲気は次第に拡散していくと思われる。
言うまでもなく、北朝鮮の為政者たちが最も恐れているのは、そのイデオロギー的な弛緩である。家族独裁体制への批判は中国でも強いから、その愚昧さを笑う中国企業家も現れるであろうし、このような体制批判は自ずと伝播するはずである。金正日と正恩父子の末路は、利用しようとした中国に利用されるという皮肉な結末であり、おそらく中国と結び付いた朝鮮人民軍の内部からの造反という形で現れるのではないだろうか。
今回の党代表者会で注目されるのは、急速度に三代世襲の枠組みを固めようとしたため、革命の第一世代、第二世代と言われる元老級の軍重鎮たちが人事から疎外されてしまった点である。金日成の側近だった崔賢(チェヒョン)の息子である崔龍海(チェリョンヘ)が抜擢されたことは事実であるが、例えば国防委員会副委員長だった呉克烈(オグンニョル)や人民武力相の金永春(キム ヨンチュン)などは全く権力から遠ざけられてしまった。彼らは表面上、今回の権力世襲に従っているかのように見えるが、実際には何の実績もない若造の出現に不平不満を抱えているとも考えられる。
このような不平不満を抱く勢力が、民衆のそれを背に受けて家族独裁体制に反旗を翻す可能性は常々、何か事あるごとに指摘されてきた。おそらく、彼らが中国という支援国の承認を得ることができれば、この反旗は平壌に翻ることになるだろう。このような中国と朝鮮との関係は、歴史上さまざまな形で現れてきたし、今後も現れると見られる。中華的な国際秩序に組み込まれることが良いか悪いかは別問題として中国を宗主国、北朝鮮がその宗属国となる日は、意外に早く来るかも知れない。
Ⅳ.北朝鮮が中国の植民地と化す日:統一の機会を喪う韓国
中国の歴史を進歩のない単なる帝国の興亡と見ていたヘーゲル(G.W.F. Hegel)が、その著書『法哲学』で前近代的な家族の圏から近代的な市民社会における個人の独立へ至る自由への上昇について書いてから既に久しい。彼の論理に従えば「最後に現れる、あの冷たい人格という点」まで北朝鮮の家族独裁体制は到達していない分けだ。確かに権力の三代世襲という前近代的な珍事は、日本で65年前に戦争が終わって、天皇支配体制が実質的な権力を伴わない「象徴」天皇制に変えられて後、近代世界のどこにも見出せない。
しかしながら、自由への要求は北朝鮮社会でも人間が住む限り押さえつけることは出来ない。少なくとも経済活動で自由主義的な手法を導入するところからは、堤防の小さな穴を水が穿ち、終には堰を壊してしまうように、自由の水は北朝鮮社会に浸透して広がり、家族独裁体制を飲みつくす大きなうねりとなり得る。
北朝鮮が中国と決定的に異なるのは前述のとおり、もともと金日成の権力に支配の「正当性根拠」がない点である。毛沢東が率いる中国共産党が抗日闘争から国共内戦を経て曲がりなりにも中国を統一したのに比べて、金日成は朝鮮戦争による「国土の完整」に失敗したし、だからこそ姑息な手段で権力を手に入れる外なかった。権力の世襲も正に、この金日成による支配の正当性根拠の希薄さから出た結果だったわけであるが、そこには歴史の偽造を通じたホラ話しかないから、当事者の統治能力が判明するに伴い、自ずと民衆の離反から体制の変更を求める要求が現れるようになる。
現在の韓国では李明博大統領の指示の下で、北朝鮮の体制崩壊に備える措置が着々と進められている。そこでは「統一税」なる新税を設け、統一に伴って起こる韓国の負担を賄おうという措置まで考えられている。韓国民とすれば、そんな負担を背負う道理がどこにあるのか、どうにも合点の行かない話ではあろう。ある試算によると、北朝鮮の急変事態などで崩壊による吸収統一で必要な経費は、30年間に2兆1,400億ドルに上るそうだから、事実上それは韓国の国家破綻を招来することになる(『朝日新聞』2010年9月30日、5面)。
また、北朝鮮の有事を想定した軍事訓練を重ねたところで、朝鮮戦争の時のように北朝鮮が韓国を全面攻撃でもしない限り、米韓両国が北朝鮮の領土へ侵入することは不可能である。もちろん、崩壊の危機に直面した体制が自暴自棄になって戦争に打って出るというシナリオは考えられなくもないけれども、中国が経済協力を通じて北朝鮮の政治にまで影響力を行使できるようになるのは明らかだから、そのような暴発を座視するはずはない。中国人民解放軍は北朝鮮内の自国民の生命や財産を保護するという名目で、いつでも、どこからでも北朝鮮に入ることができるからだ。
したがって、仮に北朝鮮が崩壊する場合、政治・軍事的な側面から見ても経済的な側面から見ても、中国が非常事態を収拾する当事者として立ち現れることは明白である。米国が押っ取り刀で駆け付けても、既に北朝鮮全域に人民解放軍は展開していて、入り込む隙が無いという結果、事実上また北朝鮮は朝鮮停戦当時の中国軍の占領下ということになる。
この時に北朝鮮内部で家族独裁体制の当事者たちがどんな運命を辿るか、想像するだに恐ろしい。新しく中国が据え置く傀儡政権は、それまでの体制を批判することにより自らの支配の「正当性根拠」を示そうとするだろう。ここから金日成、金正日、そして金正恩とその家族全員の罪業や悪行が誇張されて宣伝されるだけでなく、そのうちの何人かは公開処刑される等、北朝鮮住民の溜飲を下げるために利用されるであろう。そして、あたかも中国は北朝鮮住民の「解放軍」であるかのように、その占領意義を強調するに違いない。もちろん、時期が来れば彼らは撤収するにしろ、強固な影響力が傀儡政権を通じて行使される限り、韓国は統一の機会を失い、米中対峙の状況が長く続くことになろう。
おわりに:三代世襲は損か得か
結論として本稿は、北朝鮮における三代世襲が失敗すると見る。そして、誰もが期待するように、その後より良い体制が生まれるのではなく、中国の植民地と化して韓国から統一の機会を奪うだろうと考える。この先、中国が発展していく過程で中国共産党の一党支配が崩壊して内乱状態にでもならない限り、朝鮮民族は引き裂かれたまま統一できない。
このように展望すると、三代世襲は朝鮮民族全体に対する罪悪だと言えるかも知れない。韓国だけで充分に発展したのだから北朝鮮は不要だと言う人もいるだろうが、「拉致問題」を抱える日本としては先の尖閣問題で中国と付き合う困難さを見せつけられた以上、このまま手をこまねいていては中国も北朝鮮も失う虻蜂取らずという目に遭うのは必至である。
筆者は常々、北朝鮮との国交正常化は北東アジアでの勢力均衡という意味でこそ急がれるべきだと主張してきた。いかに米国の支援が期待できるとは言え、日本は中国と張り合いながら今後も暮らしていく外はないからだ。中国、韓国、北朝鮮は国家を基本に考えて行動する以上、今後も領土問題を含む熾烈な国家間の権力関係を乗り越えねばならない。
そのためにも、いま日本が関係改善できる北朝鮮とは早期に国交正常化交渉の再開を求めたい。いかに三代世襲が愚劣で醜悪だとしても、北朝鮮に影響力を行使する口実さえ無い現状で、どうして中国に競合できるであろうか。別に中国と争えという意味ではなく、あくまでも苛烈な国際政治の現実を念頭に、経済協力方式で提供する日本の金が北朝鮮を再生させるのであれば、それは中国の植民地と化す危機から彼らを救い出し、日朝関係に良い影響を与えこそすれ、悪い結果にはならないはずなのである。
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〔eye1062:101005〕
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