平和行進に参加して――このままでいいのかな?
- 2013年 7月 17日
- 評論・紹介・意見
- 平和運動阿部治平
―八ヶ岳山麓から(74)―
7月9日、「2013原水爆禁止国民平和大行進―原村コース」に参加した。「核兵器廃絶をめざし――あなたの一歩が大切です、ぜひご参加ください」という呼びかけに応えたつもりである。
私は集合時間の午後1時半に中継地点の穴山郵便局に自転車でいった。もう15,6人の人が茅野市玉川の行進を穴山郵便局の前で待っていた。これから柳沢―八つ手―払沢―村役場―中新田―白山の一本松と、集落を通る道を4時40分まで歩くことになっている。標高1000メートルの等高線をたどるコースだが、年配者が27,8度の気温のなか、延々6キロほどの道のりを故障もなく歩き通せるか心配だった。東京や大阪では35度の何のといい、日本各所で熱中症で死者も出たという天気だった。
まもなく茅野市の10人余りの人が宣伝カーを先頭にやって来た。
「やあ、八つ手出身の人も来たぞ」と、村会議員のトシハルさぁが茅野市のデモの中に知人を発見して私に紹介した。そのはつらつとした青年の父親が誰それと分かったとき、私は感動した。彼の父親は「平和大行進」に参加するような人ではなかった。その息子はいまこうして私らと手をつないでいる。
それにしても教職員組合の先生がたを除けばみな老人というのはさびしい。
家並みを見ると荒れた家が多くなったのに気が付く。これは私たち地元の者の気持を揺り動かした。自然に「村の人口は移住者によって少し増えているというのに在来の家が無人になるなんて」とか、「跡取りが帰って来ないからだ」とか、「俺の家もゆくゆくはこうなるかもしれない」などと話し合った。
3時過ぎ、役場で40分ほど休んだ。助役と村議会議長が来て、広島・長崎の原爆投下からすでに68年、一日も早い核兵器の廃絶をと、至極もっともな挨拶をして協賛ののし袋をくれた。
休憩時間に、参加者は一人一人挨拶をする習慣になっていて、それぞれ短い発言をした。この行進が始まって以来一回も欠かしたことがないという人がいた。原村民になってから5年ですとか、10年ですとかと自己紹介をする人もいた。日本がアメリカと戦争をしたことを知らない若者がいる、と歴史教育の重要性を訴えた人もいた。
私は平和行進には初めての参加だから、何といっていいかわからず、原水爆禁止世界大会の第3回大会に参加したことがあるのを思い出して、それをいった。あのとき高校の同級生ヤナギサワ君と、はじめて東京へ行ったのだった。彼は報道写真家になって、カンボジア戦争のときポルポト派につかまって殺されてしまった。
みなさんの話を聞きながら、中国人の友人と核問題の議論をやって、やっつけられたことも思い出した。私は、中国も核兵器廃絶の方向に動くべきだといった。友人は吹き出した。
「日本にはアメリカ軍がいる。原子力空母も核ミサイルもある。もし日本人が中国に核兵器の放棄を求めるなら、アメリカ軍を撤退させてからだね」
対米従属の日米同盟があって、自衛隊がアメリカ軍の補完部隊として存在している以上、いまだにこの議論に太刀打ちできない。
友人らと憲法九条の話もした。私は常々疑問に思っていたから、「日本は憲法条文の通り非武装、丸腰でいくべきか、それとも自衛隊の現状程度がいいのか」と聞いた。「アメリカと平等の地位になれば、専守防衛の軍備は必要じゃないか」と挑発的な質問もしたが、はかばかしい返事はなかった。
みちみち、デモの先頭に立つ宣伝車は、「北朝鮮の核実験に軍事的に対応するのではなく、外交交渉で解決すべきだ」と訴えていた。安倍内閣が「敵基地を打つ能力を持つ攻撃力を」といいだしたのを意識してのことだろう。
中新田にたどり着いて一休みしたとき、かなりの家が新しい屋根材でおおわれているのに気が付いた。トシハルさぁは「セルリー(セロリーのこと)で稼いだ家が多いからかなあ」といった。
原村は夏場セロリー生産が全国の7割を占める。セロリーは手取りがいいとしても、仕事は楽じゃない。農協から「あした朝5時200箱」と出荷要請があれば、夜中でも蚊取線香を腰に下げ、ヘッドライトをつけて収穫をしなければならない。屈強の若者でも痩せてしまう。セロリーの箱は重いから腰痛症になりがちだ。そうなるとビニールハウスの作物は、ドライフラワーなど比較的軽いものに変えざるをえない。
「野菜は植えたらそのまま育つというものじゃないんですね」という人がいた。よそから移住した人だ。農家の人が「そうだ、大変だぞ」と力を入れて答えたのでみな笑った。
村の働き手の中心は70歳くらいだ。あと5年で今の半分に減る。TPPが来る前に村の農業は変わるという、いつもの議論になった。
またみちみち、1963年に部分的核実験停止条約の評価をめぐって原水禁運動が分裂したが、社会党系の原水爆禁止運動はどうなっているのかという話も出た。1960年代に日本共産党に「ソ連の核実験は防衛的なもの」といった議論があって、日本の平和運動に亀裂が入ったように思う。あのころ、中学の恩師キブネ先生が友人のノリと私に、「核の本質からしてソ連の原爆実験が防衛的とは解せない」と力説したことがあった。ノリと私は、ソ連は社会主義の立派な国だと思っていたから先生に反対した。今日ではその間違いは明らかだ。なにより分裂することが間違いだった。
情勢が情勢だから広島や長崎の集会は統一してほしいとは思うものの、私の周りには最近の事情を知る人がいないので、中央の様子はわからなかった。3・11の東電福島原発事故があっても脱原発で一致できないとしたら、平和運動の運命はきまったようなものだ。
炎天下、アスファルト道路の照り返しの中、80歳すぎの方もいるというのに、20人ばかりのデモ隊は、なんとか4時10分には富士見町との中継点の一本松についた。富士見町のデモ隊にリレーすると、流れ解散となった。飲み会くらいやってもいいのだが、みな車に便乗してあっさり帰って行った。
私は少し頭がぼんやりした。熱中症だといって友人宅に押しかけ、ビールを頂戴して水分を補給した。
友人らとひとしきり平和運動について議論をした。以下、いいっぱなしの内容。
――若い者は町へ勤めにいっている、農家は野良に出ている、誰もいない村なかを自動車のスピーカーでがなり立てても、振り向いてくれるものはいない。――宣伝にはならない。まあ内向きのデモだ。夏が来るたび、自分たちは憲法擁護・平和派だと確認するためだ。
――憲法擁護とか平和をいうだけで人を引きつける時代は終わったのだが、それに気が付いていても、やはり惰性で昔ながらの行事をやる。憲法改悪に反対する勢力を結集しようとなれば、やはり既成の政党とか組織をたよりにする。どうやったって協力関係ができないのに。
――まだ俺たちは新しい戦術がわからないでいる。だからアメリカでさえ安倍内閣の軍国主義路線を警戒しているというのに、その流れを押しとどめることができないでいる。
――平和行進は顔なじみの爺さん婆さんがほとんどだった。憲法の学習会も反原発デモと福島飯舘村の人の講演会もいつも同じメンバーだ。自民党とたたかうなら若者が必要だ。
――仕方がない。それだけ俺たちは若者を引き付けられない少数派だということだ。行進の途中でぶっ倒れる人がいなかっただけでもよかったよ。
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