安倍総理!「尖閣は日本領」は偶然の結果なのですぞ
- 2013年 7月 21日
- 評論・紹介・意見
- 尖閣問題田畑光永
暴論珍説メモ(125)
米中首脳会談でのやり取りは?
尖閣諸島(中国名:釣魚島)をめぐる対立は話し合いへのめども立たず、依然として睨み合いが続いている。最近の動きで注目されるのは、いささか旧聞になってしまったが、6月7,8の両日米カリフォルニア州で行われたオバマ・習近平の米中首脳会談でのやり取りである。
中國側の楊潔篪国務委員の会見は「習主席はオバマ大統領に対して、中国は釣魚島、南海(南シナ海)における原則的立場を説明し、中国は断固として国家主権と領土を守り抜くと同時に、一貫して対話を通じて問題を処理、解決することを主張していると強調した。関係各国が責任ある態度で挑発をやめ、早急に対話を通じて問題を処理、解決する軌道に戻ることを希望した」と、原則論を繰り返すに止まった。
一方、米側のドニロン大統領補佐官のブリーフィングは次のようなものであった。
「センカク島の問題は昨夜(7日夜)の晩さん会の席で多少時間をかけて(at some length)議論された。これについての合衆国の立場はご承知のように、主権問題については究極的に特定の立場をとらないというものであるが、昨夜の大統領の話の大筋(along these lines)は、当事国は東シナ海での行動を通じてではなく、外交経路を通じて(through diplomatic channels)対話を持つべきである、ということであった」
ここで注目されるのは、「多少時間をかけて」である。つまり、両者のやり取りはここで要約された以上のものであったこと、おそらく安倍首相の一連の言動についての両者の見解が交換されたものと見ていいだろう。その結果が「外交経路を通じて・・・」である。
安倍首相が「尖閣に領土問題はない。したがって交渉はしない」という立場に固執していることに対して、「外交チャネルを通じて」と言うことで、オバマ大統領は明確に「支持できない」との意思表示をしたのである。勿論、これまでの「力による現状変更に反対する」態度にも変更はないことは、「行動を通じてではなく」に示されている。
ところがこの首脳会談の結果をについて日本政府は、その後の部分だけを強調し、あたかもオバマ大統領が習近平主席との会談で安倍首相の肩を持って、「尖閣防衛」を約束してくれたかのように日本国内に宣伝した。
そこで6月13日、オバマ・安倍電話会談が設定された。これは米中首脳会談の中身を伝えたものと説明されたが、じつは大統領は首相の尖閣への対応を含む一連の対アジア外交について、この電話でかなりの苦言を呈したのだと思われる。その裏付けとしては、直後に北アイルランドで開かれたG8首脳会議の際に行われる予定だった日米首脳会談が「電話で十分話したから」という珍しい理由で突如キャンセルされたことが挙げられる。「十分話したから」は「いくら話しても無駄だから」とも解される。おそらく大統領の苦言に首相がはかばかしい回答をしなかったことへの大統領の不快感の表明としてのキャンセルではなかったか。
これが当たっているかどうかは別にして、流石の安倍首相も中国を放って置けないと感じたのであろう。谷内正太郎内閣官房参与を6月17日からの週に中國に派遣した。谷内氏は第1次安倍内閣当時の外務次官で、安倍首相の最初の外遊を中国訪問にアレンジした人物である。その人脈で尖閣抜きの首脳対話の可能性を探ったと見られる。谷内氏はその後も再度訪中したと伝えられるが、7月2日の『読売』によると、中国側は日中首脳会談を開く条件として、1.日本政府が領土問題の存在を認める、2.日中双方が問題を棚上げする、の2点を提示したが、谷内氏はそれを「日本政府として認められない」と中国側の戴秉国前国務委員に回答したという。
結局、オバマ大統領に促された形で中国側にアプローチしたものの、首脳会談開催への道をつけることは不調に終わった。そして安倍首相は7月7日のフジテレビ、NHKの討論番組で「会談に条件をつけるのは間違っている」と中国側を非難した。安倍首相は歴史問題、たとえば侵略の定義などでは「専門家に任せよう」と逃げるのが得意技だが、気に入らない状況になると、簡単に相手を「間違っている」と決めつける癖がある。ともかくこれで現在、日中政府間には話の継ぎ穂もなくなった。
結局、米中両首脳が「対話を」と主張するのに対して、安倍首相は「領有権問題は存在しないのだから、交渉はしない」、「領有権問題の存在を認めたうえで会談しようというのは、会談に条件をつけるもので、『間違っている』」と言う。しかし、「尖閣を話さない条件で会談しよう」というのも、立派な条件付きであることに本人は気が付いているのかどうか。
なぜ日本領?
それにしても安倍首相はどうしてそこまで尖閣諸島が日本領だと確信できるのだろうか。歴史をたどれば、現在、あの島々が「日本領」であることは、まったく偶然の結果としか言いようがない。それをまるで「日本領であることは当然」という態度でふんぞり返るのは滑稽でさえある。以下にどんな「偶然」か、を明らかにしておきたい。というのは、中国の主張も都合の悪いところは頬被りで逃げる、かなりいい加減なものだからである。
日本政府の領有主張の最大の根拠は、1895年1月14日の閣議で「石垣島北方の無人島に標杭を立てることを沖縄県に許可した」(つまり日本領に編入した)のだから、その3か月後、日清戦争勝利の結果として、下関条約によって清国から割譲を受けた「台湾・澎湖島とその付属島嶼」には含まれず、したがって第二次大戦での敗戦の結果として中国に返還すべき領土ではない、というところにある。
この主張はさまざまな角度から見て、とても成り立たない。とりわけ、当時、内外にその決定を知らしめなかったことは、領土編入手続きとしては致命的欠陥である。中国側の批判を俟つまでもなく、古くは1970年代初めの井上清教授の『尖閣列島』から最近の村田忠禧教授の『日中領土問題の起源』まで、数多くの日本人研究者によって、その理由は明らかにされているので、ここではあらためて触れない。
一方、中国側の領有主張は、まずたくさんの文献を挙げて、中国は600年くらい昔からあの島々を知っていた(つまり領有していた)ことを強調し、次に1895年の日本政府の閣議決定の無効を論じ、それから戦後の経緯に論を進める。
問題はその戦後部分である。昨年9月25日に国務院新聞弁公室が公表した「釣魚島は中国固有の領土である」という白書はこう書く。(中国側の翻訳による)
「1943年12月の『カイロ宣言』は、『日本が窃取した中国の領土、例えば東北四省、台湾、澎湖群島などは中華民国に返還する。その他日本が武力または貪欲によって奪取した土地からも必ず日本を追い出す』と明文で定めている。1945年7月の『ポツダム宣言』第8条では『カイロ宣言の条件は必ず実施されなければならず、日本の主権は必ず本州、北海道、九州、四国およびわれわれが定めたその他の小さな島の範囲に限るものとする』と定められている。
1945年9月2日、日本政府は『日本降伏文書』において、『ポツダム宣言』を受け入れ、かつ『ポツダム宣言』で定めた各項の規定を忠実に履行することを承諾した。
1946年1月29日の『盟軍(連合国軍)最高司令部訓令(scapin)第677号』では、日本の施政権の範囲が『日本の四つの主要島嶼と、対馬諸島、北緯30度以北の琉球諸島を含む約一千の隣接諸島嶼』であることが定められている。(続いて台湾返還の式典などに触れて)・・・以上の事実が示しているように、『カイロ宣言』『ポツダム宣言』『日本降伏文書』に基づき、釣魚島は台湾の付属島嶼として台湾と一緒に中国に返還されるべきものである」
引用が長くなったが、要するに「日本は降伏にあたって中国から取ったものは返せと言われ、返しますと言ったのに、釣魚島を返していない、返せ」ということである。
最近はこの論理を拡大して、日本は第2次大戦の戦後秩序を踏みにじっているという攻撃まで加えている。さる5月26日、ドイツのポツダムを訪れた李克強首相は、上記の経緯に触れた後、「日本が中国から盗み取った領土が返還されることは、数千万の人命と引き換えに得られた勝利の果実であり、第2次大戦後の世界平和の秩序の重要な保証である」と記者団にのべた。
中国国務院の「白書」といい、李首相の発言といい、いずれも日本はポツダム宣言で返せと言われた領土を、日本の意思で返さずに保持し続けているように聞こえる。「それなら日本が悪い」という国際世論を喚起したいようである。
事実はどうか。日本は「返した」、というか、正確に言えば「取られた」。台湾・澎湖島のほか、旧満州、サハリンと北方4島を取り上げられ、さらに白書が言うようにscapin677によって「北緯30度以南の島々(勿論、尖閣諸島を含めて)」も日本の主権から切り離されて、連合軍の統治下に入った。これは連合軍の行政命令で、ポツダム宣言に言う「われわれ(連合国)が定めた」日本の領土の境界ではないが、これによって北緯30度以南の南西諸島(種子島、屋久島以南)は日本の主権の及ばない地域とされた。敗戦直後の日本に連合軍に反抗してポツダム宣言を守らないなどという振る舞いが出来るはずもなかった。つまりその時点で沖縄も尖閣も日本領ではなくなったのである。
そしてその地域を最終的にどうするかはまさしく「連合国が決める」ことであった。日本には何の発言権もなかった。その時点で連合国の有力な一員であった中華民国が一言「魚釣島は自分のものだ」といえば、100%そうなったであろう。ところがそう要求しなかった。なぜしなかったかは中華民国の問題であり、もとより日本は関知しない。
その後、尖閣諸島は連合軍の統治下から、サンフランシスコ講和条約によって米軍の統治下に移った。同条約第3条では「日本は将来、米国が南西諸島を、米国を唯一の施政権者とする信託統治にすると国連に提案した場合には同意する」と約束させられている。この条項はいずれ信託統治から独立へというコースを前提にしているように受け取れる。そうなった場合にも日本は文句は言いませんとあらかじめ約束している条項だ。もしそうなれば尖閣はおろか沖縄も日本へ戻ることはなかったはずだ。
しかし、結局、米国が1972年に尖閣を含めて沖縄を日本に返したから戻ってきたのである。日本が握り続けていたわけではない。尖閣諸島の戦後の運命は1895年の日本政府の閣議決定が有効か無効かという問題とは無関係なのである。中国はポツダム宣言に明示されている日本降伏の条件が守られていないと言って、怒っているわけだが、その怒りはポツダム宣言の条項を実行する権限を持っていたものに向けられるべきものである。それは言うまでもなく当時の連合国である。
中国政府も、台湾の中華民国政府も、このあたりになるととたんに歯切れが悪くなる。当時の権限のありかには触れず、サンフランシスコの講和会議にどちらも呼ばれなかったことを以て、その結果には縛られないと言ったり、中国は中華民国が1952年に日本と結んだ日華平和条約は「無効であり、認められない」と言ったりする。
しかし、サンフランシスコに北京、台湾いずれの政府も呼ばれなかったのは、中国が2つの政府に分裂していたからであり、それに日本は責任を負う立場にない。
また中国政府は1971年秋の国連総会で、中華民国から国連代表権を引き継いだからこそ、安保理事会の常任理事国の地位にもついているのである。本来なら中華民国が結んだ条約をも引き継ぐのが筋なのである。
ともかく、基本は戦敗国である日本の領土を決定する権限を持つ連合国の一員でありながら、中華民国がこと尖閣諸島に関してはまったく注意を向けなかったことにある。戦後すぐにも領有を言わず、1952年にあの島々が沖縄とともに米国の施政権下に移ったことにも異議を申し立てず、終戦から27年、講和発効から20年も経って、その間、さまざまな経緯を経て米国から日本へ返される段になって、中華民国も、中国政府もにわかに騒ぎ出した。
よしんば、それも認めるとしても、抗議の相手は米国でなければならないはずだ。なぜなら沖縄とともに尖閣を日本に返したのは米国であって、日本が米国から奪い取ったわけではないからである。
どうすればいいのか
経過をたどると、あの島々が法律的に日本領として現存することはまったく偶然の結果であることを痛感する。
ということは、相手側の中国はさぞ腹立たしいであろうことは察するに余りある。個人のものならば、「それならどうぞ」と進呈してしまえば、よほどすっきりするところだが、国家間の領土問題となるとそうはいかない。国家の不注意、不作為も時間が経てば、現実として定着する。
同時に、だからといって、それをたてに近隣どうしが血相を変えて争うのは、どちらにもプラスにならない。現実は現実と認めたうえで、ゼロサムでなく、双方がなんとか我慢できる妥協点を探すしかない。
ところが現状は、双方の政府とも自国民に弱みを見せないために突っ張る以外に手はないと考えているようである。この手詰まりを抜け出すには、歴史の真実を両国民に知らせるしかない。それには双方が落ち着いて話をすることである。非難や悪罵は相手を硬化させるだけである。
手始めに「無条件に領有権問題を議題に交渉」を開始するべきである。
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〔opinion1375:130721〕
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