治安部隊が同胞団を大規模虐殺―最悪の事態に
- 2013年 7月 29日
- 評論・紹介・意見
- エジプトクーデター坂井定雄
―クーデター後のエジプト(3)―
▽ナセル政権以来の弾圧
軍に拘束されたままのモルシ大統領の解放と復権を求め、カイロ郊外ナセルシティで座り込みを続けているムスリム同胞団中心のモルシ支持派を27日未明、内務省所属の治安部隊が攻撃、支持派の民衆100人以上が死亡(死傷者収容の病院の医師の説明。保健省発表は80人以上)、4,500人以上が重軽傷を負う流血の惨事となった。英BBC放送は病院取材から「病院の医師たちは、死傷者の70%は銃弾が原因で、その多くは車や屋根の上から胸や頭を狙撃されたものだ、と言っている」と伝えている。事件後、ムスリム同胞団は「平和的な抗議行動をしている民衆の虐殺だ」と激しく非難し、座り込みを続けると表明。一方イブラヒム内相は記者会見で、「デモ隊を間もなく追い払う」と発言しており、さらに流血が拡大する危険がある。
7月8日に軍は、モルシ氏が拘束されていた軍の大統領警備隊本部前に集まったモルシ支持派のデモ隊を激しく銃撃、53人が死亡したが、それを上回る今回の虐殺は、内務省所属中央治安警察軍の部隊の行動。軍が内務省を従えて、ムスリム同胞団・親モルシ派を武力で、押さえつけようとしている。クーデターの本質がむき出しになった。
エジプトではムスリム同胞団も背後で支えた1952年の民族主義革命のあと、54年になってナセル大統領が同胞団弾圧を非合法化して、多数を投獄、一部をナセル暗殺未遂の容疑で死刑にした歴史がある。その後の、軍出身のサダト、ムバラク政権時代も、同胞団は非合法化されたままだったが、福祉活動や職能組合の活動などで支持者を広げた。政権側も同胞団から離れた過激派を厳しく弾圧する一方で、同胞団を直接弾圧することは避けてきた。今回のクーデター後の軍の行動はナセル以来、最悪の弾圧だ。
今回、前日の26日、「反テロ・反暴力」をスローガンにした軍の呼びかけで、カイロのタハリール広場には、数万人以上が集まった。反モルシ運動を先導してきた「救国戦線」のリベラル・世俗勢力、大統領辞任要求の署名運動を推進した若者組織「タマルド」、ナセル主義組織や労働組合など左派勢力が結集、軍への支持を叫んだ。目の前の内務省、警察の幹部たちも参加した。軍は、航空機を上空に旋回させて、デモ隊の歓呼に応えた。
さらに、軍に拘束されたままのモルシ大統領に対し、裁判所は26日、2011年の革命のさい、パレスチナのイスラム勢力ハマスと協力してシナイ半島の監獄を攻撃、投獄されていた自分と他の同胞団員を脱走させた容疑で取り調べるためとして、15日間の拘束令状を出した。法的手続きなしの大統領拘束への国際的非難にようやく対応した形だった。
▽軍と反モルシ勢力は「クーデターではない」と主張
エジプト軍はなぜ、わずか1年前に、民主的な大統領選挙で選ばれた無防備のモルシ大統領を拘束し、国家元首・軍最高司令官の権力を奪取したのか。前稿で書いた通り、国際的基準・常識からみて、法治国家・議会制民主主義を踏みにじったクーデターだった。しかし、モルシ辞任を要求して大規模なデモを組織した反モルシ勢力は、口をそろえて「軍は国民と国家のために必要な措置をとったのであり、クーデターではない」と軍の行動を支持、軍は「国家の安全保障上、必要な行動だった」と釈明した。それほど、クーデターは民主主義に反する行動であり、エジプトだけでなく、腐敗した独裁政権を打倒した「アラブの春」の最も重要な理念を裏切ることだった。軍のクーデターで苦い経験を重ねてきたアフリカ諸国の最も重要な協力機構のアフリカ連合は、直ちにエジプトの資格停止を決めた。
現実にエジプトでは、モルシ政権満一年の6月30日、全国で双方とも100万人を超す、反モルシ勢力と親モルシ勢力の大規模なデモが行われ、いわば国論がまさに二分していた。
しかし、半数以上の国民は、大統領選挙(投票率46%)と同様、参加せず、見守っていた。両勢力とも、デモ隊間の衝突を避けるよう「平和的な行動」を指令し、離れて行動し死傷者もわずかだった。44万人のエジプト軍と32万人の内務省所属の中央治安警察軍が、両者の大規模な衝突を制止することは十分可能で、時間をかけて政治的解決を探ることはできたはずだ。しかしシーシ軍最高評議会議長は、翌7月1日、双方に48時間の期限をつけて政治解決の合意を要求、期限切れを期して、大統領を拘束、憲法を停止し、暫定大統領に最高憲法裁判所長官のマンスールを指名した。
▽米国もメディアも予想外だった
しかし、エジプト情勢を注視してきた米国はじめ各国も世界のメディアも、軍がクーデターを決行するとは予想していなかった。それには理由がある。
2011年2月11日、民衆の革命的決起によってムバラク独裁政権が崩壊した際、軍は基本的に中立を守り、最後にタンタウィ軍最高評議会議長が軍出身のムバラク大統領を説得して、自ら辞任させた。軍政を樹立したが、世界はクーデターとはみなさなかった。軍政は当初から、民主化プロセスを進めて、民政に移管することを表明。12年6月の大統領選挙、同30日のモルシ大統領就任で民政移管の約束を実行した。軍政の1年4か月の間、軍政に批判が強く、軍政の早期終了を要求してデモを繰り返し、軍憲兵隊の乱暴な鎮圧をうけたのは、昨年秋以降、反モルシ政権批判を強めたリベラル勢力、左派や世俗勢力だった。一方、ムスリム同胞団を中心とするイスラム主義勢力は、リベラル派や世俗勢力に比べはるかに選挙態勢づくりが進んでいたこともあり、軍政の進める政治プロセスに協力的だった。そして、決選投票のすえ大統領選挙に当選・就任したモルシは、当初からタンタウィ軍最高評議会議長兼国防相との協調を演出したが、間もなく、大統領兼軍最高司令官の権限を発揮して同議長を退役させ、シーシ将軍を議長兼国防相に任命。その後相次いで陸・空・海三軍の参謀長はじめ全軍の主要幹部を入れ替え、高齢者を退役させた。軍はこの人事を黙って受け入れた。
その後もシーシ以下の軍部はモルシ大統領に従い、国民の不信感が強い治安警察の乱暴なデモ鎮圧に際して、警察側とデモ隊を引き離し衝突の拡大を防ぐなどの行動をとってきた。軍はモルシ政権と協調し、大統領も、軍の主張に耳を傾けていた。(続く)
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