移動劇団桜隊の原爆忌に参加して
- 2013年 8月 10日
- 評論・紹介・意見
- 原爆広島桜隊醍醐聡
8月6日、10時半から目黒区の五百羅漢寺で開かれた桜隊原爆殉難者追悼会に参加した。昨年も同じ8月6日に行われた慰霊忌に参加の申し込みをしたが、急きょ、社会保障と税の一体改革に関する参議院中央公聴会に公述人として出席することになり、かなわなかった。今年は原爆忌の会から案内が届き、参加の返信を送っていた。
2年前の夏に訪ねた広島の「さくら演劇隊原爆殉難碑」
桜隊のことを知ったのは2年前の8月28日、広島を訪ね、原爆史跡巡りをした時だった。その時のことを同年8月31日付けでこのブログに書き留めている。
「『原爆』という文字を禁制したアメリカ占領軍のプレスコード~この夏も原爆の史跡めぐりに広島へ(Part1)」~ 2011年8月31日
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/part-b778.html
この日、広島平和公園内の数々の慰霊碑を回って平和大橋の東詰に来たところで、ガイドブックにしていた澤野重男・太田武男ほか著『観光コースでない広島』(高文研)を取り出して位置を確かめた後、比治山を前方に見ながら平和通りの北側の歩道を西へ進むと、「廣島第一縣女原爆犠牲者追憶之碑」がある。碑の一角には「昭和20年8月6日遭難 職員校長共20名、生徒277名及同窓生」と記され、「今学び舎のこの跡に受難のあとを弔いてみ墓の前にぬかずけば無量の思い胸にわく おお師の君よわが友よ 鎮まり給いて安らけく」という追憶の言葉が刻まれている。
「さくら演劇隊原爆殉難碑」はそこから、100mも離れない場所にあった。上部が斜めに切られた三角柱の石碑の一面には「1945年没す」として「丸山定夫 高山象三 園井恵子 仲みどり 森下彰子 羽原京子 島木つや子 笠絅子 小室喜代」の9名の名前が彫られていた。石碑の右手に置かれた金属製の表示板には、「移動劇団さくら隊原爆殉難碑の由来」と題して次のような文章が記されていた。
「広島の移動演劇さくら隊原爆殉難碑は、原爆投下から7年後の1951(昭和26年8月)中国新聞社芸能記者の人たちによって『丸山定夫・園井恵子 追慕の碑』として、白いペンキ塗りの質素な木の碑として新川場町のどぶ川のほとりに建立された。それから4年後の1955年(昭和30年)8月に広島で開かれた第一回原水爆禁止世界大会で、碑の建設が、劇団俳優座の永田靖氏らによって、新劇人へ呼びかけられた。建設にあたっては徳川無声、八田元夫、山本安英の各氏が奔走し、1959年(昭和34年)8月、新制作座、文学座、俳優座、ぶどう会、民芸、中央芸術劇場の6劇団と『演劇人戦争犠牲者記念会』の協力によって建立された。碑の『桜隊』の『桜』が『さくら』と仮名文字で彫られているのは、占領下のもとであったため漢字の『桜』は使用できなかった。 2000年9月 広島市民劇場」
桜隊の沿革
桜隊の沿革は1923(大正12)年に土方与志と小山内薫が中心となって演劇組織/築地小劇場を結成し、同名の劇場建設と演劇運動を始めた時にさかのぼる。1930年、内部での意見の対立から劇団は解散、1940年には「国民新劇場」に改称した。しかし、翌41年6月9日、内閣情報局によって「日本移動演劇連盟」が結成され、同年12月8日には日本は真珠湾攻撃を決行し、太平洋戦争に突入した。これに伴い、すべての演劇人も大政翼賛体制に組み込まれた。こうした不自由な状況から逃れようと丸山定夫らは劇団「苦楽座」を創立し、地方への慰問巡演活動を始めた。元宝塚歌劇団スターの園井恵子もこれに参加した。
1945(昭和20)年7月5日、9名の劇団員は広島を出発して島根、鳥取など山陰地方を巡演して16日、広島に戻り、団を再編成して次の巡演地、山口県へ向かう予定の8月6日の朝、爆心地から750mの滞在先で一同揃って食事中に被爆。
9名のうち、島木つや子、森下彰子、羽原京子、笠絅子、小室喜代の5人は即死。丸山定夫はかろうじて厳島の存光寺へ辿りついたが、発熱、脱毛、血を吐き悶え苦しんだ末に二週間後に死去した。
園井恵子と高山象三は神戸へ辿りついたが丸山定夫と同じ症状で3週間後に血を吐いて亡くなった。
仲みどりはシーツ一枚をまとう格好で避難列車に乗って東京杉並区の母の家に戻った。しかし、容態の異変に驚き、東大病院に入院したが、4週間後の24日、丸山、園井らと同じ症状で死去した(以上、新藤兼人「さくら隊ノート」、江津萩枝『桜隊全滅――ある劇団の原爆殉難記』、1980年、参照)。通常は血液1立方ミリメートル当たり6,000~8,000個ある白血球が死亡直前には500~600個ほどしかなかったという。
仲みどりについては、この8月4日の「朝日新聞」が「幻のカルテ68年ぶりに発見」という見出しで、世界で初めて原爆症と診断された仲のカルテなど診断記録の原本が同病院の診断記録保管庫で発見されたという記事が掲載された。
「その位で私達が倒れるとでも思ってゐるのか」
~仲みどりが残した激越な言葉~
桜隊原爆忌のことに戻ろう。この日、目黒区では朝方激しい雨だったというが、碑前祭が始まった10時半には本堂の前に用意されたテントには夏の日差しが照りつけた。読経と参列者の焼香が続く間、テントの中に用意された椅子に一同座った。冷たい飲み物がふるまわれたが、時折、頬をなでる風に心地よかった。本堂前での焼香を終えると、今度は本堂の南の庭にある原爆殉難碑の前で順番に焼香。この碑文は徳川無声の作で、背面には柳原白蓮の短歌「原爆のみたまに誓ふ人の世に浄土をたてむみそなはしてよ」が刻まれている(ただし、私はこの背面に気が付かず、白蓮の歌が刻まれていることを後で知った)。碑前祭終了後、全員で記念写真を撮り、2つの建物に分かれて食事。見渡したところ、70歳以上と思える方々がほとんどだった。
13時から「『築地小劇場――震災から戦災への軌跡』を制作して」と題して中央区教育委員会文化財調査指導員の野口孝一さんのお話、それに続いて、老若演劇人による朗読劇「桜隊前夜」が上演された。登場人物と朗読者は次のとおり。
以下の写真の右から順に、岩手県芸術文化協会会長・盛田政志(40年後)→劇団俳優座・神山寛さん、同じく20代の盛田政志→テアトルエコー放送映画部・落合佑介さん、園井恵子→マーリエ企画・堀江真理子さん、丸山定夫→劇団文化座・青木和宣さん、三好十郎→劇団昴・鳥畑洋人さん)
知っているようでほとんど知らなかった築地小劇場の生い立ちから解散に至る歴史を朗読劇で学べたのは貴重な体験だった。劇中、盛岡地方の検事正・長谷川瀏(その後、最高検検事)が当時、特高にも睨まれていた丸山定夫や園井恵子ら苦楽隊に、岩手県公会堂でお忍びの公開稽古をするようけしかけたというエピソードが紹介されたのは興味深い知見になった。また、広島へ出発する前夜、演劇人といえども経済生活を度外視して芸を全うできないという新劇余力論を唱える丸山定夫と、演劇人は飯に気をとられず、演劇一筋に生きるべきという新劇本職論を唱える三好十郎の間で激しい論争が交わされたことを朗読で紹介されたのも興味深かった。
さらに興味深かったのは野口孝一さんが会場で配布された「仲みどり資料」の中に収録されていた「メーデー記念東京左翼劇場・新築地劇団共同公演パンフレット」(昭和7年5月4日発行)に掲載された仲みどりの小文だった。
越えて来た道
仲みどり
私は宗教学校の生徒だった。自分達の罪も貧しい人達の不幸も、世の中の総べては、祈りによって、神によって解決出来ると教へられてゐた。けれどやがて、私には、それが、私達の心に燃え上がる真実の事を知らうとする気持をごまかすものだと云ふ事が判った。
私は学校を出、家を出た。25圓の浅草女優。それも明日からはお拂ひ箱だ。家を出て2年――満足に飯を食った日が1日だってあるか? 浅草から向島の床ヤの2階の3畳の部屋まで、夜遅く私は疲れた身體をひきづつては歸つた。現実のこの社会の色々の階級そして自分の生活、これ等に對する疑問に答へて呉れる本をぼつぼつぼつ讀みはじめた。
5月1日、私ははじめて築地小劇場の芝居を觀た。「勝利の記録」は私に 敎へて呉れる。私に叫びかける。万國の労働者團結せよ!私は、この時から前進ある事を覚えた。私は進むべき自分の道を見つけた。今は敎へられるのは自分ではない。かつての自分のやうな多くの人々に、叫びかける自分なのだ。
彼奴等は、多くの同志を引っ張って行つた。だが、その位で私達が倒れるとでも思つてゐるのか、日本の全労働者農民と一緒に私達はゐるのだ!
仲みどりの生年は1909(明治42)年だから、この文章を書いたのは23歳ごろである。「その位で私達が倒れるとでも思っているのか!」という強靭な精神があればこそ、宇品の収容所から一人抜け出して上京列車に乗り込み、丸2日がかりで東京に辿りつくという驚異的な避難行を敢行できたのだろう。死後、自分の診察記録を残したのも、むざむざ倒れてたまるかという彼女の気迫の遺産とも思える。
夏の恒例の風物化に抗う「歌集広島」
毎年8月6日、9日を迎えるとマスコミは、被爆者の霊に祈りを捧げ、慰霊の灯篭を流す広島、長崎の人々の姿をまるで夏の風物かのように、押し殺した声で伝えるのが恒例になっている。
しかし、この夏、ジュネーブで開かれた、核不拡散条約(NPT)再検討会議に向けた第2回準備委員会で、80ヶ国が賛同した核兵器の非人道性を訴える共同声明に日本は署名しなかった。北朝鮮の核開発など日本周辺の脅威に対して、アメリカの核抑止力に頼る日本の安全保障政策が手を縛られかねないというのが署名を拒んだ理由と伝えられている(「朝日デジタル」、2013年8月3日、3時21分)。
日本に原爆を投下したことをいまだ人道上の罪と認めないアメリカの核の抑止力に頼ってしか、自国の平和は守れないと信じる(ふりをする)政府を選び続ける日本人の姿を見て、原爆に直撃され、悶え苦しみながら息を引き取った人々はどう思うのだろうか。慰めの祈りで無残に生を断ち切られた人々の無念が報われるとでもいうのか?
父を返せ母を返せと壇上に叫ぶ乙女のケロイド光る
横たはる死がいはくさりてはみ出した腸は長長と道にたれおり
さながらに松の丸太を積む如く硬直せる死体トラックに積みぬ
モルモットにされに行くなとA・B・C・Cの被爆調書をやぶりて捨つる
戦争の下請けせねばこの国はたたざるごとき日日の論調
生きの身を火にて焼かれし幾万の恨み広島の天にさまよふ
(『歌集 広島』1954年刊、所収)
初出:「醍醐聡のブログ」より許可を得て転載 http://sdaigo.cocolog-nifty.com
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.ne/
〔opinion1403:130810〕
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