蝶(ハベル)は飛び立つ
- 2013年 8月 14日
- 評論・紹介・意見
- 宮里政充沖縄
蝶は花咲く野辺へ
次の琉歌は中国からの冊封使一行を琉球王朝がもてなす時の踊り(御冠船踊ウクヮンシンウドィ)の演目のひとつである「中城はんた前節(ナカグスィク ハンタメーブシ)の歌詞である。
飛び立ちゆる 蝶(トゥビタチュル ハベル)
先ずよ待て 連れら(マズィユマティ ツィリラ)
花の本 我身や(ハナヌムトゥ ワミヤ)
知らぬ あもの(シラン アムヌ)
〈歌意〉
飛び立つ蝶よ。
ちょっと待て、一緒に行こう。
花が咲いている場所を 私は
知らないのだから。
因みに和歌訳を試みれば、次のようになろうか。
天翔けるてふよまづ待て連れ行かむ
花咲く野辺を我知らなくに
この曲には次のような解説がある。
伊江朝助氏が「琉球こぼれ話」に書かれた説によると、この歌の作者は本部按司(ムトゥブアジ)であって、ある日家人に髪を結わせていると、村の参会(懇親会)が遊郭仲島(ナカシマ)で催されるという使者が来たので、按司は即席にこの「飛び立ちゅるはべるまづよ待て」の歌をよんだということである。
沖縄の遊郭は他の国の遊郭とは違って、単に女郎を買いに行くのではなく、懇親会を始め歓迎会でも送別会でもすべての会合を開く一種の社交機関の役目を果たしていたのである。(島袋盛敏著『琉歌大観』、沖縄タイムス社刊)
「按司」はもと各地方に君臨する領主であったが、尚真王(在位:1477―1526)の中央集権政策によって首里に集められ、王制を支える重要な勢力となった。
さて、この解説の内容の信憑性については確かめようがないが、おおよそこの解説がこれまでの通説になっていると言っていいであろう。
しかし、この解説には違和感がある。明朝冊封使は1404年の武寧王(在位:1396―1405)から1886年の尚泰王(在位:1848―1872)の時代までに24回にわたって来琉している。使節団の人数は数百人に及ぶこともあり、しかも約半年の間滞在した。したがって、彼らの接待と滞在費には莫大な費用がかかった。もともと財政が豊かでもない琉球王朝にとっては財政危機を招きかねない一大国家イベントだったのである。にもかかわらず、尚敬王(在位:1713―1752)は踊奉行なる役職を設け、御冠船踊りの総合プロデューサーとして玉城朝薫(タマグスィク チョウクン1684―1734)に命じ、イベントの内容充実に意を注いだのである。朝薫は見事にその要望に応えた。彼は「組踊クミウドゥイ」という新しいジャンルの歌劇を創出し、舞踊についても優秀な踊り手を採用して磨きをかけた。
「中城はんた前節」は数多くの演目の中でも、国王の前でしか演じられなかった「御前風五節グジンフウ イチフシ」の中の由緒正しい曲である。
そういうことを考え合わせると、首里城の前庭で、サンシン・琴・笛・二胡・太鼓などを演奏する大がかりな楽団と粋を極めた踊り手、そしてプロデューサー朝薫が、国賓を前に「さあ、遊郭へ繰り出そう」というテーマの表現に心血を注いだとは思えないのだ。まして使節団一行が華やかな遊女遊びを思い浮かべて感動したとも思えない。
ここは、解説から離れて、琉歌の表現に沿って鑑賞した方がいい。
羽を休めていた蝶が蜜を求めて飛び立った。その瞬間、「あ、ちょっと待って。私もいっしょに連れて行ってくれ」と呼びかけた人物(あるいは蝶かも知れない)は、単純に、花が咲いている場所へ行ってみたかったのだ。これは、蝶にいざなわれて花園へ行くという、どこか、子供のメルヘンの世界に近い図ではないか。
首里城の前庭で人々が共有する感動は、花咲く野辺と蝶の乱舞のイメージではなかったのか。
韃靼海峡を越えて
沖縄に生息する蝶には、琉球列島を北限とする種、固有種、亜種などが混在し、その種類は約140種である。
イギリスの生物学者・探検家のアルフレッド・ラッセル・ウォレスは、動物地理学の面から世界を五つの地域に区分したが、蝶類について言えば、それぞれの地域に特徴はありながらも、蝶相は各地域とも少しずつ変化しているらしい。そして最近の地球温暖化はその変化を加速させる傾向にあるという。
秋の空を、渡り鳥が整然と隊列を組んで渡っていく姿はよく見かけたものだが、あのか弱い羽を持つ小さな蝶が海を渡るということは想像もつかなかった。
次に安西冬衛の1行詩がある。
春
一匹のてふてふが韃靼海峡を渡って行った。
この詩を読んだときは衝撃を受けた。「てふてふ」という、いかにもふうわりと頼りなげな羽を持つ蝶と、「韃靼海峡(ダッタンカイキョウ)」という何か巨大で拒絶的な響きを持つ言葉との対比が実に見事で、「一匹のてふてふ」が潮風に吹き飛ばされ、羽を破られ、たちまちのうちに荒波に飲みこまれてしまう姿がイメージされ、蝶の絶望的な運命を予測したものである。
ところが、蝶は確実に海を渡るのである。現在はインターネットが普及し、世界的な情報が一瞬のうちに手に入るようになった。蝶の渡りについては「渡り」の情報を交換するネットワークがある。そのグループはマーキングして放った蝶が何日かけてどこへ飛んで行ったかをリアルタイムで知ることができる。
たとえば、アサギマダラの移動調査の電子ネットワーク「アサギネット」によれば、2011年10月10日、和歌山県日高町で放ったアサギマダラが、10日後の10月20日には高知県香美市香北町へたどり着き、さらに2か月後の12月31日には中国・香港深水湾へ渡ったことが確認されている。この蝶は82日間かけて2、500㎞を渡り切ったのである。「韃靼海峡」を渡って行ったあの「てふてふ」も無事に中国大陸のどこかへたどり着いたにちがいない。
東シナ海に浮かぶ小さな島沖縄が独自の歴史を歩みながら、1つの王国となった。だが、自然環境は厳しく、経済的基盤も弱い。そこで、尚敬王から三司官(国王の政務を補佐する最高位の官吏)に任じられた蔡温(サイオン1682―1762)は、その実力を発揮し、河川工事、山林の保護、農業の発展などに尽力した。尚真王の時代に次ぎ、尚敬王の時代が第二黄金時代と評価される所以である。
蝶は飛び立ち、「花の本」へ向かう。しかし、その「花の本」がすぐ近くにあるとは限らない。地球温暖化によってある蝶は北へ飛び立ち、海を越え、山を越えて新しい「花の本」を目指す。
さて、沖縄が「花の本」を目指して飛び立とうとするとき、さまざまな「韃靼海峡」があったし、今もある。沖縄の歴史はその繰り返しであった。
しかし、「一匹のてふてふ」にすぎない沖縄は、それでも飛び立つのである。たとえそれが子供のメルヘンの世界であっても、「花の本」を目指して飛び立つのである。
この文章の初めの部分で和歌訳に用いた「天翔ける」という語は、「神や霊魂などが空を飛び去る」の意である。蝶(ハベル)は霊魂の化身であるという俗説は沖縄にもある。
ハベルは沖縄の人たち、すなわち、死んだ者、現在生きている者、そしてこれから生まれてくる者、それらの人々の霊魂を載せて「花の本」へ向かって飛び立つ。
これは私の幻想である。だが、この幻想は力を持っている。『夜と霧』のヴィクトール・エミール・フランクルがナチスの収容所で過酷な強制労働に耐えられたのは、別の収容所にいるはずの妻との会話であった。彼女は間もなく殺害されたが、フランクルは彼女と楽しい会話を続けることで自らを支えたのである。フランクルにとって妻は彼を活かす永遠の存在であった。
花咲く野辺は永遠である。私は飛び立つハベルに私の幻想を乗せよう。
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