「中南米化」する日本
- 2013年 8月 14日
- 交流の広場
- 山端伸英
童子丸開氏だか松元氏だかわからないけど、書き手としてすばらしい人が器用さを発揮しているのは愉快なことで、この「ちきゅう座」は面白くなってきた。僕は一貫してあちこちで働き続けているので筆一本で生きる人はうらやましいと思う。百年以上、日本料理など食ったこともなく肉屋の店頭の試供品のハムを豚のごとく食い続けているので大動脈瘤まで作ってしまった。しかも、アジア系への人種差別がアフリカ系への差別よりも強いと言われる「中南米」で飢えているので、「中南米化」しかも、「日本が中南米化しないように」などという論法には拍手喝采であって、アジア系を排斥する歴史を繰り返したメキシコに住み、ひどい目にあいながら日本の国籍まで剥奪しようとする「中南米化」した日本大使館を向こうにまわして、新しい差別言語としての「中南米化」を今後は大いに振り回して行こうと思いはじめた。
もちろん、童子丸氏の8月13日付の論説を僕はほとんど「アベノミクス」のシャレた解説かと思い込んで読んでしまったので、この表題のようになる。童子丸氏は日本の現在に警告を与えるように「中南米化するスペイン」を書きはじめたと「序章」に書いておられる。これは時間軸で革命劇を最初は悲劇、次に来るものは喜劇あるいはファルスと見破ったマルクスの論法を平たく地域差に読み替えておられるにすぎない。
メキシコでは2000年に国民行動党のフォックスが政権につき、以降12年にわたる右翼無能政権がメキシコ社会をほとんどインポテンツにしてしまい、若い世代の知識人たちもフォックスの時点で総倒れの状態に陥った。左翼側は、どこかの国の左翼同様、事件ごとにビジョンと代案に欠ける無能をひけらかし事務局勢力に政権擦り寄りごっこを任せるような事態に至っていた。率直に言って、僕までものを書く意欲を失って行ったし、左翼の巣窟であるはずのメキシコ国立自治大ではコンパドラスゴ的マフィアに職を追われ続けてきた。小数の「あんたみたいのが必要」とかいう「声なき声」だけが僕を支えている。
しかし、この12年間の政治的痴呆状態のメキシコではそれなりの社会変化も見られるようになった。政権の二枚舌無能のおかげでメキシコ人自身側の「自己省察」が出版さえされるようになったことがひとつある。《サラ・シェフコヴィッチ「うそばかりの国」、ホルへ・カスタニェダ「未来?あるいは過去?」など》以前では、ちょっとした批判も非常な危険な行為であった。
また「ネオリベラリズム」という現象がサリナス元大統領時代から始まったにもかかわらず、サリナスは現在でも「ネオリベラリズム」という彼の政策への批判に対する反論を繰り返している。つまり、「中南米」にもいろいろあるけれど、社会の「ポピュリズモ」は大衆のコンプレクスに乗じた反動側の工作の手の中にある。経済面では、中南米の被植民地主義と従属は、この20年の間にまったく異なったディメンジョンに回路を開いている。つまり、このところ権威主義的傾向を政治面では強めながら中南米各国の経済成長率は上向き加減なのである。
安倍晋三の使命が憲法改正であるというのは、年がら年中憲法の改正から政権が始まる「中南米」政権的で非常に「面白い」。つまり、日本にも「中南米」にも政権につく奴らには憲法を保守するような生真面目な保守主義は存在しないのだ。彼らが「ならず者」でないのは、そこに情けない経済成長が続いているからでもある。
ただ「中南米」が日本の大企業サラリーマンの良質部分ような職責感覚や現場主義を持たないのは「中南米」の社会形成が家族主義的になってしまう歴史と切り離すことはできず、それには長い植民地主義支配をしいたスペインの責任もある。仕事の現場というコンセプトは、「中南米」ではまだ育っていない。仕事から創造力を得る精神が芸術家の世界に限られているので精神的にも社会は二分されている。そして、「中南米」のウェーバー学者ほど無責任な輩はいない。いやいや、僕は日本の状況を言っているわけではありません。
ところが、僕の見るところ「左翼」思想については「中南米」では試練の深さにおいては日本と同じ地平にありながら、上に書いたような「自省」の文化の誕生と共に可能性を読み取ることもできる。メキシコでは、現在もアンドレス・マヌエル・ロペス・オブラドルが現在も大衆の一部の支持を得ているが、彼が自己の党派の民主革命党の右派事務局支配に愛想をつかしてMORENA(国民再生運動)を組織したことは、新しい運動に彼を利用したい知識人の動きと共に非常に評価できる。
この点こそ、日本のみならずアジアの解放勢力に学んでほしいところであって、おそらくこれは原子力の見事な成果の一つとして日本から始められることが期待できる。いわば、逆境を契機に人民の本質的な渇きをまとめるリーダーシップが、若い世代から出手来ることを期待したい。そのときこそ、日本は確実に「中南米化」したと言われるであろう。
従がって、差別用語としての「中南米」から、新たなリーダーシップの指標として社会の土壌の深遠から、桜の花の樹の下から、腐敗した外容を脱ぎながら筋肉隆々たる、あるいは青白い静脈肌の青年が現れ、世俗の憎悪を打ち消し人々を希望へと導くファウルかと見まがうほどの運動を形成するのも夢物語とは言えないだろう。
そういう意味で、日本の「中南米化」のきっかけは沖縄にあり、福島にあり、福井にあるのではないか。
*アウグスト・モンテロッソの最後のソをサに間違えてしまった。実は本人を生前存じ上げていた。グアテマラの現代史には欠かせない人。それで名前を間違えて書くというのはボケ加減も激しいというべきだろう。アウグストは茶目っ気のある人でファブラ(FABULA)という形式の寓話を得意にしたが、人物そのものもファブラであった。
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