本間宗究の「ちきゅうブッタ斬り」(48)
- 2013年 8月 21日
- 評論・紹介・意見
- 本間宗究財政金融
加速する「金融のメルトダウン」
現在では、以前に言われた「金融のメルトダウン」という言葉が忘れ去られるとともに、「異次元の金融緩和」や「量的緩和の縮小」などに、人々の関心が集まっているようだ。つまり、「金融危機」の本質が見失われ、表面的な「マスコミ報道」に右往左往している状況とも言えるようだが、実は、現在、きわめて「危機的な局面」に遭遇しており、間もなく、何らかの「大事件」が起きることも想定されるのである。
つまり、「人々の認識」と「現実世界」との間に「大きな乖離」が発生した時に、「認識の差」が埋まるような事件が発生するものと考えているが、実は、このような状況が、「2008年のリーマンショック」の時にも発生したのである。そして、実際の事件を見ることにより、多くの人が、「現実世界で、どのような事が起きているのか?」を深く認識し、その後から、新たな展開が始まったのだが、今回は、今までにないほどの規模で、「現実と認識の乖離」が起きているようである。
具体的には、「金融のメルトダウンが、きわめて重大な局面に差し掛かっている」ということだが、実際には、「デリバティブの損失」から始まった「金融危機」が、私が想定する「金融の逆ピラミッド」において、その下の「債券」や「預金」の部分を突き抜けて、いよいよ、「紙幣」の部分にまで到達しようとしているからである。より具体的に申し上げると、今まで「黒田日銀総裁」が行ってきたことは、「日銀の当座預金」を膨張させることにより、「国債の買い支え」を行ってきたのだが、理論的には、「この方法は、預金の部分を、急速に不良債権化する政策」とも言えるのである。
そして、間もなく、「民間銀行から短期資金を調達する」という「当座預金の増加」ではなく、「発行金額に限度が存在しない日銀券の発行」へと、「資金調達の方法」が変化するものと考えているが、この時に起きることが、私の想定する「大事件」である。具体的には、すでに始まった「世界的な金利上昇」に歯止めが効かなくなり、「国債価格の暴落」が起きた時に、「世界的に、大量の紙幣増刷が始まる可能性」のことだが、同時に起きることは、「英米の銀行が保有するデリバティブ」に関して、「損失が表面化する可能性」とも言えるようだ。
このように、8月から9月に想定されることは、「サイバー空間から現実へ」という大変化だと思われるが、この時に起きることは、「世界の資金が、急速に、貴金属や株式などの実物資産へ流れ込む」ということだと考えている。
(2013年7月16日)
アマテラス
先日、「坂東玉三郎」と「鼓童」が共演した「アマテラス」を鑑賞してきたが、内容的には、日本人の誰もがご存じの「天の岩戸開き」の話だった。しかし、舞台の素晴らしさに感銘を受けただけではなく、いろいろな「想い」が、私の胸に去来したのだが、実は、「鼓童の公演」を観るのは、生まれて初めてのことであり、この点に、不思議な感じを抱いたのである。つまり、「鼓童」の前身とも言える「鬼太鼓座(おんでこざ)」が誕生したのが、今から42年前の「1971年」であり、「私が生まれた町に、突如として、若者の集団が集まってきた」という状況だったのである。
そして、当時は、「なぜ、多くの若者が、太鼓をたたくことに、人生をかけるのか?」という感想を抱きながら、ある種の「冷たい眼」で、彼らを眺めていたような気がするのだが、その後の「42年間」を振り返った時に、今回の「アマテラス」には、たいへん大きな意味が存在するのではないかと感じた次第である。具体的には、「1971年から現在まで」という期間は、「表面上の経済繁栄」は実現されたものの、「人々の精神面」においては、「暗黒の時代だったのではないか?」ということである。
つまり、「スサノオ」が意味することは、「マネーの大膨張」であり、多くの人が、経済的な成功を求めたのが、この期間だったものと考えているのだが、結果として起きたことは、「自然破壊」であり、また、「多くの人々が、大きな不安や恐怖心を抱く社会の誕生」でもあったのである。そして、この間に、「伝統」や「文化」を追い求め、一種の「時代遅れ」だった「鼓童」が、いつの間にか、世界的に認められるほどの存在となり、多くの人々に感動を届けるほどの集団になったことにも、たいへん不思議な思いを抱いたのである。
このように、「世の中で起きることには、偶然はなく、全てのことに、大きな意味がある」と、改めて、感じさせられたのが、今回の「アマテラス」だったが、かりに、現在が、「スサノオが大暴れする暗黒の時代」の終焉の時期であり、再び、「天の岩戸開き」が起きるとすると、この時の必要条件は、「現代のお金」に対して、「世界中の人々が、大きな不信感を抱くこと」でもあるようだ。
具体的には、すでに、いろいろな「崩壊の兆候」が見え始めた「デリバティブ」や「国債市場」において、何らかの大事件が起きた時に、人々が求め始めるのが、「42年前の鬼太鼓座の若者たち」と同様に、「伝統」や「文化」、あるいは、「歴史的な遺産」であり、また、かつてのような「人々が助け合う社会の復活」でもあるようだ。
(2013年7月16日)
海中のビーチボール
2013年も後半に入っているが、今年の前半を振り返ると、「金(ゴールド)の市場」では、たいへん興味深い動きが起きたようだ。具体的には、「3月」までは、「ヨーロッパの個人投資家が、キプロス問題を見て、慌てて、金を買い始めた」という状況だったのだが、「4月から6月」に起きたことは、「国債を守る陣営」である「欧米のメガバンク」を中心にして、大量の「売り叩き」が行われたということである。そして、結果としては、「売り叩き」が、一時的に功を奏し、「多くの専門家までもが、金に対して弱気になる」という状況にもなったようだが、一方で、「金の需給関係」においては、歴史上からも稀に見るほどの「歪み」が発生している可能性が高まっているのである。
具体的には、今回の「売り叩き」が、「現物を保有していない投資家」が、「先物やデリバティブなどを利用することにより、純粋な空売りを行った」ということである。しかも、現在の「金の生産コスト」が「1300ドル前後」と推測されるために、すでに、「南アフリカでは、6割の鉱山会社が赤字操業の状態になっている」とも指摘されているのである。つまり、「金の供給」が減少する時に、「仮想空間の中で、きわめて大きな空売りが行われた」ということが、多くの専門家が考えていることである。
そのために、現在の状況は、「海中のビーチボール」ではないかと考えられているようだが、このことは、「空気が詰まったビーチボールを、無理矢理に、海中に押し込んだ状態」のことである。そして、これから想定されることは、「売り方が、一転して、買い方へ変化する」ということだが、このことは、「国債価格が暴落を始めると、これ以上、金の売り叩きをする必要性がなくなる」ということでもあるようだ。
このように、今後の「金の需給」を考えると、「自分の預金に危機感を抱き始めた世界中の個人投資家」に加え、「現在の通貨制度に不信感を抱いている世界各国の中央銀行」が、今後も、継続して「金」を買い続けることが想定される上に、今まで、「大量の売り叩き」を行っていた「欧米のメガバンク」が、今後は、一転して「買い方へ転じる」という状況が想定されるのである。
つまり、「海中のビーチボール」が、抑えていた手を放した途端に、「水面上へ、急速に飛び出すような状況」のことだが、この点については、実際に、「買い戻し」が起き、「半値戻りの水準」である「1550ドル前後」にまで価格が回復した時に、世界的に理解されることが考えられるようである。
(2013年7月25日)
庚申伝説
昔から気になっていたことの一つに「庚申塚」があるが、このことは、かつて日本で盛んに信仰されていた「庚申伝説」に由来するようである。具体的には、「人間には三尸(さんし)と呼ばれる虫が頭・腹・足にいて、その人の悪行を監視している」というものであり、「庚申の夜、宿主の人間が眠ると三尸はこっそり体を抜け出し天帝に宿主の悪行を報告する」と信じられていたのである。
また、「この三尸の報告を受けた天帝(閻魔)は、その内容を評定して、悪行を行った人の寿命を縮める」とも考えられていたために、当時の人々は、「二か月に一度の庚申の夜は、村中の人達が集まって神々を祀り、寝ずに夜を明かした」とも伝えられているのである。また、このことが「庚申待」であり、「庚申待を3年、18回続けた記念に建立されたのが、全国各地に残っている庚申塔や庚申塚」だそうである。
このように、昔の日本人は、現在では、信じられない行動を取っていたのだが、このことにも、大きな意味が存在したようだ。つまり、「社会のチェック機能」として、このような信仰が、長い間、継続していたものと思われるが、現在では、「天」や「神」を畏れる人が少なくなった結果として、いつの間にか、「庚申伝説」が消滅したようである。別の言葉では、「お金」が、現代人の「神様」となり、「お金さえ持っていれば安全だ」と考える人が増えたのだが、このような結果として生まれたのが、実は、「安心して生活できないような社会」だったのである。
つまり、現在、多発する「信じられないような事件」については、「天や神を畏敬する精神」が忘れ去られ、「法に触れない限り、どのような手段を用いても、お金儲けをすることが正義である」と考える人が増えたことに、根本的な原因が存在するものと考えている。別の言葉では、旧約聖書に出てくる「ソドムとゴモラ」のような都市が、世界中に造られたということだが、「このような状態を、100年後の人たちがどう見るか?」については、今後の進展を見守る必要性があるようだ。
つまり、現在、我々が、「庚申伝説」について「あまりにも非合理的である」と考えるのと同様に、「地球環境」や「人々の生命」よりも、「単なる数字」となった「現代のお金」を信用する「現代人」については、「理解不可能である」と考えられる可能性があるのだが、同時に、「三尸(さんし)の虫」を畏れ、「閻魔大王」を信じた人々の方が、精神的に健全だったと判断される可能性もあるようだ。
(2013年7月25日)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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