周回遅れの読書報告(その1)
- 2010年 10月 14日
- 評論・紹介・意見
- 書評脇野町善造
日本経済新聞を読まなくなってから随分と時間が経った。読むといっても経済紙として読んでいたわけではない。経済紙としての同紙には1997年の夏に愛想が尽きた。1997年の年初は、世界経済に関してはほとんどの専門家、専門誌紙が一様に楽観的であった。しかし、春頃からなんとなく妙な具合になってきた。ロンドン発行の経済誌Economistはこの頃からアジア通貨の先行きについて疑問視し始めた。日本でも何人かのアジア経済の専門家は、危険な状態にあると警告した。そうしたなかにあって、日経は6月下旬、タイの通貨当局の発表を鵜呑みにして、「タイの通貨には何の不安もない」と書いた。その数日後の7月1日、バーツ危機が始まった。しかし日経は危機のさなかも、危機の後も、自らの不明を恥じることは、私の知る限りでは一切なかった。
文芸欄はこのこととは関係はないし、影響もない。1997年7月以降も文芸欄だけは読んだ。この欄を目的に日経を読むというのは少数派かもしれないが、日経の文芸欄は予想外に充実している。その一つが週に一回(たしか日曜日だったと思う)掲載されていた「半歩遅れの読書術」というコラムである。新刊書の書評ではなく、一か月の間、4回ないし5回連続で一人の評者が少し前に出版された本を題材にして書いていた。好評だったのであろう、何年分かをまとめて、コラムと同じ題名(『半歩遅れの読書術』)の上下2冊の本になった。
書き手は幅広い。60人の書き手の中には詩人も文学者も劇作家も政治学者も経済学者も生物学者もいる。当然取り上げられている本のジャンルも多様である。本を狂言回しにして様々なことを語るというようなものであるが、書き手の生き方や思いが滲み出ていて、新刊書の書評にはない面白さがある。というよりは、その文章そのものが読んでいて楽しい。こうなると、他者の書いた本について語ることそれ自体が「作品」になる。実際、山村修(本名よりは〈狐〉というペンネームのほうが有名だったかもしれない)の書評などは、それが対象とした作品よりもずっと面白かった。『半歩遅れの読書術』のなかのすべてがそうだというわけではないが、読書の方法をも含めて、多くのヒントがあるように思う。もっとも、名前を挙げるのは控えるが、読んでいて気分が悪くなるのもある。そんなものからは、こんなふうには読みたくないと思う「教訓」を得たと思えばいい。
その日経も2年前に日常的に読むことをやめた。同時に読む本も古い本が多くなった。最近読んでいる本のなかには、大昔の、なかにはほとんど忘れ去られた感があるものさえある。「半歩」どころか、何回かの「周回遅れの」読書である。したがって、『半歩遅れの読書術』で紹介されている「少し前に出版された本」などは私にとっては「新刊」に等しい。この本は今も手に届く場所にあり、「たまには〈新刊〉も読めよ」と語りかけてきそうな気配がある。それはともかく、とりあえずひどく遅れた読書の「報告」を始めたい。
日本経済新聞社編『半歩遅れの読書術』Ⅰ、Ⅱ(日本経済新聞社、2005年)
山村修『書評家〈狐〉の読書遺産』(文春新書、2007年)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion170:101014〕
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