リーダシップ
- 2013年 9月 16日
- 評論・紹介・意見
- サラリーマンリーダシップ藤澤豊
何時頃からかしらないが、妙にリーダシップという言葉を耳にするようになった。リーダシップがなんたるや、それを手っ取り早く身につけることをうたい文句にしたセミナーもあるし、ノウハウ本の類まである。ビジネス系というのも変なカテゴリなのだが、その類を特集した雑誌も目にする。随分前になるが、巷で話題のリーダーシップとはいかなるものか気になって一見まともらしい本を数冊読んだことがある。今になって改めてどのような内容だったのか思い出そうとしても思い出せない。読んだときは、それなりに参考になったのだろうが、目からうろこの内容でもなかったのだろう。多分、当たり前というか普通のことが噛んで含めるように丁寧に書かれていたんじゃないかと思う。
市場開拓を進める必要性から三十歳代から五十歳代の何人かの方々と共通の話題でお話をさせて頂く機会を頂戴した。四十歳代、五十歳代の方々からは出てこないのだが、三十歳代の方々が判で押したように似たようなことをおっしゃる。今までの経験をもとにリーダシップを発揮し四十歳そこそこで重要な意思決定をする立場になりたいと熱意?を語られた。お若いのに立派な志で、ご自身の将来のビジョンをお持ちなのかと感心しかかった。
ところが、お話をお伺いしてゆくうちに、なにかしっくりこないのもがある。出身学部と職業上のご経験の間には一貫性がない。多くの人がそうだろうとは思うが、学校で学んだ専門知識が職業の場で直接生かされる職業につかれていない。多少突っ込んでどのようなご経験をされてこられたのかお聞きした。社会で、企業でいっぱしのプロとしての職業人の域に達する道のりは長い。なかには、今、この席で、何を問題にしているのか一生自覚されることがないかもしれないなと思わざるを得ないお話もあった。そこには、社会に、企業に、組織に貢献させて頂くために自分がどうあるべきかという視点が欠落している。
サラリーマンとして一企業の一員としてある以上にいったい自分はどの道のプロになりたいのか、そのためにどのような知識なり技能なりを習得しなければならないと考え、どのような努力をしてきているのか?お聞きした話には、この肝心な点がない。
みなさんに共通してあるのは、二点だった。一点目は、英語。そこそこの外資の日本支社のマネージャくらいは務まるレベルに達している。それでも、実社会では、既に英語は道具に過ぎないことを経験されているのだろう。さすがに昔面接させて頂いた二十代の女性達のように英語が得意ですと言われる方は一人もいらっしゃらなかった。外資では英語は当たり前で、よほどのことでもなければ武器にはならない。
二点目は、リーダシップ。英語の方は酔いが醒めているようだが、こっちのほうはまだのようだ。自らが直接、間接にかかわる市場からそこに投入され、流れ出てくる物やサービス。その裏づけとなる技術やノウハウ、そこで日々営々として続けられる改善やら改革。そこに関係するさまざまな業界や企業や組織、あげくに行政団体まである。それも日本だけでなく世界のあちこちから関係してくる。プロの職業人である以上に社会人として、企業人としての一般社会、その歴史的経緯から現在のありかた、将来への展望。。。さらに一個の人間としての見識。。。
誰も完璧じゃない、しかし、非常に広範な知識と見識、さらに自らの専門領域における深い知識と理解。これらの総合があって初めて周囲がリーダとして認めてくれる可能性がある。それでも、あくまでも可能性ででしかない。リーダシップというものは、それを直接求めて得られる類のものじゃない。さまざまな苦しい戦場で現実から逃げることなく責任を取り続け、その責任をとるために必須な能力を習得してゆくと同時に将来と取らなければならないであろう責任を取ることができるように日々研鑽してゆくなかから必然の結果として生まれてくるものだ。少なくとも、小手先のテクニックでまかなえるリーダシップなんてものはありっこない。まだ、三十代だ、このありっこないことに気が付かない程度の社会経験なのだろうと勝ってに好意的に解釈させて頂いた。
リーダシップに関する情報が氾濫しているからなのだろうと思う。一歩下がって考えれば分かりそうなのなのだが。リーダシップを云々している方々に、はたしてリーダシップがあるのか?リーダとしての総合的な能力があるのか?本当にある人は、多分、何冊かの本やセミナーでは、リーダシップのなんたるかを語れないと言われるだろう。本当にある人にその手の本を一読されることをお勧めしたら。。。どのような反応があるのだろう。
リーダになりたいというのが、モノクロ映画のなかで言われていた出世したいというのと何がどれほど違うのか。まさか、社会も産業構造も変わってインターネットの時代になった、で言葉も漢字表記の出世から英語のカタカナ表記のリーダシップに変わっただけじゃないだろうな?
社会に貢献するために、これこれをこれこれできないか。。。でそれをし得る社会的な立場にならざるを得ないというのなら、まだ話のつじつまが合う。問題は何をしなければならないか(それに従属して、したいか)であって、何になりたいかじゃないだろう。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.ne/
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