テント日誌9月25日 経産省前テントひろば746日目
- 2013年 9月 27日
- 交流の広場
- 経産省前テントひろば
半袖では寒いくらいになって、へたをすると風邪でも引きそうなくらいだ。風邪を引かないようにはこころ配りをしているのだけれど、体温が高いせいか、ついつい裸に近い状態で寝てしまう。眠りながら、毛布を探しているのだけれど、なかなか全体にはいきわたらない。身体半分とか肩のほうだけにしか毛布はかかっていないことがしばしばである。夕方から愚図ついていた天気は深夜には土砂降りになった。さすがにこの雨の中では人の影も見えない。しばし、降りしきる雨を見ながらあれこれの思い浮かんでくることに浸っていたせいか、中断した本の方にはなかなか戻れない。不寝番の深夜は本を読むいい時間なのだが、これも一種の晴耕雨読なのだろうと思う。
前回の日誌で深夜にテントを訪ねてきた(寄っただけかもしれないが)若い女性のことを書いたら、メールで私にはそんな勇気はないという感想をいただいた。そういう見方もあったのか、もう少し親切に対応すべきだったと思う。こちらは、いろいろと心配はしたが、そんなことよりも、彼女の質問にもっと真摯に答えるべきだったのだと思う。お彼岸も過ぎて凌ぎやすくなってきたのだろうか、テントの訪問者や座り込みに参加する人も増えてきている。九州のテント(九電前のテント)でも同じらしいことをメールで見た。
持久戦的な局面で脱原発運動全体の問題を考えているのだけれど、自分の中には正直言ってある種の停滞感がある。これは何だろうか、と考えると一つは全体的に世界を変えて行く視線というか、全体像のようなものが深まらないということがある。原発事故の衝動は現在の世界を超えて行く全体的な視線を僕らに提示するようなところがあった。これは科学技術の社会化の行くすえ(近代社会の未来)を暗示するところがあり、全体的視線についての直観的な啓示をもたらしたのだと思う。高度成長型社会の転換、自然との循環の保持、経済より命、これは様々の言葉によってあらわされたが、深化しているとは言い難いのだ。もちろん、これは原発問題というよりは現在の世界の全体像、あるいは世界像が見えにくいということからくることであり、そこへ契機を提示した原発問題もそこを超えられていないということだ。ここはどのように突破できるのか、いろいろの悩み、考えていることだが、ここに停滞感の原因の一つがあることは間違いないように思う。具体的な問題での対応ということがもう一つあるが、これは後の方で述べる。
かつて宗教が社会を変える契機として期待されている時代(宗教による救済)、浄土とか、死後の世界が提示されて大きな影響をあたえたが、それは実体的な極楽とか、天国とかではなく、現実を超える全体的視線(世界的視線)のことであった。少なくとも親鸞においてはだ。これは現在の社会を超えて行くビジョンやイメージであった。この全体像や視線は疎外された形態としては宗教的なユートピアのようになるが、この像や視線は僕らが現実を変えようとするとき重要なものである。今風にいえば、現在を超えていく政治的ビジョンや構想力のことであるのだろうが、これは世界や歴史に対する像やイメージに裏打ちされないでは出てかない。これの不在は現実の政治の停滞の根本原因の一つをなしている。あるいはその向こうに歴史や世界の流れが見えにくいということがある。
現在の世界を超えて行く全体的視線、あるいは世界的視線は歴史というか、現在の社会に根本がある。原発問題は僕らにその停滞を超えて行く,契機をもたらした。このことは疑いないことで、人類の究極的な課題を提起したことでもあるが、そのビジョンや像は直観にとどまっている。あるいは断片的であるのだ。原発問題についてのおびただしい言説や情報はあるが、時代的な言葉にまではなっていないのである。これは深まるにはもっと歴史的な契機が必要なのか、もともと人間には全体像など不可能なのか、それらの問いかけを自己に向かって発しながら考えている。原発事故を契機に発せられた理念や言葉を深めて行くことの中にその道はあり、その意味では僕らの前に多くのヒントはあるのだ。緒個人に内在している停滞感は脱原発運動をも包む歴史や社会の方に原因があるのだとしても、僕らは脱原発の運動から触発された契機を持ってこの停滞を突き破るところに進むことを促されているのだと思う。
脱原発―反原発運動は原発事故の具体的な解決という事として現れる。全体的な像や視線といった問題とは重層的な関係にあるが、その領域自体が複雑で重層的な現れ方をする。放射能汚染とどう対応するかが、中心であるがこれはまた、具体的には個別的に出てくる。この解決には未知の問題と経験的に学べるもの(例えば、水俣病に対する運動や闘い)とがある。福島の現地を中心にあるこの運動は困難な中にあり、それが見えにくい現状がある。この領域でも膨大の人が動き、問題提起などもなされてきている。ここは停滞というよりは困難に直面しているというべきであるが、いずれにしてもこの領域の困難性が脱原発―反原発運動の展開に停滞感を与えていることは確かであろう。ここをどう解決するか、テントを含めて都心での運動はこのことを考えに入れておく必要がある。現地の連帯、「福島から学ぼう」など、この領域での運動のことを脱原発運動は提起してきたが、全体の問題として考える局面にあるように思える。放射能汚染の問題はこれまで対応してきたこと、これから出てくること等があるが、テントを含めた政治的意思表示とは相対的に独自の領域として脱原発―反原発運動が取り組む必要のあることだ。これも今はあれこれ考えている段階ではあるが、全体的な視線の獲得ということと共に、停滞を打ち破る契機としてあるのだと思う。
政府は原発問題については表向きの議論は避け、電力会社や原子力ムラなどの官僚組織を使って再稼動を進めようとしている。再稼動で既成事実を作り上げ、原発の存続を図ろうとしている。これは当初からの戦略であるが、彼らにも原発存続の理念や展望があるわけではない。僕らが今、ここで見ているのは既得権益ということであり、それに固執する動きである。人間の社会で既得権益を守る事(これにはプラスとマイナスがある)について考えることが要請されているように思う。この凄まじい力と人間の所業とについて深い考察がいるように思う。ある社会の矛盾を変えて行こうとするときに、必ず出てくることだが、既得権益は深い所に根ざしていて、これから人が自由になるのは容易にできることではないように思う。これにどう対応するかはとても大変で大事なことに思う。これはこの運動で考えさせられたことだ。
秋の夜長の入り口を雨にふり込められ、こんなことを考えていた。若いころは内部からの衝動が考える事を否応なしにしいた。今では考えることに意志がいるのかも知れないが、テントはその契機をもたらしてくれている。考えることの快楽に浸っているのさ、といいたいところだが、まだ、僕はそんな心境にはない。だから、テントは僕には大事なのかもしれない。他の人もそうであったらうれしいのだが…(M/O)
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。