メディアの「漂流」?に不安
- 2013年 10月 5日
- 時代をみる
- 藤田博司
集団的自衛権容認、日本版NSC(国家安全保障会議)創設、特定秘密保護法案―昨年暮れの安倍晋三政権の登場以来、憲法改正に加えて次々とおどろおどろしい政治案件が新聞紙面やテレビの画面に踊り始めた。そこへ尖閣諸島や竹島、従軍慰安婦や歴史認識をめぐるさまざまな問題が重なり、混乱に輪をかける。
メディアはそれぞれの動きを日々、伝えてはいる。が、問題の表面をなぞっているだけ、という印象をぬぐえない。背景に何があるのか、これからの日本がどうなるのか、をしっかり見通しているようには思えない。メディアがよるべなく「漂流」しているのではないか、という不安が募る。
尖閣、政府と同じ立場
「漂流」を感じさせる報道の一つは、尖閣諸島や竹島をめぐる問題の取り上げ方である。尖閣諸島周辺では、中国艦船による領海侵犯や接続水域への侵入が報じられる。政府はその都度、尖閣が「わが国固有の領土」であることを強調する。ニュースを伝えるメディアも当然のように「わが国固有の領土」を繰り返す。
中国側は尖閣についてこれとはまったく別の主張を持っている。そのことは日本のメディアも十分承知している。が、中国艦船の動向を伝える段になると、日本政府の立場と寸分たがわぬ「領海侵犯」の姿勢を崩さない。日本政府の主張を絶対の真実と見なしているように見て取れる。
報道活動を支える最も重要な原則の一つは、あらゆるものからの独立である。日中関係を報道するにしても、相手国政府とはもとより、自国政府との間にも一線を画した独立の立場で報道にあたることが原則のはずである。尖閣の帰属をめぐる日本政府の主張を正しいと認めるにしても、報道機関としてはその主張を独自に検証したうえでのことでなければならない。
日本の新聞やテレビが独自にそうした検証作業をしたうえで、尖閣は「わが国固有の領土」というのであれば、その作業の結果を読者、視聴者に説明すべきではないか。問題が先鋭化した昨年以来、そうする機会は十分にあったはずだが、実際に行われたことがあるのかどうか、寡聞にして知らない。
また、仮に「わが国固有の領土」と考えるにしても、独立の報道機関としては当然、相手国側の主張にも耳を傾ける姿勢を放棄してはならない。中国側の立場がいかに不合理、不当であっても、その主張を伝え、その上で不当な点を指摘する公正さをもつべきだろう。
疑われるのは、メディアが「世間の空気」を恐れているのではないか、という点である。尖閣を例にとって言えば、昨年秋の民主党政権による国有化以降、中国との関係が急速に悪化、日本国内には中国側の非を鳴らす空気が一気に強まった。尖閣を「固有の領土」とする立場があたかも所与のものとなり、その前提を疑って議論することが、少なくとも国内でははばかられるような空気が強まった。メディアが「わが国固有の領土」を当然の前提としてニュースを伝えるのも、そうした空気を踏まえ、余計な面倒を避けるためのものであった、と思われるのである。
先見性ある汚染水報道を
福島第一原発事故の汚染水をめぐる報道も、メディアの「漂流」が疑われる事例の一つである。8月以降、現場の地下水の汚染や回収、保管している汚染水の漏えいを含め、ほとんど日替わりのように新しいトラブルが次々に明かされている。汚染水の問題は今年3月以降、散発的に伝えられていたが、7月の参院選を境に地下汚染水の海への流出や保管タンクの不具合による漏えいなど、極めて深刻な事態が表面化した。
原発事故から2年半、いまさらのように汚染水問題で大騒ぎするのは、素人目にもいぶかしく思われる。破壊された原発で核燃料や使用済み燃料を冷却するのに大量の水が使われる。使われた水は放射能に汚染されどこにも持っていき場がない。一日400トンずつ増え続けるといわれる汚染水の保管タンクは、福島原発敷地内に約一千基が林立している。不足しがちなタンクの安全性にも疑問が生じている。
この間の東京電力や政府の汚染水対策をめぐる無策、無能ぶりに弁護の余地はない。そんな事故当事者の所業を見守ってきたメディアにも、まったく責任がないとは言えない。「トイレなきマンション」と評される原発システムの矛盾―核廃棄物の処分方法がまったく見出されていないことの問題の深刻さにメディアが気づいていないはずはない。にもかかわらずメディアは、新しい不具合が見つかるたびに東電が小出しに発表する事実を追いかけるのに精一杯で、汚染水問題に抜本的な対策を怠ってきた東電と政府の責任を厳しく追及するだけのゆとりももてなかった。
一連の汚染水問題はこのところ、海外でも注目を集め始めている。世界中が原発事故の「新しい危機」を心配する中で、日本政府がようやくこの問題を東電任せにせず、政府が「前面に立つ」方針を明らかにした。しかし政府や与党が本当に危機の深刻さを実感しているかどうか疑わしい。この期に及んでも政府・与党は停止中の原発を再稼働させる方針を見直す気配はない。「トイレなきマンション」の矛盾に解決のめども立たない現状にあまり真剣な配慮をしている様子もない。
メディアはどうするか。有力全国紙は原発問題について、これまでも脱原発派と再稼動派に分れている。再稼働派の新聞がその立場を見直すことは期待できない。しかし脱原発派の新聞には、少なくともこれまでと同じような行き当たりばったりの東電や政府の対応を伝えるだけでなく、今後の長期的な事故対応の見通しを踏まえた先見性のある立場に立った報道を期待したい。
メディアの気概どこに?
報道現場の直面するむずかしさにも同情の余地はある。集団的自衛権容認や日本版NSC創設、特定秘密保護法案、さらには陸上自衛隊の海兵隊機能の増強、オスプレイ導入などの政策課題が矢継ぎ早に浮上してきている。いずれも安倍政権下で対中国、対韓国関係の緊張が高まるなかで、それへの対応措置として提起されている。外に向けての日本人のナショナリズムがあおられる空気を背景に、7月の参院選で圧勝した政権側は、国民にもメディアにも国の将来を決める重大な選択を巧みに迫っている。
自分たちの政策課題を一気に実現しようとする政権側に対して、メディア側にはその勢いに対抗できる余力が残っているかどうか、疑わしい。政権・与党は自分たちの気に入らないニュースが報道されると、テレビ局に訂正と謝罪を要求、取材拒否を突きつけるという、報道への露骨な干渉もはばからない。それに対してテレビ局は事実上、恭順の姿勢を示して屈服する。しかも他のテレビ局、新聞はこの不当な政治による報道干渉に一斉に声をあげて批判することもしない。
ほんの数か月前、いわゆる「慰安婦発言」や「風俗発言」でひんしゅくを買った橋下大阪市長は、それをメディアによる「大誤報」のせいにして問題をうやむやにした。麻生副総理・財務相の「ナチス発言」もいっとき批判されながら、その後、批判があたかも誤解であるかのような言説がメディア自身の間で流れている。一連の事実は、報道現場が、こうした問題を自分たちの仕事の死活にかかわる事柄として正面から向き合い対処する気概を失っていることを示しているのではないか。
報道の仕事は目先の事象を手際よく伝えるだけではすまない。それぞれの事象の背景やそれがもつ意味にも目をこらし、必要なら問題点や将来の危険を指摘し警鐘を鳴らすことも仕事の中に含まれる。何ものにもへつらわず、何ものをも恐れずにそれが出来て初めてその任務を全うできる。「世間の空気」を気遣い、強大な政権・与党の顔色をうかがいながら表面的な事実を伝えているだけでは報道の責任は果たせない。
(「メディア談話室」2013年10月号 許可を得て掲載)
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