子安宣邦 on Twitter 9月16日〜10月6日:三木清「親鸞」、慰戯、全体主義的プロパガンダ、福島とオリンピック
- 2013年 10月 7日
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10月6日
稲葉剛さんがいっている:国を信じてはいないが上手にだまされるならいい、という空気が日本に蔓延しているように思えてなりません。それは現実逃避です。消費税であれ、社会保障や労働政策であれ、政府がこう言うが、事実は違うと突きつける。一人ひとりが「私は困っている」という声を上げないと、社会はよくなりません。・・・反貧困の運動にとって、現在の政治状況は非常に厳しいと言わざるをえない。でもだからこそ、現場から抵抗の声を上げるしかないと考えています。(10.2.朝日)
10月3日
私は三木清の好意的で読者ではなかった。それは30年代の三木の時局論的な文章のせいであるかもしれない。彼はその時代に沈黙すべきだと思った。だが彼は余計に饒舌であった。私は饒舌な哲学者に好意をもたなかった。私はいま彼の獄中の遺稿「親鸞」を論じなければならない。その「親鸞」を読んだ。
三木は「親鸞」を読者のためではない、彼自身のために書いていた。私ははじめて三木の真実の文章を読んだ気がした。恐らく『パスカルにおける人間の研究』も彼自身のために書いたものであろう。処女作と遺稿とが呼応しているように思われた。私は遺稿「親鸞」の戦後46年1月の発表の姿を求めた。
遺稿「親鸞」は『展望』創刊号(46年1月)に唐木順三のテで掲載された。その『展望』を国会図書館の憲政資料室で見た。それは占領軍による検閲文書に含まれていた。これを見たことは貴重であった。私は「親鸞」を遺していった彼の死、終戦後1ヶ月余の彼の無惨な死を考えることを余儀なくされた。
遺稿「親鸞」を、1945年9月26日中野の豊多摩刑務所のベットから転げ落ちるようにして死んでいた三木の死を考えることなく読むかどうかは、読み方の上で大きな違いだ。だがそれにしても終戦から1ヶ月、当局はもちろん占領軍も、そして知人・友人たちも三木の救済を計らなかったのはなぜだろう。
またしても終戦が我々の手による戦争の終結ではなかったことを考えさせる。それが9月26日の獄中における三木の独りぼっちの無惨な死に示されているのだ。その4年前、三木は「恐らく私はその(歎異抄の)信仰によって死んでいくのではないかと思う」と語っていたという。遺稿「親鸞」は重い書だ。
10月1日
葉山の県立近代美術館で「戦争/美術1940−1950」を観てきた。私は美術史、文学史、思想史においても1940−1950年という時期を欠落させることなく、「モダニズムの連鎖と変容」として見るべきだと思ってきた。そのことが葉山の美術館の展示で実現された。感動を与える展示であった。
松本竣介・鳥海青児・麻生三郎などといった画家のこの時期の画業を中心とした展示だが、戦時の状況にその画業を通じてギリギリに切り結んでいく彼らの仕事は感銘とともに勇気をわれわれに与える。若い友人たちとわざわざ葉山まで行ったことは決して無駄ではなかった。快い一日であった。
9月29日
慰戯(気晴らしdivertissemennt)とは人間の生の不安を紛らすこと、生の悲惨から目を逸らすことである。慰戯とは人間における最も普通の生の現実であるとパスカルはいう。そして人間という存在の根本的な現象というべき慰戯の理由をなすものは人間の生の悲惨だと彼はいうのである。
われわれは慰戯の中に目を逸らそうとしているのではないか。どこから、人類的な悲惨というべき福島の事態から。われわれの政権はひたすら国民の目を逸らす慰戯を与えることに熱中している。景気回復という投資的慰戯、オリンピックという国民的熱狂的慰戯、そしてナショナリズムという政治的慰戯を。
9月26日
ニューヨークの講演で安倍は日本の「積極的平和主義」を集団的自衛権の容認とともに語ったという。またこの大ボラをと咄嗟に思うが、彼はプロパガンダとしてのウソの意味を、その大きな効用を知ってきたようだ。権力者のウソは恐ろしい。やがてそのウソを真実として人びとに信じさせていくからである。
「全体主義的独裁は足場を固めてしまうや否や、イデオロギー教義とそこから生まれた実際上の嘘を本物の現実に変えるためにテロルを使う」とアーレントはいう。これはナチスやスターリンの場合だが、全体主義的プロパガンダはウソを事実にし、事実として信じさせていくことに注意しよう。
安倍は集団的自衛権による「地球の裏側」への自衛隊の派遣を、虚偽のプロパガンダ「積極的平和主義」の〈真実〉の行動として国民に承認させるだろう。そしてもう一つの大ウソ:「福島の汚染はコントロールされている」は、それが虚偽だとする言説を抑圧し、隠蔽して、〈真実〉に変えようとするだろう。
9月25日
「地球の裏側」発言が波紋をよんでいるという。集団的自衛権の行使が認められれば、自衛隊の派遣範囲は地理的には限定されない。したがって「地球の裏側」もその範囲になるというのだ。政権はこの発言の火消しに追われているが、訪米中の安倍自身が自衛隊の活動範囲は地理的距離とは関係ないという。
自衛隊の派遣範囲は「地球の裏側」に及ぶことを安倍も事実上容認している。それは当然だ。わが同盟国アメリカはなお「世界の警察」であり続けているからだ。だが私はこの「地球の裏側」論によって集団的自衛権のもつ危険をいおうとしているのではない。政権はなぜこの火消しをしながら急いでいるかだ。
集団的自衛権の行使を憲法解釈の変更によって承認していくことは、すでに憲法解釈の限界をこえた憲法の否認であり、廃棄である。安倍・石破自民党はさきの衆院選で解釈改憲ではなく、憲法改正の道をとることを公約とした。だがここにきて彼らは解釈改憲いや解釈廃憲の道を大急ぎでとろうとしている。
なぜ彼らは憲法否定である集団的自衛権行使の政府による恣意的承認を急ぐのか。国民の支持に確信をもてない彼らがかつての政権と同様の国民と世界を欺く解釈改憲の道を急ごうとしている。それほどアジアの安全保障は危機的なのか。だが安倍のとる方向は危機を増しこそすれ、減少させることはない。
安倍らは本当にやばい道を急いでいる。その方向にアジアの平和を見出しうるか。一層険しい緊張しかないではないか。自衛隊の出動範囲が「地球の裏側」かが問われることではない。世界の紛争地のどこでもその範囲であることは分かりきっている。その方向にアジアの平和はないことをしっかり見るべきだ。
9月21日
全体主義の人類に対する犯罪は、人間の複数性の否定として定義できるかもしれないとヤング・ブルーエルはアーレントにしたがっていっている(『なぜアーレントが重要なのか』)。人間が権利をもつ権利というべき複数性の権利とは、「何らかの人間の共同体に属する権利、一つの塊に還元されない権利、余計者にされない権利、無国籍や無権利にされない権利である。それは複数である人間によって複数である人間について語られた物語のなかで真実性をもって記憶される権利、歴史から消されない権利である。」全体主義的犯罪を人間の複数性に対する犯罪とするこの再定義が我々にもつ意味は大きい。
日本に容易に形成される国民的一体性を日本社会の痼疾とか国民性の問題としてきたが、これはむしろ昭和日本における全体主義的な複数性の否定という犯罪的傾向の持続として考えるべきではないのか。人間が複数的であることとは、人間が権利をもつことと本質的に同義なのである。
全体主義とは20世紀の遺物ではない。それは21世紀の現代国家に持続し、再生する。9.11後の反テロの戦争体制として米国に再生されたように。すでに石原・橋下ら全体主義者によって君が代を歌わない複数的日本人の人間的権利は否定されている。
この日本人の複数性の否定とは人類的な犯罪なのである。この人間の複数性の否定という犯罪が、7年後のオリンピックに向けて国民的規模に拡大されてはならない。東京オリンピックとはこの人類的犯罪が国民的規模で拡大されかねない日本の全体主義的危機だと私は思っている。
9月16日
なぜ美しいウソの言葉で7年後への楽観をいわねばならぬのか。朝日の冨永格は「日曜に思う」(9.15)で書いている。7年後の祭典を日本のためこんだ宿題を果たすための期限を切られたチャンスと考えようと。「IOC総会で首相が明言した以上、原発事故の後始末はいよいよ待ったなしである。」
「ありがたい緊張感とでもいうか、・・世界のお客を存分にもてなすべく、国のたたずまいを整えておきたい。会場づくり、選手やボランティアの育成だけが準備ではない。被災地復興、隣国との仲直り、財政立て直しなど、ため込んだ宿題に期限を切るチャンスと受け止めよう。」
「この国への追い風を久しぶりに感じる週末、少しばかり楽観してみた」と冨永は美しい言葉で書いている。だが美しい言葉のウソを朝日の紙面自体が証している。「原発 見えぬ道筋」として原発の将来像の政権における全くの不明をいっている。なぜオリンピックをめぐる「楽観」などが語られるのか。
7年後への「楽観」を美しい言葉で書くことが国民的メディア・朝日の編集委員としての務めであるとでも思っているのか。だがこれは日本に住むわれわれが直面する大きな不安・苦痛・危機から目をそらすことの手助けをしていることではないか。これはジャーナリストとしての自己欺瞞、責任の放棄である。
私は7年後の日本に「悲観」しかもっていない。それは安倍の世紀のウソで買ったオリンピックだからだ。そう考えるものは少なくはない。冨永でさえ「少しばかりの楽観」の裏にもっているのは「悲観」だろう。なぜ「悲観」を書かないのか。7年後への「悲観」をいう論説があってこそ健全な言論世界だ。
子安宣邦氏より許可を得て転載。
子安宣邦氏のツイート https://twitter.com/Nobukuni_Koyasu
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion4634:131007〕
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