日本右傾化の根本原因――ある中国社会科学者の見方についての感想
- 2013年 10月 7日
- 評論・紹介・意見
- 右傾化阿部治平
―八ヶ岳山麓から(79)―
8・15敗戦記念日にかかわって、日本の右傾化の原因を追究する論文が「人民日報」の「人民網・日本語版」(2013・8・16)に掲載された。「日本政治右傾化の歴史的根本原因 単独占領と間接統治」である。著者張健は、中国天津社会科学院院長・中国日本史学会会長であり、中国の日本戦後史研究の第一人者といえよう。
「日本語版」の論文は要約らしいが、「日本語版」は中国共産党の日本人向けのメッセージだから、これを取上げて考えても大きな間違いはないと思う。
論文は前文にいう。
「日本敗戦・降伏記念日である8月15日の安倍晋三首相の行動は目を背けたくなるものだった。彼は式辞で日本がアジア諸国の人々に与えた傷についての反省を避けたうえ、過去20年間で初めて『不戦の誓い』をしなかった。また、一部閣僚を含む右翼議員190人の靖国参拝を放任または黙認した。いずれも日本政治の深刻な右傾化を示すものだ」
以下張健論文を私なりに要約すると――
日本政治右傾化の歴史的な根本原因は、日本降伏後、連合国が米軍の「単独占領」と「間接統治」を実施したことである。
「単独占領」とは対日占領が英連邦軍のほかは基本的に米軍単独で行なわれたこと、「間接統治」とは占領軍が軍政を敷かずに、日本政府を通じて統治権を行使したことを指す。
米軍の「単独占領」だったために日本人は「米軍が連合国軍であり、日本は米国に敗れたのだ」との錯覚を抱きやすくなった。この状況がアジア各国の人々に対して犯した犯罪行為を振り返って考え直すうえでもマイナスとなったことは明らかだ。
「間接統治」は「直接統治」と比べ、日本民衆に与える心理的圧力がずっと小さかった。日本政府は事実上、米軍と日本民衆との間の緩衝作用を果たした。精神的圧力が小さいことは、日本民族が侵略行為を振り返って考え直し、加害者意識を強めるうえで自ずとマイナスにはたらいた。
この占領方式の下、戦犯およびその関係者に対する日本の追及はドイツの広範さと踏み込み具合に遙かに及ばなかった。これは日本人が今にいたるもなお戦争加害者意識を欠く重要な原因である。
米占領軍による日本改革のさなかに、極東情勢に変化が生じた。(冷戦の激化と)蒋介石政権の壊滅である。アメリカは日本の力を削ぎ、打撃を与え、戦犯の責任を追及する方針から、日本を反共基地にする方針に転換し、その復興を支援し、戦争責任をうやむやにして戦犯を徐々に公職に復帰させるとともに、日本経済の発展を全力で後押しした。
1951年9月の「サンフランシスコ講和条約」と「日米安全保障条約」の締結は、日米を敵国から同盟国へと変わらせた。
連合国軍の占領方式の欠陥と改革の不徹底のために、日本はしかるべき懲罰を受けず、その右傾的政治伝統も保護されてきた。
張健は、米軍占領期間を「間接統治」とみる。だが私は占領統治は実体として「直接統治」であったと考える。1947年の2・1スト・翌年3月のスト禁止などによって労働人民の運動を抑圧したこと、天皇制国家機構の一部廃止をふくむ「民主化」、農地改革などは「間接統治」ではできなかった、と思う。
私は、講和条約の締結によって日本がアメリカの従属国・目下の同盟者となって以後が「間接統治」であり、今日も「間接統治」下にあると考える。とはいえ、張健のいう通り、日本人が中国・朝鮮半島はともかく、東南アジア諸民族に対し戦争責任を感じることは薄かった。この事実は否めない。
張健論文で天皇とか天皇制が出てこないのは不思議である。要約のとき落したのかもしれないし、張健があえて論じなかったのかもしれない。
たしかに「単独占領」だったからこそアメリカは、天皇制をブルジョア君主制の一種「象徴天皇制」とするにとどめ、天皇制官僚機構も枢密院などを撤去したほかは根幹を残すことができた。皮肉なことに「民主化」の一環として行われた農地改革も、農村の左傾化を押しとどめた。
敗戦直後も今日も天皇の責任を問う見解はある。アメリカはあえて天皇を極東国際軍事裁判の訴追対象から外し、日本人の天皇崇拝を利用することで占領政策を効率的にすすめた。一方、敗戦直後には「一億総懺悔」という発言もあったが、この時代、国民は被害者で、悪いのは戦争指導者だという気分が日本社会に広く存在した。このためか極東裁判でA級戦犯を戦争責任者としたとき、戦争を煽られた国民側の責任もあいまいになってしまった。たしかに、日本人は原爆投下や東京大空襲などによって、自らを被害者にし免罪してきたと思う。
アメリカはポツダム宣言の厳正実施・日本制裁という占領政策を転換し、日米安保体制と天皇制官僚の復活をはかって日本を反共基地にした。その象徴的人物は「昭和の妖怪」といわれた、安倍現総理の祖父岸信介である。彼は元満洲帝国総務庁次長・東条内閣商工大臣だったから、A級戦犯の疑いをかけられたが不起訴、1948年巣鴨拘置所から釈放されて、57年には内閣総理大臣の地位に座る。
これによって、植民地化と侵略の歴史を、欧米帝国主義からのアジアの解放(いわゆる大東亜共栄圏)という名目で正当化し、戦争責任を回避しようとする思想も生き残った。ここまでは張健のいう「単独占領」と、その後形成された支配体制のしからしめるところである。たしかに戦争責任の追及は西ドイツのようにはいかなかった。
張健論文は、戦前、日中戦争に反対し、戦後は右傾化反動化に抵抗してきた左翼勢力を論じない。丸山真男は天皇の戦争責任を指摘するとともに、日本共産党が反ファショ闘争に失敗した歴史的責任を問うた。では平和・民主勢力を自称してきた左翼は(私などのような有象無象も含めて)、今日、平和憲法が空文になろうとする事態に責任がないのだろうか。
戦前、侵略戦争に反対した左翼は日本の良心であった。戦後の左翼的風潮は流行ではあったが、左翼政党はそれを養分として政権を担うまでに成長できず、憲法擁護勢力は最大でも国会の三分の一を大きくこえることはなかった。
ソ連東欧の崩壊以後、社会党内の多数は右傾化して保守第二政党の民主党に参加し、社会民主主義者集団としてはほとんど消滅した。共産党は自らの正しさをいつも強調してきたが、それが説得力をもって国民の間に力量を拡大したとはいえない。
経済不況が始まるとともに左翼勢力は後退した。それが日本社会の右傾化・反動化を加速した。中国人の立場から張健はこれをどう評価するだろうか。
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