10.26公開研究会 永谷清著『市場経済という妖怪』をめぐって―レジメ
- 2013年 10月 12日
- スタディルーム
- 永谷清
レジメ 『市場経済という妖怪』-第二部を中心に
2013年10月26日 上智大学
永谷 清
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私が本書で問題提起している事項は、他面にわたっているが、まず第一点は、現代資本主義の金融経済化、グローバリゼーションを、ただ資本主義の新たな発展(グローバル資本主義)とだけとらえているのでよいのか、という点である。新自由主義化により、資本主義は「暴走」(ライシュ)、「狂奔」(グリン)、「凶暴化」し始めた、あるいは「進化」、反対に「逆流」し始めた、という様々の説があるが、どれも資本主義の新たな展開と捉えている。この流れから資本の本性を「略奪による蓄積」と解し、資本主義や『資本論』をこの観点から見直そうという試みまで生まれている(ハーヴェイ『<資本論>入門』、『資本の<謎>』)。
私はこの流れに異議を感じている。確かに「暴走」、「凶暴化」してきたのであるが、それはもはや資本主義のたんなる発展とはいえないのではないか。資本主義が市場経済の発展によってその本質が次第に崩されてきたために、そうなってきたのではないか、と考えている。それは資本主義の劣化であるが、直ちに資本主義の終焉やポスト資本主義とは異なる。これを私は脱資本主義化と本書では呼んでいるが、16世紀以降の資本主義の発生に対比されるべき、世界史の地殻変動の開始なのではないか、と考えている。
この問題提起は、資本主義と市場経済を同義語と解したり、市場経済の最も発展したものが資本主義であると解しているかぎり、理解不能である。資本主義は市場経済に違いないが、市場経済は発展すれば必ず資本主義へ成長したわけではない。特殊な時期と特殊的な歴史的環境において、初めて市場経済は資本主義になった。ブローデルをはじめフランスの歴史学者は、両者の違いを認識して、資本主義の形成期を分析している。しかし両者がどう違い、どのように関連しているか、となると各人の見解はばらばらになってしまう。それは「群盲象をなでる」のような状態になってしまう。それぞれ部分部分としては間違いではないが、正体を全体としては捉ええていない。私は、それは歴史学では正確に捉えられないのではないか、原理論においてこそ初めて捉えられる、と考えている。
近代経済学者は両者を同義に解しているから、この区別は分からない。しかしマルクス経済学者ではこの区別が明瞭かといえば、必ずしもそうではない。とくに原理論を認めない人々がそうである。原理論では、流通形態論と、資本の生産過程での価値の実体規定の区別と連関がそれを明らかにしている。本書の第一部でそれを取り上げたのは、そのためである。
(今回は第二部を対象とするので、第一部は触れないが、マルクス経済学で長年論じられながら、いまだに解決に至ったとはいえない価値形態論と価値法則について、そこでは最新の私見を披瀝しているので、理論に興味のある人はぜひ検討して欲しい)。
原理論を理解できない人々が、市場経済と資本主義の区別と関連に鈍感なのは当然である。私はこの区別と関連を宇野弘蔵から学んだが、宇野はそれを『資本論』から学んだと言っていた。マルクスの優れた原蓄論は原理論では取り上げないことを説明するときによく触れていた。労働力商品の登場による産業資本の成立の論理が、市場経済と資本主義の区別と関連を理論的に明らかにしている。
昨今の金融経済化、グローバリゼーションは、もはや資本主義の更なる発展ではなく、資本主義の劣化、脱資本主義化(ex-capitalism transition)ではないか、という私の問題提起は、市場経済と資本主義の違いと関連という理解が出発点になっている。『資本論』や宇野原理論が契機となっているとしても、マルクスや宇野にこの考えがある、というのではない。私独自の見解で、もし誤っていれば私だけの責任である。
市場経済が資本主義へと変わり始めたのは、16世紀の西ヨーロッパのキリスト教文化圏においてであったのと対照的に、変動相場制への以降においては、グローバル化した市場経済が資本主義の枠を次第に溶解し始めたのではないか。資本主義とは、絶対王政の重商主義的覇権競争からはじまるように、本来国民経済を単位とする、市場経済は資本主義以前から存在し、民族、宗教、国家などを超えた最初からグローバルなものである。資本主義が覇権国を中心とする「世界システム」をなすとしても、それ資本主義国を単位とする世界的編成である。「世界システム」が単位をなし、各国資本主義は世界資本主義の部分にすぎない、とはいえない。私は「世界システム」は段階論の概念ではないか、と考えている。
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脱資本主義化と見られる現象をいくつかあげてみよう。
資本の変質
現在の大企業は、もはや国民経済の枠に制限されることなく、それを自由に超えて価値増殖を求める。賃金の安い、あるいは規制の少ない国へ工場を移し、税金の安い国へ本社を移す。タックス・ヘイブン国が繁栄するという珍現象が起こっている。このような多国籍企業を新たな資本形態とする論者もいるが、私は産業資本の商人資本化にすぎないと考えている。生産過程を担当していても、もはや価値法則を基礎として価値増殖する資本ではなく、「安く買い高く売る」をモットーとし、規制の緩い国では収奪的に行動することを辞さない。
銀行についても、大企業の銀行離れによって、預金と信用により利潤を稼ぐ、貨幣市場の主ではなくなり、消費者信用や高利の貸金業に間接的に手を出したりすることになっている。証券業(資本市場)からの隔離という壁が崩され、投資銀行と似たものへ変わってきている。レバレッジをきかせて高利潤を荒稼ぎする投資銀行やヘッジファンドのようなものを金融資本と呼ぶ人々がいるが、帝国主義段階の金融資本とは全くの別物である。これも新たな資本形態というよりも、金貸し資本と商人資本のハイブリッドのようなものではないだろうか。
資本主義のカジノ化
G―W―G’を本性とする資本は、仕入れた商品が高く売れなければ大損をこうむるというリスクを抱えている。利潤の根拠をこのリスクを負うことに求めるのは、商人ないし資本家の経験から来る常識である。しかしこの常識では、なぜ社会全体で利潤が増額し、国富を増進させるか、説明できない。市場経済が生産過程を全面的に支配し、一社会が成立した時、つまり資本主義が成立した時、利潤の根拠が労働、あるいは剰余労働によって説明できることになった。産業資本もリスクを引受けて利潤を獲得しているのであるが、それが利潤の根拠を説明するわけではない。
しかし変動相場制への以降以来、為替変動リスクが全般化することにより、リスクを起因として荒稼ぎする資本が一気に増えることになった。債権、先物価格、保険などの金融商品を売買する資本にあっては、もはや労働という利潤の根拠は失われている。リスク引き受けを利潤の根拠とする説明が現実味を帯びつつある。このような金融経済を、スーザン・ストレンジは『カジノ資本主義』と呼んだが、私は資本主義のカジノ化という脱資本主義の一例と考えている。
現在、実体資産にたいして金融資産の異常な増大が報道されているが、その大部分は擬制資本化による資産であり、これも脱資本主義化とみることができる。
貧富の格差増大
労働者階級と資本家階級間の貧富の格差は、資本主義の本質をなしているが、現在進行している貧富の格差は、これと性質を異にしている。それを労働力の商品化の進展、その極点のように説明するのは間違っている。労働力の商品化を「労働の商品化」と混同することから、それはきている。資本主義の発展はゆとりある中産階級を増大させてきたが、現在、多くの中間層の人々が貧困階層への転落し、極く少数の者への富の集中するという問題が起こっている。これによりこれまで築かれてきた先進国の民主主義が崩れるのではないか、という危惧を多くの識者が指摘している。この傾向は、IT情報化、金融経済化の進展により著しくなっている。この現象もたんなる資本主義の発展と解するだけでよいだろうか。
正規雇用の破壊ともいえる自体が、労働界で起こっているが、これも労働力商品化の規定に何か変化が起こっていると考えられる。
あらゆるものの商品化
労働力の商品化は、原理論が示すように、全生産物の商品化(完全な商品生産)をもたらす。しかし現在進行しつつある公共サービス(行政、教育、福祉、治安、自然保護など)の企業による民営化は、資本主義の発展なのだろうか。経済は企業に任せるが、それら上部構造は市民社会ないし国家が担うという形で、公と私が截然と別れているのが、資本主義の特徴ではないだろうか。この現象も資本主義の市場経済による熔解の一例と見ている。
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以上の私の説明からすると、脱資本主義化は変動相場制以降の金融経済化、グローバリゼーションから始まったように解されるかもしれない。もっと長期的なパースペクティヴで考えてみると、それは第二次世界大戦後の福祉国家の登場から始まっていたのではないだろうか。脱資本主義の第一局面が福祉国家であり、第二局面が新自由主義による金融経済化、グローバリゼーションと考えている。
宇野弘蔵は、1917年のロシア革命を高く評価し、第一次世界大戦後以降を世界史的には。社会主義社会への移行期と考えていた。スターリンの粛清による圧制やハンガリー動乱を知っても、社会主義建設に伴う原蓄期のようなものと解していたようにみえる。1990年前後の旧社会主義国の解体を知ったわれわれが、この認識でよいのかが当然問題になる。このことから宇野の現状認識だけでなく、段階論や原理論までも見直す、あるいは否定する論者も現れている。しかし私は原理論や段階論は基本的に正しいと考えている。だが、現状分析や社会主義認識については、改定する必要があると考えている。
脱資本主義を最初に唱えたのは関根友彦氏であった(『経済学の方向転換』)。氏は第一次世界大戦後、あるいは1930年代の金本位制の崩壊以降と主張している。私は第二次世界大戦後以降と考えている。冷戦下における資本主義世界のアメリカ覇権の成立によって、植民地支配体制が克服され、福祉国家が確立しえた。戦間期はワイマール体制の崩壊や金本位制の崩壊、植民地支配戦争にみられるように、まだ資本主義の復興と脱資本主義化の動きとが攻めぎあった期間のように私にはみえる。
第一と第二次世界大戦の壮烈な惨禍を経験して、もはやたんなる資本主義の復興ではダメである、と人類が実感したのではないか。それは国連憲章や日本の新憲法にも表れている。植民地主義の否定、基本的人権の確認、国民主権、国民の福祉(雇用を含む)への国家の責任、戦争の否定などである。これらは資本主義社会から一歩出るものであり、福祉国家体制は脱資本主義の第一局面をなす。現実にはそのような国家が成立していないとしても、それらはたんなる名目にすぎない、と言って済ませるだろうか。これらの変化は旧社会主義国あるいは社会主義運動への対抗なしには考えられない。といって対抗だけで説明できるものでもない。
宇野の言う段階論は資本主義の発展段階論で、3段階は第一次世界大戦までとするのは、意味がる。それ以降に新しい段階を付け加えようとする試みや、今も帝国主義段階の延長であるという考え、には賛成できない。第二次世界大戦後は資本主義社会が次の社会へ移る移行期になり、その局面の第一と第二に、福祉国家と新自由主義国家が当たるのではないか、と考えている。
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しかしその後の新しい社会については、これまでマルクス経済学で前提されていた社会主義社会と決めてかかってよいのか、検討する必要があるだろう。次の新しい社会は社会主義社会であり、それは労働者を主権とする社会であり、プロレタリア革命によってそれは生まれると、これまで広く考えられてきた。マルクス・レーニン主義がその典型である。宇野はこの主義者ではないが、この見通しを信じていたように思われる。新しい社会の建設を議会を通し民主的手続きを経て達成しようとする社会民主主義は、これと違うが、新しい社会が社会主義社会であるという点では一致している。私はこれに疑問を提示している。本書第二部の終章がそれである。主にジャック・アタリを対象に論じている。当日、時間が許せば、ハーヴェイ、トッド、ネグリ&ハートなどにも触れてみたい。
以上
会場:上智大学(JR・丸ノ内線・南北線四ツ谷 麹町口・赤坂口下車5分)2号館13F 1330B教室
日時:10月26日 午後1時半(開場.午後1時)
講師:永谷清 コメンテータ:大野和美、半田正樹
参加費:500円 問合せ先090-4592-2845(松田)
(『市場経済という妖怪―「資本論」の挑戦』2013年6月、社会評論社刊、定価2625円)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study596:131011〕
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