「敵は本能寺」あるいは「指桑罵槐」(あてこすり) ―中国内陸部の「反日」デモについて考える―
- 2010年 10月 21日
- 時代をみる
- 中国丹藤佳紀反日デモ
10月16日、中国四川省・成都、陝西省・西安そして河南省・鄭州の3都市で大規模な「反日」デモが行われ、合わせて数万人が参加したという。さらに翌17日には四川省・綿陽でデモがあった。2~3万人といわれる参加者の一部が暴徒化して日本料理店や日系の家電販売店に投石したり、日本車をこわしたりしたと伝えられている。
10月16日に再発したこれらの「反日」デモには、いくつか「おや?」と思わせる点があった。例によって十分な情報があるわけではないが、現在の中国で国民、市民が街頭に出てデモをすることの意味まで含めて考えてみた。
第一の疑問は、デモが行われた時期・タイミングである。9月上旬に中国漁船衝突問題が起き、曲折をへて10月4日に日中両国首相が初めて公式に接触した。また、抑留された4人のフジタ関係者中、最後まで残された現地法人の社員が9日に保釈金を払って釈放されている(中国側の司法手続きで「取保候審」=処分保留による釈放)。つまり、中国漁船衝突問題をめぐる対立と対抗は峠を越したとみられていたのである。
これについては日本のメディアでも報道されたが、日本側で、「中国大使館包囲、尖閣侵略糾弾!緊急行動」というデモ(10月16日)の呼びかけが主催団体(会長=田母神俊雄・前航空幕僚長)によりネットで流されていた。それを知った中国側が対抗措置としてデモの呼びかけ・組織をおこなったようだ。
それにしてもなぜ成都・西安・鄭州(のちに綿陽・武漢)など内陸部の数都市で行われたのかというのが第二の疑問。この問題を考えるためには、デモの参加者はどういう人たちだったかを併せて考えた方がいいようだ。現地からの情報によると、二日目にデモのあった綿陽では、前日の成都でのデモの盛り上がりを知った若者がインターネットや携帯電話でデモを呼びかけた。
デモは最初、数百人規模で始まったが、途中から加わる人が増大してふくれあがり、その一部が暴徒化したのだという。ネット報道によると「公安当局者は『暴徒の多くは職のない貧困層だった。反日を口実にデモに参加し、実際は反政府を訴えた。中には、2008年の四川大地震で家や仕事を失った者もいたようだ』と話した」(MSN産経ニュース)。
また、これら内陸諸都市のデモに共通なことは、大学生やフリーター(就職浪人)が多数参加したことだろう。工業都市・武漢で18日行われたデモも最初は学生など100人ほどの行進から始まった。その模様が携帯電話やツィッターで友人や知人に伝えられ、参加者が約2000人に増大した。
その背景としては、まず、全国的な就職難という状況があり、新卒大学生も例外ではないということである。そうした中で、大学生が安定した身分を求めて国家公務員試験に殺到した(「金飯椀・銀飯椀・銅飯椀」)、フリーター(就職浪人)が仲間で共同生活をしている(「蟻族」)などの状況を本ブログで紹介した。
経済状況が好調といわれる東部沿海地帯でも大学生の就職率は60%前後とされるが、内陸部になると40%前後に下がってしまうという。
第一にあげたデモの時期・タイミングに関しては、もう一つ国内政治にからむ問題があった。それは、習近平・国家副主席(党中央政治局常務委員)を党中央軍事委員会副主席に任命する決定を下した第5回中央委員会総会(5中総会)の会期中(15日~18日)だったこと。これまで中国では、党中央委総会のような重要会議が開かれているとき、街頭デモのような大衆行動が展開されたことはほとんどなかった。それが今回は3日間にわたって続けられたばかりか成都・綿陽などで暴徒化して05年の「反日」デモ当時のような被害をもたらした。
これについては、 『リンゴ日報』など香港紙が「大学の学生会がデモ呼びかけ」という情報を流し、そのため「すわ、官製デモ」と報道した夕刊紙もあった。ただ、学生会は当局公認のものだが、共産主義青年団の指導下にあり、政治的な立場は判定しにくい。
というのは、内田樹・神戸女学院大教授の指摘するとおり、「反日デモは、『親日的な政治政策』を掲げる統治者への『揺さぶり』として保守派が仕掛けたり、あるいは保守派の先手を取って、『親日派』のレッテルを拒否するため改革派が仕掛けたりする、政治的なカードなのである」(ブログ「内田樹の研究室」18日)。
中国漁船の衝突問題が起きた翌日、中国共産党機関紙 『人民日報』は、中国側が前日行った日本側への申し入れや抗議を報道しなかった。日本側の柔軟な対応によって、中央委員会総会前に“水面下での決着”を期待してのものだったと思われる。推測するに、領土問題のからむこの一件が表沙汰になると、ウェブ世論を刺激して収拾が難しくなり、中央委総会にも影響を及ぼすからだろう。
ところが日本側との間で「あうんの呼吸」とはいかなかった。中国側の期待がはずれて船長の逮捕―拘留(勾留延長)となると、手のひらをかえすように対抗・報復措置を繰り出した。対日関係での弱腰は大失点になるからである。
中国では、中国共産党や政府にモノをいうデモは事実上禁止されている。ただ、最近さまざまな地方で、農地や宅地の強制徴用や地方幹部の不正腐敗に抗議する集会やデモがかなりの数で行われているという。それに引き換え、今回の「反日」デモ再発に見られるように、「反日」を掲げさえすれば、本当に言いたいことは別にある場合でも“お目こぼし”にあずかって発散することができる。これは、中国の若者が5年前の「愛国無罪」をスローガンにした「反日」デモで学んだことだ。
内陸部でそうしたデモが続く一方で北京では5中総会が開催された。その決定による習近平・党中央軍事委副主席の出現がどういう党内力学によるものか、まだ判然としない。しかし、外交は内政に連動している―学生時代、国際関係論でならったことを想い起こさせられた「反日」デモ再発であった。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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