アベノミックスは「天動説」 -俗流経済学で国民経済は救われない―
- 2013年 10月 19日
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- アベノミックス盛田常夫経済学
事象の現象と本質を区別できず、あたかも目に見える現象を対象世界のすべてと錯覚するのが、非科学的な俗流理論。地球が動いているのではなく、太陽が地球の周りを回っていると考えた「天動説」は、現象から本質を分析する難しさと、本質を知る重要性を教えてくれる格好の材料である。
現代の社会科学は哲学的思考を極力排除することで成り立っている。マルクス主義への対抗から、形而上学的な概念を排し、五感で体感できる現象の相互関係の分析に専念してきた結果である。こうして、現代の社会科学は本質と現象、あるいは実体と形式という基本的な哲学的概念を捨て去り、極端なまでに現象論(現象学)に陥っている。こういう状況は社会科学における「天動説」を生みだしやすい。現象を世界のすべてと思い込み、現象を操作すれば問題が解決できると考える。
他方、マルクス主義的社会理論は現象分析より本質究明を重視するあまり、本質から現象を理解する思考プロセスを疎かにし、本質から直接的に現象を説明するという「中抜け」の単純理論に陥ってしまった。政治運動には本質論が分かりやすい。しかし、社会科学理論としては不完全である。本質の分析は現象理解の重要プロセスだが、本質から現実の複雑性の理解を高めていくプロセスが排除されてしまえば、現実を変革する有効な政策を生み出すことができない。訓詁学に陥ってしまったマルクス研究は言うに及ばず、マルクス経済学が衰退した原因はここにある。本質だけを議論する理論は、結局のところ、哲学の域を抜け出せないからである。
価値論の欠如
経済学が歴史に登場して間もなく、経済的価値の実体をめぐる論究が大きなテーマになった。ところが、労働価値説に対抗して、19世紀から20世紀にかけて勢いを増した主観的価値論(効用理論)の登場によって、非マルクス経済学では価値の実体を議論することが放棄された。価値の実体を探るのは哲学で、経済学には不要というコンセンサスが形成された。実体という訳のわからないものを探求するより、五感で感じられる価格を分析するだけで、経済分析は達成できると考える。現代経済学は価格現象(相対価格関係)を対象にするだけで十分であり、価値論は不要だと考えられている。若い経済学者は、価値論の議論があったことすら知らない。
しかし、価値実体の究明なしに、経済学は基礎づけられない。それは素粒子論がなければ、現代物理学が基礎づけられないのと同じことである。もっとも、素粒子論なしでニュートン力学的世界が構成されるように、価値実体論なしでも現象論的経済学は構成される。しかし、世界の究極の姿を考えようとすれば、実体分析にたどりつかざるを得ない。それは物理学も経済学も同じだ。
この現代経済学の理論的欠陥は、アベノミックス評価をめぐる議論にも顕著に現れている。ほとんどの経済学者は、付加価値の実体が何であり、GDPの実体が何であるかを無視して議論している。経済学を勉強したこともない政治家もまた自明の理のごとくGDP概念を使っているが、いったいGDPはどのように定義されるのか、その定義をめぐってどのような議論が存在してきたのか、実際のGDP数値はどうやって計算されているのか、その数値はどの程度の精確性をもつものなのか、GDP統計処理に人為的な操作の余地があるのか否か、GDPを表現する国民経済計算体系がどのような原理で構成されているのかについて、まったく無知なままに議論している。まさに「群盲象を評す」のようなカオス状態である。だから、アベノミックスをめぐるGDP成長の議論にも決着が付かない。なぜなら、価値論を欠く経済理論は究極問題に回答を与えることができないからである。しかも、深刻なことに、そこに問題があることを意識している経済学者はほとんどいない。まさに「経済学の貧困」状態である。
実物vs金融
現代経済学から哲学的な概念がまったく排除されている訳でもない。たとえば、「金融経済と実体経済」という対概念が頻繁に使われる。金融と実体という対概念は奇異であるが、この奇妙な対概念は国民経済の現象と本質という関係を、哲学的な厳密性を無視して表現するものだ。
実体経済はreal economyを、金融経済はmonetary economyを指しているから、「実物と金融」と表現すべきだが、「実体」(substance)という表現にはそれこそが経済の本質であり、この本質こそが現実(real)であって、それと対比される金融経済は虚構(virtual)あるいは実体を包む形式(form) という意味が込められている。このように考えれば、奇妙な対概念の意味を理解することができる。
このように、無意識に使用されている金融経済と実体経済という表現は一種の哲学的判断を含むもので、国民経済の本質は金融経済ではなく、実体経済にあることを示唆する対概念である。もちろん、金融と実物は相互に作用し合うが、実物に経済の本質があると考えるのは、しごく真っ当な思考である。ただし、金融と実体という表現を使っているエコノミストが、どれほどこの概念の区別と関係を理解しているかはきわめて怪しいが。
まさに、この理解の度合いによって、アベノミックスの評価も分かれる。実体経済を重視する経済学者は金融政策の限界を指摘し、実体経済を支えている条件や環境の変化に目を向けるべきことを主張する。他方、アベノミックスを持ち上げる経済学者は金融政策から実体経済への作用を重視し、金融政策が惹き起す「期待」の変化が実体経済に影響を与えると考える。いわば、現象から本質(実体)を変えるという考え方である。
相互作用があるのだから、金融政策が実体経済に影響を与えないことはあり得ないが、それは短期的の話であって、実体経済が抱える構造的で長期の環境変化には無力である。だからこそ、実物経済が究極的な本質であり、金融政策が現象なのである。それを逆に捉えるのが、「異次元の金融緩和」を支持する経済学者たちだ。まさに天動説に依拠した政策論である。
アベノミックスの成功は数式で証明される?
数学で世界のすべてが把握できると本気で考えている「学者」(たとえば、高橋洋一『日銀新政策の成功は数式で全部わかる』徳間書店)もいる。しかも、「世界は一次方程式の集合体」で、世の中のすべてが一次方程式の近似で理解できると豪語する。
残念ながら、社会を含めた自然世界はそれほど単純でも簡単でもない。単純なのはそういうことを考える「学者」の頭の中だけ。世界の一流の数理経済学者は自らの理論や議論の限界を良く認識しており、数学だけで経済世界が解明されると考えている人はいない。残念ながら、数理経済学も計量経済学的手法も、現代経済の理解にはほとんど無力である。
数学の力を過信する「学者」は、数学という学問の限界を無視し、数学を実物存在と錯覚している。「この世界に存在するものやこの世界で起こっていることは、なんであれ数字に置き換えられる。…….なぜなら、極言すれば、人間が認識できる世界は基本的には一次方程式の組合せで出来上がっているから」だという。彼の認識も数式も現実世界ではなく、すべて彼の頭の中の世界であることが、理解できないようだ。しかも、数学は対象を同質なものとして扱う。質が異なるものを数学的に表現することはできない。だから、社会科学での数学利用が難しい。数学万能論は、数学の科学としての限界を無視した暴論である。
高橋氏がアベノミックス成功証明に依拠している数式は、GDP=消費+投資+政府支出+純輸出という単純なマクロ経済式。このマクロ式は後に記すように、基本的には国民経済計算の恒等式である。マクロ計量分析はこの恒等式を方程式に変えることによって、経済予測を狙ったものだが、残念ながらマクロ計量分析はほとんど役に立たず、その地位が低下している。それもそのはず、国民経済に構造変化が起きた場合、過去の変動や趨勢から推し量る計量予測など役に立たないからだ。
数学科出身の高橋氏は財務省で計量分析に携わってきたこと自負し、数学的知識のないエコノミストを「ど文系」と蔑視しているが、数学で経済学をすべて理解できると考えるのは、数学世界と現実世界を同一視する一種の倒錯思考である。
なぜ数理経済学は役立たないのか
現代の数理経済学の基礎を作ったのは、ハンガリー出身の数学者ノイマンである。ノイマンはゲーム理論や位相数学を使った市場均衡解の存在証明によって、現代数理経済学の基礎を作った。ノイマンにとって経済均衡モデル構築はモデル構築の余興の一つにすぎず、それまで経済学者たちが解析学を使って証明できなかった均衡解の存在証明を、位相数学(「ブラウアーの不動点定理」)を使えば簡単にできることを示しただけのこと。1930年代初めのことだ。当時、このモデルを理解できた経済学者はおらず、それから20年近い歳月が経過して、数学専攻の大学院生だったナッシュが「角谷の不動点定理」を使った均衡モデルを構成した。不動点が1個存在する「ブラウアーの定理」から、不動点が集合になる拡張定理が「角谷の不動点定理」である。プリンストン大学高等研究所に留学していた角谷静夫はノイマンの助言をもらって、この定理をエレガントな形式に仕上げた。
ナッシュがこの論文を書き上げて40年以上もの時間を経てノーベル経済学賞を受賞した。その所為か、数理経済学者はナッシュが現代数理経済学の基礎を築いたと信じて止まないが、不動点定理を使った均衡証明を最初に示したのはノイマンである。ナッシュがノイマンに論文を見せた折、ノイマンはパラパラと目を通しtrivial(つまらん)と一蹴した。ノイマンにとって、ナッシュ論文は不動点定理応用の二番煎じに過ぎず、数学的に新しいものは何もなかったからだ。
ノイマンが常々経済学者の数学的無知を批判していたことが、いたく当時の経済学者を傷つけた。そういう背景もあって、一流の数学者が本職ではないホビーの分野で、数理経済学の基礎を作ったなどと認めたくない経済学者たちは、ノイマンの死後、ノイマンの陰を消すことに努めた。「ナッシュ均衡の方がノイマン均衡より一般的だから、ナッシュが数理経済学の基礎を作った」、と。これが意味するところは、「角谷の不動点定理」が「ブラウアーの不動点定理」より一般的だというだけのことである。
ノイマン自身はモルゲンシュタインとの共著(『ゲーム理論と経済行動』1944年)執筆以後、経済学へ関心を示すことはなかったが、戦後に数理経済学へ転身した数学者や経済学者は皆、ノイマンの著作の解読に励んだ。ノイマンの着想からモデルの条件を変えた種々の均衡モデルが生まれ、ゲーム理論の応用を含め、10名を超える数理経済学者がノーベル経済賞を受賞した。1994年にナッシュやハンガリー人のハルサーニィ他1名がゲーム理論の現代的貢献でノーベル経済学賞を受賞したのは、ノイマンとモルゲンシュタインの著作出版50周年を記念してのことだった。それほどノイマンが数理経済学に与えた影響は大きかった。
しかし、戦後の数理経済学の隆盛は経済学を応用数学化へと変貌させてしまい、数理経済学は純粋数学での成功を諦めた数学者が転身できるもっとも有利な学問分野で、さらにはノーベル賞をも狙える分野になってしまった。しかし、数理経済学者がノーベル賞を続々受賞しても、国民経済の理解が深まる訳でも、現実世界の有効な政策指針が与えられる訳でもない。ここがほかのノーベル賞対象科学と違うところだ。それは数学モデルの性格そのものから説明される。
数学モデルの構築では、まず初めに証明したい結論がある。たとえば、不動点が均衡点だと言えるようなモデルを作れば均衡点の存在証明になるから、この結論が導かれるような前提条件を確定する論理構成を考える。そして、その前提条件から出発して、演繹的に証明論理を導き出してモデルを構成する。現実経済に均衡など存在しなくても、均衡モデルが作られる。数学的にエレガントなモデルを構築できないと、欧米の大学で職を得ることが難しくなっている。
一時期流行った産業連関分析は、経済計画の必要性から生まれたソ連邦の物材バランス法を、ロシア革命当時レニングラード大学学生だったレオンチェフが、西側世界に移ってから、数学的処理の着想を加えてモデル化したものだ。昔ほど重宝されない理由は、モデルに組み込むデータに信憑性がないことや、構造変化が捉えられないという致命的な欠陥があるからだが、そもそも一次方程式体系で国民経済の構造を表すことなど不可能なことだ。その点では、使用する数学のレベルは違うが、マルクスの算術式(再生産表式)の有用性とさほど変わりない。
数量分析として一つだけ世界中で常時使用されているのが、国民経済勘定(国民経済計算)である。国民経済勘定を構成する種々の総計値の恒等(等価)性は勘定形式から導かれる当然の結果であり、高橋氏が考えるように都留重人氏が考案したものではない。さらに、この国際標準体系はケンブリッジ学派のストーンの着想にもとづき、国連統計委員会が中心になって標準体系を構築したものだ。こういうボロがでるから、あまり「ど文系」を侮らない方が良い。
国民はデイトレーダーではない
GDP(Gross Domestic Products)は1年間に国内で創造された付加価値総額である。国民経済勘定システムでは、事後的に、生産された付加価値と支出された付加価値は等しいと想定するから、
生産GDP = 支出GDP(= 消費+投資+政府支出+純輸出)
と表記する。この恒等式は、左辺の生産GDPと右辺の支出GDPが事後的にバランスすることを示している。付加価値総額は事業体の付加価値を総計して得られる。付加価値の実体が何かは教科書では一切記述されないが、労働支出と考える以外に方法はないだろう。この大きさを規定するのは、労働力の質と量である。高度成長によってGDPが急成長したのは、年間200万人もの新規労働力が国民経済に入っていったからである。高度成長が始まった理由も、高度成長が終わった理由も、究極的には新規労働力の質と量で理解される。
しかし、俗流経済学はそのように説明しない。生産面からアプローチすると付加価値の実体の説明が不可欠になるので、GDPを支出面からだけで説明して価値実体論へ入るのを避ける。そして、恒等式を方程式として読み替え、右辺の消費、投資、政府支出、純輸出を独立変数とする関数関係として理解し、左辺のGDP支出項が増えれば、右辺の生産GDPも増えると解釈する。
GDP=F(消費、投資、政府支出、純輸出)
こうして、生産されたものが支出されると読むのではなく、支出が生産を決めると逆読みし、生産を取り巻く社会的条件を無視して、消費や投資が伸びればGDPが伸びると考える。こうして、付加価値生産の実体を説明することなく、それを所与概念として、質を問わない量的関係だけに還元してしまう。
アベノミックス効果を説明する場合、このロジックの中に金融緩和効果を挿入する必要がある。しかし、マクロ経済式に直接入れることができないので、「期待」という主観的な要素をカタライザー(触媒)として挟み込む。つまり、金融緩和政策が「期待」を通して先行的に消費や投資の増加を促進し、それが生産を牽引するという緩和効果論が展開される。
現代の労働-生産条件の中で付加価値生産を如何にして増やすことができるのかという根本的議論を避けて、主観的「期待」に期待する議論だ。残念ながら、アメリカの世論調査でも8割の人が金融緩和の意味を知らない。日本の世論調査でもアベノミックスの恩恵をまったく感じないと答える人が8割もいる。「期待」理論が間違っているのは、国民すべてがデイトレーダーのように経済行動していると想定していることだ。「異次元緩和」政策を賞賛する人々は、金融経済が国民経済を主導していると錯覚する「天動説」に陥っている。金融緩和の「期待」効果は金融投資を行っている主体に作用するだけのもので、そのような「期待」で国民経済が動いている訳ではない。
このように現象的量的諸関係を操作することによって、経済世界を操作できると考えるのがアベノミックスを擁護する経済学者たちだ。そのような操作の余地があることを否定しないが、その効果は一時的なものでしかない。なぜなら、長期にわたってGDPが増えない原因は右辺の支出要素にあるのではなく、左辺の生産を支える社会条件の変化にあるからだ。現象と本質を区別できず、現象世界の操作に活路を見出そうとする政策は、歴史的な構造転換期を迎えている日本経済の有効な道筋を示すことができない。
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