パラレルに生きてきて 1
- 2010年 10月 23日
- スタディルーム
- その生い立ち加藤周一水田洋
加藤周一(1919.9.19‐2008.12.5)とぼくは、同年同月に東京市の山手線(環状線)内側の住宅地に生まれた。ただし、同じ住宅地でも加藤が生まれたのは東京市内ではなく市外渋谷町金王であり、そこで開業医を営んでいた加藤一家と周辺住民との間の生活及び生活感情の落差は、加藤が自伝『羊の歌』に書いているとおりだろうが、今日では想像しにくい。ぼくが生まれたのは、芝区(現港区)白金台町1丁目1番地というチビの記憶自慢のとおりで、藤原銀次郎(1869-1960)邸に近接していたとは父に聞いたことである。藤原家の長男すなわち後の外務大臣が慶応への通学のはじめに、路上で遊んでいるぼくを抱き上げてから歩きだすのが常であったという。この白金も次に述べる青山も、今では超高級住宅地らしいが、当時は小市民住宅としての新開発地帯であった。
1923年9月1日に二人は満四歳になる直前に関東大震災に襲われる。ぼくはその前に赤坂区青山南町6丁目108番地の新築借家に転居していて、そこから出かけた避暑地、保田から帰った翌日の震災受難であった。ぼくが入院していた保田の病院は、震災で倒壊し、死者が出たということであった。避暑という生活習慣は、恐らく第一次大戦による好況が広めたものだろうが、我が家ではかなり後まで続いた。その経済的基礎を考えると、大震災までの父は大倉書店で、芳賀矢一編の国語辞典『言泉』の編集主任のようなことをして(いづみという妹の名はこれからとる)、月給500円と言われていたそうだが、大倉書店は震災の打撃から立ち直れなかったので、父のそこからの収入がそれまでの水準を維持しなかったのは当然であろう。
震災がちょうど昼飯時だったので、多くの子供が卵料理を食べそこない、ぼくも(確か加藤も)その中にいた。
その代わりに我が家は、生まれたばかりの妹を含めて、屋外の避難生活を畳の上で過ごすことができた。近くの畳屋が手持ちの商品を全部、路上に展開してくれたのである。個の畳屋が108番地という数百戸の小市民集落の中のほとんど唯一の商店であった(他には氷屋と子供相手の雑貨屋)といえば集落全体の性格も想像できるだろう。
ぼくはここで育ち、東京市立青南小学校、東京府立第一中学校(府立一中)という猛烈な受験校を経て、東京商科大学を卒業した。1942年末に陸軍属(陸軍省の判任文官)として、従軍文官服に軍刀をさげてジャワへ向かったのも、ここからである(戦争はすでに決着がついていたのだが)。
この108番地という小市民集落についてここでまとめておくと、それは西を根津嘉一郎邸の長い塀とそれに沿った道路によって区切られ、その道路の終りに払い下げ軍馬で輸送業を営む集落があった。その集落の子供たちとは一人を除いて全く付き合いがなく、そこは怖いところとされていた。108番地がほぼ南へなだれる所に、ウマヤと呼ばれたその集落はあった。ウマヤへの斜面が南端を区切るとすると、東を区切るのは少し急な坂道と館山墓地と青山脳病院であった。館山墓地は谷を隔てて青山墓地に通じていて、明治の有名人の墓もあったようである。脳病院は齊藤茂吉の病院で、ぼくが小学生のころ火事で全焼した。この病院とそれを取り巻く青山南町の小市民社会は、青南小学校で9年後輩であった北杜夫の、『楡家の人々』にも出てくる。三方をこのように囲まれた108番地は北に向かって開くわけだが、その道は、有馬伯爵邸跡、青南小学校横を通って、電車道を横切り、表参道で明治神宮、原宿駅と代々木練兵場に達していた。戦争と東京オリンピックによって消滅した練兵場は、天皇による陸軍観兵式と乃木坂周辺にいくつかあった連隊の訓練に使用され、われわれ学生・生徒の軍事教練査閲の会場でもあった。陸軍大学校が近くにあったために、地方から選ばれてきた青年将校の家族があり、戦況が切迫した時は召集兵の民泊を要請されるなど、軍歌を歌って住宅地を行進する部隊のほかにも、この地域は軍隊と無縁ではなかった。1936年2月26日のいわゆる二・ニ六事件の兵士も青年将校もこの地域の部隊に所属していた。その日、加藤もぼくも、永田町の校舎に登校したまま、事件に巻き込まれるのである。
青南小学校は本郷の誠之とともに、受験校としてかなり早くから有名であったらしいから、白金から青山への転居も、教育ママのはしりであった母の主導によるものであったかもしれない。とにかくすごい受験校で、東京市の進学率が10パーセントなのに、青南ではほとんど100パーセントだった。それを達成するために、ぼくは担任教師のうちに補習に通い、毎週市内のどこかで模擬試験を受けた。
人間としての成長を大いに妨げられたはずなのだが、本人は遊び半分で、数千の受験生の中の順位が上位一桁で変動するのを楽しんでいた。この進学体制に抵抗するのは、青南を一番か二番で卒業した優等生が、府立一中で劣等生になってからである。
小学生として読書に不自由することはなかった。菊池寛・芥川龍之介の小学生全集と北原白秋・鉄雄の児童文庫は、合わせれば200冊に近かっただろうし、月刊誌として少年倶楽部、少年世界、日本少年、譚海があった。うちでは読み切れないから、教室に持ち込む。教師が怒るのは当たり前である。そういう濫読の結果、記憶に残ったものは何か。そう聞かれてすぐ思い出すのは、小学生全集のアムンゼンとナンセンの極地探検、上泉伊勢守と塚原卜伝の県議、児童文庫の「からたちの花」と「この道」である。加藤は「私が『歴代天皇の名前をすべて諳んじてみせると、松本先生は驚いた』」と、小学校の体験を語っているが、青南小学校ではそれは常識であったからだれも驚かなかった。府立一中ではこの常識を前提にして、天皇制が何年かかって現在に至ったか計算してくれる。吉田三男也老先生の「変だね」という言葉は天皇紀元には600年の嘘がある、という意味であった。中学時代を「空白五年」と総括している加藤はこの問題に触れていないが、一年違っても「変だね」を聞かなかったはずはないのである。
天皇名の暗唱から話が進み過ぎたが、加藤の体験は彼の教室での知識水準の落差を示すものであり、そのことが彼の飛び級(小学校五年から)進学を可能にしたのであった。この進級は加藤の父の発案だったらしいが、成績はダントツなのだから問題はなかっただろう。これを青南小学校でやろうとすると、教師は十五人ぐらいの優等生の中から最優秀の一人を選ばなければならず、だれを選んでも無事に済むわけにはいかなかっただろう。こうして加藤が1931年に東京府立第一中学校に入学し、ぼくも翌年受験戦争を乗り切って入学する。ぼくは四年で脱走し加藤は五年卒業までいたから、その間四年にわたって二人は渋谷発の市電で登校し下校したはずなのに、相互に認識した記憶は全くない。フックの制服もタイシャ色の鞄も目立ちすぎるほどなのに、山の手中産階級の少年はシャイでありすぎた。乗車時間が短かったことにもよるかもしれない。それよりもショックだったのは、明治神宮前(今では表参道)から市電に乗ると、発車するや否や車掌が「ただいま明治神宮前を通過でございます」と言い、乗客一同脱帽敬礼しなければならなかったことである。神田に行けば靖国神社が、銀座に行けば皇居が、それぞれ車中の脱帽敬礼の対象になっていた。教室で天皇紀元が嘘だと聞いた中学生は、車掌の声に素直に頭を下げる気にはなれなかったのである。
府立一中は京都府にも大阪府にもあるはずなのに、東京だけがそのように名乗り、通用させるのもおかしなことだが、実はそのこと自体が権威の象徴なのだった。実態はたしかに加藤が「空白五年」と呼んだのに近いのだが、全くの空白ではなかった。教師としては、江南文三について別に書いたし、吉田三男也についてはすぐ前に書いた。劣等生がいうと信用されないだろうが、一クラス二人の外人教師による会話の訓練は、ミッション系を除けば、ほかにはなかっただろう。このシステムは、続いて入った東京商大の予科にもあって、われわれの大部分はこんなもの何の役に立つといいながら、授業を受けていた。結局何の役に立ったかというと、英語をしゃべるのに物怖じしないという、ずうずうしさが身についたということではないか。たしかに捕虜としては役に立ったし、もしイギリス軍が日本軍の編成を利用しないで解体してしまったら、敗戦日本人集団の中で、ぼくは英語とインドネシア語だけで生きるしかなかっただろう。この語学力は今ではだめになったが、国際会議の司会や討論をあまり負担に感じない時期があったことは確かである。議長として「会議の進行が遅れているので、われわれはBritish Railwayで旅をするわけにはいかない。日本の弾丸列車、新幹線にしよう」と言ったら、Insulting!と野次が飛んだ。加藤にとってもこのずうずうしさが役に立たなかったはずはないと思うのだが。加藤は中学時代だけだから、年季の入れ方が違うだろうか。
加藤は、空白といったにしては教師たちのことをよく覚えていた。ぼくも大体同じ教師に習ったのだが、試験の監督と生徒への信頼の問題を取り上げた、図画の高木先生は、ぼくにとっては入学の試験官の一人であり、その年に引退する最年長の教員だった。彼はぼくの名前を見るとすぐ、父のことを尋ねた。若いころの中学で同僚だったというのである。彼はそのことを吉田三男也さんに伝えたらしく、後者はまた最先任教師として、ぼくを友人の子として弁護してくれた、ということだったようである。
中学四年の初夏の頃、ぼくはこんなところにもう一年いて、その先は浪人というのはかなわないと、脱出のための受験勉強に取り掛かり、東京商科大学予科に入学することができた。旧制高等学校には中学四年終了で受験できたのである。加藤も受験できたのだが、入学のときに一年倹約したのだからと、四年からの一高受験を見送った。翌年当然のように入学する第一高等学校の理科乙類というクラスは、ドイツ語を第一外国語とし、主として医学部進学を目指すクラスであった。当然のようにと書いたのは、加藤にとってそうであったというだけでなく、毎年一クラス分ぐらいを一高におくりこむ、府立一中の五年生にとってもそうだっただろうという意味である。
日本の旧制高校の全寮制教育については、戦後のアメリカ教育使節団も、エリート主義を批判したが原理はむしろ賞賛したという。加藤はそこで当時の日本で最高の教養教育を受けたわけだが、ぼくは同年代に商大予科の新設一橋寮で、その真似事みたいな状況に置かれる。たしかにそれは真似事で中途半端であったが、ぼくにとってはそれしかなかったのだし、それは感謝に値するものであった。
毎日90分の外国語の授業があるという生活が三年続けば、いくら怠け者でも、「予科で英語をやらないで何をやるんだ」といわれる意味がわかってくる。そのほかにはベクさんと呼ばれた名物教師太田可夫先生は自由に考えることを教え、高島善哉先生は自由になった思考を社会科学の水路に導入した。今ぼくが滅多に使わない先生という呼び方をしたのは、学士院で東大法学部系の人々が、やたらに先生というのを笑ったことを思い出したからである。一橋では(といっていいかどうか?)直接の指導教官でも、先生というのは面と向かってのときだけである。この学風にはゼミナール制度が関わり、この制度に弊害があることも否定できないが、ぼくはこの学風を享受したつもりである。予科というのは大学(本科)への進学が殆ど保証されているからそれだけ自由があるのだが、そのほか二学年を飛び越えた影響や指導がありえた。ぼくは同期の予科生の中でそういう影響・指導を受けることが最大であったと思い、そういう上級生たちに感謝している。とくにかれらが逮捕・除籍・応召・戦死という道を辿らされたり、戦後社会でも失意のうちに世を去ったことを考えれば、「おかげでここまで」という思いは消えない。
ぼくが入学した時、東京商大はいわゆる白票問題で揺れていた。寮生大会、学生大会が繰り返され、図書館の塔からは「なんじ一橋を愛するや学問をせよ」と大書した垂れ幕が下がっていた。寮では上級生が「17歳でこういう流れの中にいるなんて、素晴らしいと思わないか」と語った。たしかにそういう流れの中で啄木を愛する文学少年が、社会的に目覚めていくわけである。目覚めの思想をマルクス主義といってしまえば簡単だが、これはすでにマルクス個人を超えてしまっている。
他方で加藤は1939年に一高を卒業してから一年おいて医学部に入学し、43年に年限短縮によって繰り上げ卒業ということになる。この年はいうまでもなく学徒出陣の年であり、理系の学生は免除されたのだが、加藤は卒業したのだから、このことに関係がない(ぼくはそのときすでにジャワにいた)。医学部時代の加藤については、ラテン語、フランス語およびフランス文学の学習が伝えられている。これについては『羊の歌』に「仏文研究室」という一節がある。その中で加藤が「私が一番強い影響を受けた」としている渡辺一夫は、人民戦線反ファシズムのフランス文学を教えることによって、社会的目覚めを促したのではないかと思うのだが、さしあたってはその証拠はなく、1942年のマチネ・ポエティクの結成が記録されている。
戦後、彼らは「国内亡命組」と呼ばれ、彼らが「軽井沢でまがりなりにも知的生活を送っていたのに対して、一方は戦地でフランス語はおろか日本語の本すら全く読まずに数年を過ごした」戦地組と対比されたのだが、戦地組の中には一中での親友矢内原伊作がいた(『矢内原伊作詩集』1994あとがき)。卒業後何十年かたって、名古屋の九条の会で初めて加藤と言葉を交わした時、「ご学友なんて言われちゃってね」というぼくに対して、加藤は「あなた私より上?」と返し、ぼくが「下ですよ、下。矢内原とは毎日会っていたけどね」というと、彼は「ああ矢内原か、あいつ何かやると思っていたけれど何もやらなかったな。人間ってそういうもんなんだな」とつぶやいて終りになった。
加藤の眼覚めを決定的にしたのは、敗戦直後の1945年10月に、日米「原子爆弾影響合同調査団」に参加して広島に滞在したことだと思うが、その前の、医学生としての加藤について疑問が生じた。それは『加藤周一幽霊とかたる』の中の、加藤の源実朝評価についてである。実朝は26歳で殺され、加藤もぼくも、26歳まで生きながらえて敗戦を迎える。それまでに滅びの予感はいたるところにあったわけで、ぼくもそのころ、新古今集の「死」の観念についての共感を書いた覚えがある(一橋文芸1940・12)。映画の中の加藤の実朝評価は、かれの『日本文学史序説』の抜書きみたいなものだから、その限りでは異議がないのだが、これが26歳の医学生加藤のものだったとされると、引っかかるものがある。加藤がほめる実朝の海の歌は、「われてくだけて砕けて裂けて散るかも」も「沖の小島に波のよる見ゆ」も覚えているが、同時に覚えているのは「山は裂け海はあせなん世なりとも君にふたごころわがあらめやも」という、右大臣源実朝の忠誠の歌である。海の歌をほめた時、加藤の目は天皇制に届いていなかったのか。
敗戦の混乱からわれわれが立ち直って、知識人あるいは文筆家としての職業意識を持つようになるのは、早くて47年だろう。加藤は共著『1946文学的考察』(1947)を出版したが、文筆家として自覚したのは、1950年に「日本の庭」を『文芸』に書いた時だとしている。その間、『近代文学』の1947年7月号に巻頭論文IN EGOISTO’Sを書き、ぼくは傍線をひいて読んでいるから、同感したのだろう。その前の4月号には、マチネ・ポエティク作品集の中に加藤の「妹に」という詩がある。渡辺一夫は加藤がそれより早く『近代文学』の1946年5月号に、「ジャン・ゲーノー」を書いたとしているが、確認できなかった。これはむしろ一年後とした方が、鎌倉文庫発行の『人間』の1947年9月号に彼が書いた、フランス人民戦線の機関誌『ユーロープ』の紹介(革命の文学と文学の革命)とまとめて考えやすい。加藤はこの時点で、フランス人民戦線支持の立場を明確にしたのである。ゲーノーは労働者出身の文学者で、人民戦線そのものと言われた人物である。『近代文学』の47年4月号には、「平和革命とインテリゲンチャ」というかなり長い座談会記録があって、加藤はそこで荒・佐々木・花田・埴谷・日高・福田を相手にフランス知識人の状況を紹介するとともに「根底的な個人主義」を説いている。手元に残されている『人間』1949年5月号に、加藤が「連載第5回ある晴れた日にⅡ」という小説を書いているが、全体の構造も性格もわからない。
ぼくは講談社の『群像』の1947年10月号に「文学的ヒューマニズムの性格」を書いて、ドイツ文学の内面的なるものを批判した。その終りに近い「近代的自我は、なにゆえに、政治とは別な内面的なものとして、また苦悩として、否定面においてのみ理解されなければならないのだろうか」という言葉は、その後の比較思想史の出発点を示すものといえよう。この小論にみられるドイツとイギリスの比較(イギリス思想によるドイツ思想の批判)という視点は、やがて留学地でロイ・パスカル論文に力を得ることになる。ぼくはその年の11月に、学生時代に訳したアダム・スミスの法学講義を高島・水田共訳で出版する。1949年末に、ぼくは名古屋大学法経学部助教授になり、翌年から経済学史と社会思想史の講義を始めたが、54年夏から56年春にかけて、ブリティシュ・カウンシル(管轄はイギリス外務省)留学生として主としてグラーズゴウ(およびロンドン)に滞在することになる。
加藤の方は1951年10月から55年10月まで、フランス政府の半給費(自費)留学生としてパリに滞在する。この留学で加藤は青年文筆家としての地位を確立したのだが、それは一つの賭けでもあった。「私にとっての問題は、必要な金を作ることができるかどうかということであった。私は昼夜兼行で翻訳して旅費を作り、行先から地方新聞に通信を送ってその稿料を生活費にあてることにした」と彼は書いているが、昼夜兼行の翻訳は誤訳だらけといわれても、この強引な計画が成功してしまったのである。(翻訳の水準は、ぼくが1949年に出したホッブズの『リヴァイアサン』も似たようなものだった)。何がそれほど売れたのか。地方新聞への通信にしても、フランスの滞在費をカヴァーするほどの稿料になったとは、全く驚きである。
しかし、振り返ってみると、今でもそうかもしれないが、特に戦後間もないころは、日本の読書会のフランス文化への憧れは、アングロ・サクスン系文化への関心を完全に圧倒していた。鎌倉文庫発行の『ヨーロッパ』という雑誌の創刊号(1947.5.1)と第2号(1047.6.1)の内容は、カール・レンナーの賃金論、ヨゼフ・ロゲンドルフのカトリック文化論を除けば全部フランス系である。ドイツは敗戦国で、イギリスはヨーロッパではないにしても、逆にフランスがヨーロッパのすべてではないのである。この傾向は、これより早くスタートした『世界文学』においても全く変わりがない。このフランス熱が加藤の財政計画を成功させ、そのおかげで彼は、1951年10月から約5年間、フランス国内で自由に移動しながら、医学の研究と文化の吸収を続けることができた。ほぼ同じころ、矢内原伊作もフランスにいたはずである。サルトルとその周辺の戦後フランス思想の吸収と紹介ということでは、そのころの二人の間には大差はなかっただろう。
ところで「昼夜兼行で翻訳して旅費を作り」というのを読んで気がついたのは、本誌でも取り上げたことがあるジャン・ゲーノの『フランスの青春』である。原書全七章のうち一章だけを渡辺一夫が訳して、加藤が46年に書いたとされるゲーノ論が添えられている。渡辺は自分の抄訳を加藤の論文が支えるかのように書いているが、主題への年期の入れ方が全く違うのだから、順序は逆だろう。そういう不自然さを感じていたのだが、1951年の出版であってみれば、留学費用のための金融出版と見て間違いあるまい。渡辺は賛助出演ということだろう。翻訳が渡辺のものなので、この本では誤訳だらけということはあり得ないだろう。
加藤のフランス留学が私費であったために自由があったとすれば、ぼくのイギリス留学は公募・試験制で、費用は完全にイギリス政府の負担であった。日本の為替管理は厳しくて、われわれは一文も金を持って行くことを許されなかった。それどころか、イギリス政府から支給されたさしあたっての船中雑費についても、返済の義務がないことを大蔵省に対して誓約しなければならなかった。国内の移動に制限はなく、研究上の必要からロンドンやオクスフォードの図書館に行くときは、旅費宿泊費は無条件で支給された。しかし奨学金はロンドンのバスの車掌と同じレベルであったから、私費旅行はきわめて限られていた。留学先がロンドンかオクスブリジであったなら、めずらしさもあって、広い交友が得られたかもしれないのだが、アダム・スミスの母校だからという理由で決めたグラーズゴウでは無理であった。そういっても、全体としてこの留学の成果を否定することはできないし、戦後の混乱期財政困難期の元敵国日本に対してこういう出費を続けたイギリス政府・国民に対する感謝の念は消えるべくもない。この完全イギリス国費留学の途中で、ストックホルムの世界平和会議に出席したいと言い出したので、ちょっとした騒ぎになった。イギリス政府は、それは共産党系の会議なので出国は自由だが帰国(再入国)は認めないというのである。時は冷戦の真っ只中であった。(次号へ続く)
初出:『象』67号2010年夏
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study345:101023〕
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