記憶障害とともに生きること
- 2013年 10月 31日
- 評論・紹介・意見
- エッセイ鎌倉矩子
人はたいてい、還暦に近づく頃から、“記憶”ということに無関心でいられなくなる。言おうとした人物の名や物の名が出てこない、物のありかを忘れて探し回る、「あれ、何をしようとしていたんだっけ」と自分の用事を忘れかける、といったことを、しばしば経験するようになるからである。こうした“もの忘れ”は誰にも起こる加齢現象であるから、周囲に寛容を願ったり、そのうち思い出すのを待ったりするほかはない。実際それで大過なく過ぎる。
一方、これとは別に、病気の症状としての「記憶障害」というのがある。この場合は事態が深刻で、数分前に聞いたことをきれいさっぱり忘れてしまう、ある人や物を見たかどうかさえ定かでなくなる、自分が話したことやしたことまで忘れる、などが起きる。
こうした症状は、脳の中の、記憶を司る神経ネットのどこかが損傷を受けたときに起きる。原因になりうるのは、脳出血、脳梗塞、アルツハイマー病のような脳の病気や、交通事故による脳損傷のような頭部の外傷である。あいにくこうした病気や外傷はかなり一般的なものであるから、「記憶障害」は、いつ誰の身にふりかかるともわからない運命だと言える。
思うに、記憶や記憶の力は、私たちの精神活動を支える芯棒のようなものではあるまいか。自分が自分だとわかっているのも、日々の課題を何とかこなしているのも、知人との交友関係を保てるのも、過去の自分の経験を覚えているからこそ、と思われる。
もしそうだとすると、記憶や記憶の力が損なわれた場合、その人の日々の言動はそれまでとどのように変わるのか、という疑問が生じる。その人は毎日をどのような気持ちで過ごすのか、とも思う。
こうした疑問に対する答えは、心理学や医学の参考書にはあまり見あたらない。最近30年あまり、記憶と記憶障害の研究は目覚ましく進歩したが、内容はもっぱら記憶の本態や脳内メカニズム、あるいはそれが損なわれた場合の病態の解明に集中していたからである。それは当然なのだが、私自身は“脳損傷者のリハビリテーション(作業療法)”をテーマとする人間であったので、こうしたことが気になった。
途中を省いて言えば、記憶の障害がある人の日々の言動と心模様を、一部にせよわかったと感じたのは、自分の母親との生活を通してである。
母は97歳のとき、記憶の障害を主な症状とする軽い認知症になった。
ある朝私が起きていくと、母はキッチンで、「わからなくなった、わからなくなった」とうろたえていた。いつもなら朝飯を作ってくれている時間である。「じゃあ、この鯵を焼いて」と頼むと、いきなりそれをガスレンジに直に載せる始末。「新聞を取ってきて」と頼むと、マンション1階の玄関ホールに降りて行ったが、そこから戻るドア操作を思い出せず、立ちつくしていた。
その日から母はしゃべらなくなり、ひたすら椅子に座って、俯いているひとになった。少ししか食べなかった。食卓の椅子でも、居間のソファーでも、ただそこに身を置き、俯いていた。その頃私は勤めていたので、食卓にひとり分の弁当を置き、母を残して出かけたが、帰宅してみるとやはりそこに、薄暗い中に座っていた。
2か月くらいすると、母は元気を取り戻した。「バカは治らないけど身体は元気になった」と言い、もはや“俯いている人”ではなくなった。病院へ連れて行くと、軽微な脳梗塞を起こしていたとわかった。すると母は、「私やっぱり病気だったんだね。どうも変だと思った」と言った。脳梗塞は小さいが、記憶の神経ネットの一か所を直撃したらしいということだった。
静かな日々が始まった。母は週に3日、通所デイサービスのお世話になり、あとの2日は自宅で、昼間をひとりで過ごした。明かりのスイッチを操作できない(スイッチ盤のありかがわからない、たとえ目前にあっても、どこを押せばいいのかわからない)ので、室内灯はつけたままにした。いつもの椅子に座り、私が椅子脇に準備した新聞や雑誌を見て過ごした。昼食は、これも私が準備した食卓上のものを食べた。冷蔵庫探しにうろたえるかもしれず、冷蔵庫の棚から目当ての品を取り出せるかにも不安があったので、「お昼ごはんは冷蔵庫にあります」のような、メモ方式をとることはできなかった。
母は落ち着いていた。状況を、不完全かもしれないが理解しているらしかった。テレビを一緒に見ているときなど、「(今日は)選挙だって。(お前は)行かないの」などと言ったものだ。情緒的にも以前と変わらなかった。料理が気に入れば「おいしい」と言い、紅葉狩りに連れ出すと、「ああ、きれいだねえ」と心から嬉しそうにした。
だがその紅葉狩りの日、レストランの入り口で転倒し、急遽近くの病院で手当てを受け、車椅子で帰宅するという大事件があったのに、翌日にはそのことを少しも覚えていなかった。包帯を見て、「私はどうして怪我をしたのだろう」とひとり訝ったものだ。
覚えていることもあった。食品や調理器具のしまい場所は思い出せないが、トイレへは正しく移動した。
ぼんやりした輪郭を覚えていることもあった。別件で別の病院を受診し、帰宅後に自分の腕に小さな絆創膏が残っているのを見て、「今日病院へ行ったのは知っているけど、注射されたのは知らなかったよ」と言ったのがその典型である。私が出張することになり、数日前にそれを予告した際も、同様のことが起こった(その間母はショートステイに行くことになった)。母は“その日”が来るまで、何回も何回も、「いつ出かけるの。何日泊まってくるの」と訊ね続けた。娘が近々出張するということは憶えているが、いつなのか、何日間なのかという細かなことは、それを告げられたことも、自分がすでに何回も訊ねたことも、全く憶えていないのだった。
やがて、厄介な問題が持ち上がった。「(食事の後の)茶碗は私が洗うよ!」と母が言いだしたことである。もちろん以前はそれをしていたのだが、“病気”になってからは家事いっさいをしなくなっていた。実際、できなかったのである。米を洗うのにも、お釜はどこ? お米はどこ? カップはどこ?と一々聞かなければならなかったし、食器を洗おうとすれば、油でギトギトしていようがいまいが、素手と水で洗っておしまい、という具合なのであった。こちらに任せてくれるほうが余程よいのに、母は、「何もしないで、毎日ただご飯を食べているだけなんて恥ずかしいこと」と言って聞かない。私が下手に手出し、口出しするとケンカになった。
母のプライドをまもるために、一計を案じる必要があった。
私は母と一緒にキッチンで食器を洗いながら、あるいはベランダで花鉢の植え代えをしながら、母の言動をつぶさに観察した。すると次のことがわかった。すなわち、母は“その作業に必要な用具を思い出すことができるが、必ずしも全部を思い出せるわけではない”、“何が必要かを思い出せても、そのありかを思い出すことはできない”、“眼前にある物(=見た物)ならそれが何であるか解る”が、“多くの物が並んでいる中から、必要な一品を選ぶのは難しい”、“「これ」はわかるが「あれ」はわからない”、だが“手にした用具はどれも正しく使う”、等々が明らかになったのである。
この観察を元に私は、母のための「食器洗い支援計画」をたてた。あらかじめシンクに、洗うべきものと必要品だけを置き、ひとつずつ、順次手渡すことにした。つまり、手袋を手渡しながら「はい、手袋をはめて」と言い、母がそれを手にはめるのを見届けてから「はい、洗剤」と言って洗剤を手渡し、母がそれを洗い桶に垂らすのを見届けてからスポンジを桶に入れ、「ここにスポンジね」と言い、母がそれを見るのを確かめてから、「ではお願いします」と言い、そして母が食器を洗いはじめるのを見届けたら立ち去る、ということにした。
計画は成功した。母は、私の誘導の後で自発的に下洗いを開始し、次にすすぎ、籠入れへと進み、洗い桶にあった食器の全てを滞りなく洗い終えた。試しに上の手順をはぶくと、たちまちにして混乱した。
2人の間に平穏が戻った。母のこの茶碗洗いは、数か月後の転居の時まで、ずっと続いた。
この時期の母に私が教えられたのは、結局次のようなことだったと思う。
・母にはまぎれもなく記憶障害があったが、しかし記憶の在庫がゼロになったわけではなかった。よくよく探せば、記憶と記憶力の名残りがそこここにあった。完全に壊れたのではないと気づいたことは、家族として嬉しいことであった。
・母の会話や行為はふつう、(記憶を元手として起こることはなく)、そのときそこにある人・物か、生理的欲求への反応として起こった(=そこにいる人と話し、そこにある物を鑑賞し、食べ、適切なタイミングでトイレに行くことができた)。このことは、病前の生活のある部分を、変わらぬかたちで引き継いでいけることを示した。
・母は、(記憶がだめになったと意識したのではなかったが、)アタマに異変が起こったという意識はしっかりもっていた。初期にはこれが衝撃としてはたらき、うつ状態になるほどであった。
・母は自尊心を失わなかった。「茶碗は洗うよ!」宣言は、自尊心の叫びと思われた。
もちろん母には、記憶以外の認知の障害が多少あった(たとえば多数選択肢から選べないというような)。すでに超高齢期に入ってもいた。その後の7年間に、母の“記憶在庫”はじわじわと減って行き、すべての精神活動が乏しさを強め、遂には帰らぬ人となった。だが冥界と現世を行き来した最後の時でさえも、母の中には、病んでいるという意識と、自分は子の親だという意識が、か細い糸のように残っていた。
「茶碗は洗う!」と言い張った母を思い出すとき、私の胸は、母へのいとおしさで一杯になる。
<’13.10.25記>
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〔opinion4666:131031〕
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